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第十章 返事の輪郭 ④ 書かれた「まだ」



 旧市場の床下から、三度の音がした。


 朝の荷入れが始まったばかりで、倉にはミエルとミウ、それから棚板を直していたファナがいた。


 一度目は、木材が乾いて鳴ったのだと思った。


 二度目で、ミウが床を見た。


 三度目の後には、誰も動かなかった。


「返し口の方です」


 ミウが言った。


 音は、以前に試験木片が戻った床下から聞こえた。等間隔ではない。合図として決めた一回、二回、三回のどれにも当てはまらなかった。


 ミエルは客を外へ出し、入口を閉めた。ファナが床板へ近づく前に、現在時刻と倉にいた者の名前を書いた。


「開けますか」


 ミウが尋ねた。


「先に人を呼ぶ。音がしたから開ける、をこの場所の決まりにはせん」


 ミエルはノエとルカへ連絡を送り、ファナには棚を動かさず、床の振動や匂いを確認するよう頼んだ。


 その間、音はもうしなかった。


 黒色化もない。床板の隙間から光や煙が漏れることもなかった。


 半刻後、ノエ、ルカ、ネラ、ガドが到着した。朔も来ようとしたが、マレアが階段のある倉内への立入りを止めたため、裏口近くの平らな作業場で待つことになった。


 床板を開けたのはガドだった。


 以前と同じように、最初は鏡を差し入れた。穴の中に人影はない。古い石溝と、返し口の浅い窪みが見える。


 その窪みに、油紙が一枚、折り畳まれて置かれていた。


「触る前に記録します」


 ノエが位置と向きを写し、ルカが寸法を測った。油紙の下に糸や針金は見つからない。ガドが長い木ばさみで持ち上げ、金網の箱へ移した。


 黒くはならなかった。


 だが、油紙の表には見覚えのある文字があった。


 ハル・ミナトへ


 その下に、


 トウマより


 さらに小さく、


 黒川朔が、トウマの許可により一度開封・内容確認済み。


 と書かれていた。


 手紙を包んでいた油紙だった。


***


 旧紙倉へ運ぶ前に、誰がその物を知っているかが確認された。


 リオは金網越しに見て言った。


「俺が持ってた包みに見える」


「同じ物ですか」


 ネラが聞く。


「まだ、そうは言えへん。文字と折り方は近い」


「包んだのは」


「俺と朔。ノエさんが記録した」


 ノエの携行記録には、油紙の大きさ、三回折ったこと、宛名の位置、運搬中に開かないよう糸を横へ一周させたことが残っていた。


 戻った油紙には、その糸がない。右下の一部が裂け、端には濡れて乾いたような波打ちがある。


 寸法は記録と近かった。宛名の字も、朔が出発前に書いたものと形が一致する。


 ただし、紙の一部が失われているため、元の寸法そのものではない。折り目も増えていた。


「高い一致」


 フェルが言った。


「同一物と確認、ではありません」


「はい」


 リオは金網の前にしゃがんだ。


「でも、俺はこれを持って、あの道を歩いた」


 自分の記憶として、それだけを答えた。


 ミエルが油紙の材質を調べた。市場で広く使われる品で、紙そのものは珍しくない。だが、油の混ぜ方と繊維の粗さは、手紙を包んだ際に彼女が出した一枚とよく似ていた。


「同じ束の紙である可能性は高い。でも、束には二十枚以上あった」


「宛名まで同じ別紙を作ることは」


「できます」


 朔が言った。


「俺の字を知る人が、写せば」


「道の向こうで見た者なら」


 ユイが続けた。


「もっと簡単に写せる」


「はい」


 油紙が複製である可能性。届けた物が戻った可能性。誰かが途中で同じ文字を書いた可能性。


 どれも、まだ残った。


 表側の記録が終わると、ネラは全員に確認した。


「内側を開いてよいですか」


 これは私信そのものではない。運搬用の包みだった。


 だが、そこに新しい文字があれば、それを誰が読むかという問題が生じる。


「宛名はハル・ミナトさんです」


 朔が言った。


「でも、これは手紙ではなく包みです。トウマさんは包みの内側へ何か書かれることを想定していません」


「書いた者が」


 ユイが言う。


「読んでほしくて戻したかもしれない」


「反対に、読まれることを望んだとは確認できません」


 フェルは中央の記録票を出さなかった。先に、この場で扱いを決めるためだった。


 ミエルが言った。


「床下へ戻ってきた物を、誰にも見せず閉じ込めるわけにはいかん。危険物かもしれんからな。ただ、中身を返事と決めて読むのも違う」


 結局、危険確認としてネラ、ミエル、ノエの三人が開くことになった。朔たちは同じ部屋にいるが、文字が見える位置には立たない。


 開いた三人が、すぐには何も言わなかった。


「危険な変化は」


 ガドが聞く。


「ありません」


 ノエが答えた。


「文字があります」


「いくつ」


「二文字です」


 ネラは他の二人と別々に紙へ書いた。


 三枚を伏せたまま、同時に表へ返す。


 まだ


 まだ


 まだ


 三人とも、同じ二文字を記録していた。


 朔の右膝が、痛みとは別の理由で固くなった。


「見ますか」


 ネラが尋ねた。


 宛名を書いたのは朔だ。だが、新しい二文字を書いた者ではない。


「見ます」


 油紙は開いた状態で金網の中に置かれた。


 内側の中央に、黒い文字があった。


 まだ


 朔が退避中に聞いたと記録した言葉。


 フェルが最後だけ明瞭に聞いた言葉。


 リオが翌日になって、そうだったかもしれないと思い始めた言葉。


 そして、朔が聞きたいと認めた言葉。


 今度は、音ではなかった。


 紙に書かれている。


「返事」


 ユイが言いかけ、止まった。


「言葉です」


 朔が答えた。


「誰かが書いた」


「はい」


「ヴァルハ?」


「分かりません」


「ハル?」


「分かりません」


「トウマへの?」


 朔は油紙の表と内側を見た。


「ハル・ミナトさんへの手紙を包んでいた物に書かれています。それだけで、トウマさんへの返事とは確認できません」


 ユイは少し不満そうに見えた。


「でも、何にも関係ない文字とも思えない」


「俺も、関係があると思います」


「思っていい?」


「はい」


 朔は、自分の胸に浮かんだことを隠さなかった。


「俺は、道の向こうで手紙を受け取った者が書き、返したのだと思いたいです」


「『返事は、まだ』の続き?」


「そう読みたいです」


「でも」


「読みたいことを、書いた者の意図にはしません」


 ネラはその言葉も記録した。


***


 文字の調査は、書き手の名前を探す前に、何が確認できるかを分けて行われた。


 顔料は普通の黒炭に近かった。黒色化した石や、経路内で見られた黒い流れとは反応が違う。水でわずかに滲み、布で擦れば薄くなる。


 魔法や祈りによる文字とは確認されなかった。


 筆記具は細い炭棒か、硬い木片に炭を付けた物と見られた。文字の形は整っていない。二文字だけでは、筆跡の比較に十分ではなかった。


「ハルの字と比べる?」


 ユイが聞いた。


 朔はすぐには答えなかった。


 ツヅリ村には、ハルが幼い頃に書いた物が残っているかもしれない。比較すれば、似ているかどうかは言える。


 だが、その比較はこの二文字を、最初からハルの筆跡候補として扱うことになる。


「今は依頼しません」


「どうして」


「書いた者を探すためではなく、ハルさんか確かめるための比較になりやすいからです」


「似てなかったら」


「ハルさんではないと、早く決める人がいます」


「似てたら」


「ハルさんだと決める人がいます」


「大人になったら字は変わる」


「はい。身体も、使った道具も、書いた状態も分かりません」


「じゃあ、ずっと比べない?」


「トウマさんと、ハルさんの文字を保管している人へ、何を確かめるための比較かを先に伝えます。許可を得られた時に考えます」


 フェルは中央へ送る速報を書いた。


 最初の案は、グラドが用意していた。


 ヴァルハから「まだ」との返書を確認。


「使えません」


 フェルはその場で線を引いた。


「返書じゃない?」


「返事として書かれたことも、ヴァルハが書いたことも確認していません」


「では、返却物」


 書き直す。


 旧市場返し口から、ハル・ミナト宛て私信の運搬用包みと高く一致する油紙様物が出現。内側に「まだ」の二文字。


 その下に、確認できていない点を続けた。


 同一物性、経路、筆記者、筆記時刻、宛先、返答意図は未確認。


「長い」


 グラドが言った。


「必要です」


「見出しは」


 フェルは少し考えた。


 返し口から「まだ」と記された油紙様物


「ヴァルハは」


「見出しに入れません」


「ハルも」


「入れません」


「私信との関係は」


「本文に書きます」


 中央が望んでいるのは、次の踏査を正当化できる短い返事だった。


 だが、書かれた「まだ」は、後で来いとも、待てとも、返事を続けるとも書いていない。


「再接触の根拠には」


 イサラが確認する。


「しません」


 朔が答えた。


「夢のPENDINGとの一致は」


「一致ではありません。俺が意味を近づけて読む可能性があります」


「退避時の発話とは」


「同じ言葉だった可能性はあります」


「書いた者が、あの場の声の主なら」


「まだ確認していません」


 グラドは不満を隠さなかった。


「これほど情報が揃っても、何も進まないように見えます」


 ガルが答えた。


「進んどる」


「何がです」


「前は、音だけやった。今は、紙に『まだ』ってある」


「なら、返答として」


「誰の返事か分からん」


 ガルは油紙を見た。


「分からんことが減ったんやなくて、分けられることが増えた」


 音として聞いた「まだ」。


 睡眠中の表示として見たPENDING。


 油紙に書かれた「まだ」。


 三つは似ている。


 だからこそ、同じ一つの返事へ重ねなかった。


***


 トウマへ知らせるかどうかも、その日のうちには決めなかった。


 トウマは、朔の睡眠中の表示を詳しく読みたいか、まだ回答していない。その上へ新しい「まだ」を重ねれば、選択する前に内容を増やすことになる。


「でも、トウマの手紙の包みかもしれない」


 ユイが言った。


「はい」


「本人に関係ある」


「あります」


「知らせないのは」


「知らせる範囲を決めています」


 朔は、トウマへ出した照会が届く前に、今回の物について別の質問を送ることにした。


 具体的な二文字は、まだ書かない。


 ハル・ミナトさん宛ての手紙を包んでいた物と高く一致する油紙様物が、旧市場の返し口から戻りました。


 内側に、新しく書かれた短い言葉があります。


 書いた人、書いた時、誰への言葉かは分かりません。


 その言葉を詳しく読みたいか、トウマさんが先に決めてください。


 前に送った睡眠中の表示についての問いと、今回の油紙についての問いは、別々に答えられるよう番号を付けた。


 一、睡眠中の表示。


 二、返し口から戻った油紙の言葉。


 両方読む。


 片方だけ読む。


 今は読まない。


 後で決める。


 どれも選べると添えた。


「二つが同じ内容かもしれないって、書かない?」


 ユイが尋ねた。


「それを知らせると、読む前から二つを一つへ近づけます」


「本当に同じだったら」


「読んだ後に、トウマさん自身が関係を考えられます」


「サクは同じだと思ってる?」


 朔は油紙の内側を見た。


「はい」


「何と何が」


「俺が聞いた『まだ』と、夢のPENDINGと、この文字が、同じ返事の周りにあるように感じます」


「記録する?」


「します」


 公式記録ではなく、朔自身の判断として書いた。


 黒川朔は、退避時に聞いたとする「返事は。まだ」、睡眠中に見た「RESPONSE:PENDING」、返し口から出現した油紙様物の「まだ」が、同じ出来事または返答に関係する可能性を感じている。


 続けて、


 三つの関係、発信者、宛先、意図は確認されていない。黒川朔自身が返答継続を望んでいることが、この関連づけへ影響した可能性がある。


 と書いた。


 署名する。


 黒川朔


 油紙は封印箱へ入れられた。


 表にはハル・ミナトの名がある。


 内側には「まだ」とある。


 けれど、その二つの文字をハルの返事にはしなかった。


 ヴァルハの返事にも、トウマへの返事にも、まだしなかった。


 今度の言葉には、音よりもはっきりした輪郭があった。


 紙があり、墨があり、二文字がある。


 それでも、声がなかった。


 名前がなかった。


 宛先もなかった。


 返事の輪郭は濃くなった。


 その分だけ、輪郭の内側に誰がいるのかは、前よりも分からなくなった。

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