第十章 返事の輪郭 ② 選ばなかった返事
ベラ・ソンがツヅリ村へ着いたのは、出発から二日目の昼だった。
雨で街道の一部が崩れ、荷車を置いて歩いた区間があった。封筒は油紙に包まれ、背負い袋の内側に入っていた。濡れてはいない。
村の入口で、ダンが彼女を止めた。
「誰に届ける」
「トウマさんです。不在なら、ダンさんかリーネさんへ渡すように言われています」
「送り主」
「黒川朔さん。同行者九名の知覚記録が入っていると聞いています。中は読んでいません」
「途中で開けた者は」
「いません」
「失くしかけたことは」
「一度あります。川沿いで足を滑らせました。身体を立て直してから、袋を確認しました」
「荷を先に守らなかった?」
「はい。身体が落ちたら、封筒も届きませんから」
ダンは少しだけ表情を緩めた。
「トウマを呼ぶ」
トウマは、畑の端から走ってきた。だが、ベラの前まで来ると急に速度を落とした。
「サクさんたちは」
封筒より先に聞いた。
「十人で入り、十人で帰ったと、表の添え書きにあります」
トウマはそこで一度、息を吐いた。
「怪我は」
「黒川朔さんの右膝が悪化したと聞いています。歩いて戻りましたが、途中で運ばれたとも」
「生きてる?」
「はい」
トウマは頷いた。それから、ようやく封筒を見た。
「俺に?」
「はい。あなた本人へ渡します」
「受け取ります」
ベラは両手で差し出した。トウマも両手で受け取った。
受領した者の名前を、ダンが紙へ書いた。
トウマ
家名は付けなかった。
***
封筒は、祈り場ではなく、リーネの家で開けた。
トウマがそこを選んだ。ハルのために祈る場所で読むと、書かれている言葉まで祈りの答えに見えてしまうかもしれない、と言ったからだった。
机には、トウマ、リーネ、ダンの三人が座った。ベラは届け終えたため、村の宿で休んでいる。
「誰が読む?」
リーネが聞いた。
「最初は俺」
「途中で難しくなったら」
「止める。分からない字だけ聞く」
「内容を説明してほしくなったら」
「その時に頼む」
トウマは封を切った。
一枚目には、大きな字で書かれていた。
十人で入り、十人で帰りました。
トウマは、その一文を二度読んだ。
次の紙には、ヴァルハと名乗った人影が現れたこと、朔が指定された言葉を一度だけ告げたこと、人影が「トウマ」「受け取る」と発言したことが記されていた。
手紙は平らな石へ置かれ、人影の手へ移った。
その人影を、ハル・ミナト本人とは確認していない。
ハルへ届けたとは記録しない。
トウマの唇が動いた。
「ちゃんと。そう書いた」
ダンは答えなかった。続きを急がせないためだった。
トウマは三枚目を読む。
退避の途中、人影が何かを発した。
聞き取りは一致しなかった。
朔は、
「返事は。まだ」
リオは、
「返事はしない」に近い
フェルは、
「まだ」のみ明瞭
セオは、
「返事は」まで明瞭。以後は崩落音と重複
ほかの者は、内容不明、聞き取れず、別の語を聞いた、と記録していた。
トウマは紙から顔を上げなかった。
「どれが、本当だと思う?」
ダンが聞いた。
「まだ分からない」
「どれを信じたい?」
今度は、少し長く黙った。
「『まだ』」
「なぜ」
「次があるから」
トウマは指先で、朔の記録の横をなぞった。文字には触れない。
「でも、それは俺が聞きたい言葉です」
「はい」
リーネが静かに答えた。
「サクさんも、そう書いてる」
朔の第二記録には、自分が返答の継続を望んでいること、その希望が聞き取りや記憶へ影響した可能性があることが記されていた。
リオの第二記録では、帰還直後には「しない」に近いと感じていたものが、翌日には「まだ」にも聞こえたように思う、と変化している。他者の証言と、トウマが返事を待っていることを知った影響かもしれないとも書いてあった。
「リオさんの耳が、あとで変わった?」
「耳ではなく、記憶が変わったと本人は考えているようですね」
リーネは、答えの内容ではなく、記録の読み方だけを説明した。
「最初の方が正しい?」
「それも決められません。最初から願いや恐れはあります。後から気づいたことが、最初の誤りを直す場合もあります」
「じゃあ、二回目も消さない」
「はい」
「最初も消さない」
「はい」
トウマは四枚の記録を自分の前へ並べた。
「『まだ』と『しない』は、反対?」
ダンが答えた。
「言葉としては、かなり違う」
「でも、どっちも返事を今は書かないことになる」
「そう読むこともできる」
「『まだ』は、あとで返すかもしれない。『しない』は、返さない」
「そうだな」
「でも『返事はしない』じゃなくて、『しないに近い』」
「はい」
「『まだ』も、フェルさんは『まだ』だけ」
「そうです」
トウマは、二つの言葉の間に空いた机を見た。
「前と同じだ」
「何が」
「ヴァルハとハルの間」
誰も、そこをすぐには埋めなかった。
「似てるけど、同じって決めない。違うって決めない」
「はい」
「今度は、言葉の間」
トウマは紙を戻した。
「俺は、選びません」
声は震えなかった。
「『まだ』を選ばない?」
リーネが確認する。
「選びたいです。でも、選びません」
「『しない』も」
「選びません」
「では、返事がなかったことにする?」
「それもしません」
トウマは、同封された要約を読んだ。
返事に関係する可能性のある言葉がありました。聞こえ方が分かれたため、一つの返事にはしていません。
「これでいい」
「難しくない?」
ダンが聞いた。
「難しい。でも、簡単にしたら、別の返事になる」
朔たちが遠い街で繰り返した言葉を、トウマは知らなかった。
それでも同じ場所へ、自分で着いた。
***
午後、村の者へ何を伝えるかを決めるため、ダンが数人を集めた。
既に、旅商人から別の噂が入っていた。
黒い勇者殺しがハルの手紙を受け取った。
ハルは生きている。
ハルは魔物になった。
勇者を殺した。
王都が討伐する。
どれも、ツヅリ村へ届いた時には、誰が最初に言ったのか分からなくなっていた。
「全部否定するか」
ダンが聞いた。
トウマは首を横へ振った。
「否定できないものもある」
「なら、何を言う」
トウマは朔から届いた記録を見ながら、自分で文章を作った。
黒い人影が、自分の名前をヴァルハと答えました。
その人影は、ハル・ミナトにあてた手紙を受け取ると言い、手紙を手へ移しました。
その人影がハル・ミナト本人であることは確認されていません。
返事に関係する言葉は、同行者によって違って聞こえました。
十人で入り、十人で帰りました。
「最後を先にした方がいいんじゃないか」
村の男が言った。
「どうして」
「一番安心する」
トウマは考えた。
「じゃあ、一番上にします」
紙の順番を変えた。
十人で入り、十人で帰りました。
その下へ、残りを置いた。
「ハルは生きてるって書かない?」
別の女が聞いた。
「確認してないから」
「死んだとも」
「書かない」
「待つの?」
「はい」
「いつまで」
トウマは答えられなかった。
代わりに言った。
「待つことと、ハルだと決めることは違います」
「戻ってきたら」
「本人に聞きます」
「戻ってこなかったら」
トウマは紙を見た。
「今は、そこまで決めません」
村の者へ見せる記録には、朔たち全員の知覚までは載せなかった。だが、希望する者が原記録の写しを読めること、その写しには個人ごとの違う聞き取りが書かれていることを、下へ加えた。
短い紙から、長い記録へ辿れるようにした。
トウマは最後に自分の名前を書いた。
作成:トウマ
確認者として、ダンとリーネが署名した。
内容を決めた者ではない。
読める形になっているかを確かめた者として。
***
日が落ちる前、トウマは一人で村の見張り台まで行こうとした。
リーネが後ろから付いてきた。
「一人で行きたい?」
「少し」
「では、私は下で待ちます」
「帰らなかったら」
「呼びます」
「名前を?」
「トウマ、と」
「ハルの声で聞こえたら」
リーネは立ち止まった。
「私の声か、先に確認してください」
「はい」
「私も、名前を一度だけ呼びます」
「返事しなかったら」
「近づきません。ダンを呼びます」
「分かった」
トウマは見張り台へ上がった。
ハルが消えた場所ではない。それでも、村の外へ伸びる道がよく見える場所だった。
空は暗くなり始めている。森の向こうは、もう輪郭がない。
トウマは朔の記録を一枚だけ持ってきていた。
「返事は。まだ」
裏返す。
リオの記録。
「返事はしない」に近い
どちらか一枚を持ってくることができなかったため、同じ紙の表と裏へ写した。
片方だけを上にすれば、もう片方は見えなくなる。
それでも、消えたわけではない。
「ハル」
トウマは呼びかけなかった。
代わりに、自分へ言った。
「俺は、『まだ』って聞きたい」
森は答えない。
「でも、サクさんが聞いたから、本当にそうだとも決めない」
風が、見張り台の板を鳴らした。
「『しない』でも、サクさんたちにもう行けとは言わない」
返事を確かめるためだけに、もう一度危険な道へ入らせない。
手紙を受け取ったことは、次の質問へ答える同意ではない。
トウマは、その部分も読んでいた。
「返事をしないなら。それも返事にしてって、俺が書いた」
けれど、何と答えたかは分からない。
「だから、今は分からない」
子どもの声は、森へ届く前に風へ混じった。
トウマは紙を折った。
どちらの言葉も内側へ入るように。
片方だけが表へ出ないように。
下で待つリーネのところへ戻ると、彼女は時刻を確認した。
「何をしましたか」
「二つの記録を読みました」
「何を聞きましたか」
「風と、板の音」
「ハルの声は」
「聞いてません」
「何を決めましたか」
トウマは少し考えた。
「返事を、まだ決めない」
「『まだ』を選んだ?」
「違います」
「では」
「決めないことを決めました」
リーネは頷いた。
「帰りますか」
「はい」
村へ戻る途中、トウマは転びかけた。リーネは腕を掴まず、手を差し出した。
トウマがそれを取ってから、支えた。
***
夜、トウマは朔への返事を書いた。
最初の一文は、迷わなかった。
十人で帰ってきてくれて、ありがとうございます。
次に、朔の膝を休ませるよう書いた。
その後で、聞こえた言葉について書いた。
俺は「まだ」の方を聞きたいです。
でも、俺が聞きたいことを、ヴァルハと名乗った人の返事にはしません。
「しない」に近く聞いた人の言葉も、消さないでください。
次の返事を聞くためだけに、もう一度行かないでください。
そこで筆を止めた。
次に手紙を送るか。
ヴァルハへ何かを問うか。
ハルの名をもう一度宛先へ書くか。
今は決めなかった。
最後に、短く加えた。
手紙を受け取った人が、読まなくてもいいです。
返事をしなくてもいいです。
でも、返事をするなら、その人が今答える名前で答えてほしいです。
署名。
トウマ
封はしなかった。
明日の自分が読み、変えたいと思うかもしれないからだった。
返事は書いた。
だが、まだ送るとは決めていない。
机の上には、表と裏に違う言葉を書いた紙がある。
「まだ」と「しない」。
トウマは、そのどちらにもハルの名前を付けなかった。
代わりに、確かに分かった一文を、もう一度読んだ。
十人で入り、十人で帰りました。
その文だけは、選ぶ必要がなかった。




