従三位
1178年[治承2年]11月
第80代・高倉天皇と平徳子との間に皇子が誕生、
言仁親王である
「言仁か・・・」
そう言う磯
その言葉には色々と思う所が集約されている
「滋子が生きていれば喜んだであろうにな」
「そうでございますねぇ」
磯の言葉に鈴も頷く
高倉帝の母は言わずと知れた建春門院滋子であり、言仁親王は滋子に取っては孫に当たる
病に倒れなければ孫の顔は見れた筈だ
「それにしてもあれから2年か、早いな」
「建春門院様が亡くなられからでございましょうか?、本当に時間が経つのが早いでございまするな」
「そうだな、滋子に孫の顔を見せてやりたかった」
「本当に」
しみじみと言う鈴に磯も時間の経つ早さを実感した
あれから2年・・・そう本当にもう2年経つのである
その同じ月、八条院邸に磯は呼ばれた
宮廷の警護武士である源頼政が従三位に叙せられたらしく、そのお祝の会を開くに当たって磯も招待されたのだ
それについては磯は余り乗り気ではなく、どちらかというと辞退したい気分だったが、主催の八条院暲子内親王のお誘いとあれば応じない訳にはいかない
実際の所、暲子内親王については非常に苦手意識を持っている
だから極力は会いたくない相手だが、貴族との交流はしておかなくてはならない
特に八条院は大きな力を持っているために機嫌を損なわせる訳にはいかないのだ
「何が悲しくて源氏の昇位の祝いに参加せねばならないのか・・・」
愚痴をこぼしつつも行く支度を整える
位階制度
それは日本の身分制度である
第33代・推古天皇の御代に制定された冠位十二階【推古12年[604年]】を始めとして、第42代・文武天皇の御代に制定された大宝令【大宝元年【701年】
第46代・考謙天皇の御代に施行された養老令【天平宝字[757年]】
第60代・醍醐天皇の御代に施行された延喜式【康保4年[967年】で完成され今に至る
現在の位階は30位の級が存在している
上から『正一位』『従一位』『正二位』『従二位』『正三位』『従三位』だ
この6つの位階は『貴』と呼ばれ『公卿』とも呼ばれる
三位とその下に当たる四位では明確な線が引かれ地位的に雲泥の差があった
次に『正四位上』『正四位下』『従四位上』『従四位下』『正五位上』『正五位下』『従五位上』『従五位下』の8つがある
これらは『通貴』と呼ばれ『諸大夫』とも呼ばれる
とはいえ四位や五位であっても参議に任じられている者や昇殿を許されている者もいて、そういった者達は諸大夫とは呼ばれてはいない
参議は基本的には三位以上の位を持つ者が任じられるが四位の者も任じられる事があり、四位の者は公卿とは呼ばれないが公卿には含まれる
三位と四位に大きな差があるのと同様に五位と六位の間にも身分的な大きな差がある
五位の下には『正六位上』「正六位下』『従六位上』『従六位下』の位がある
『士』と呼ばれる位階であるが通常この位からは『貴族』とはみなされていない
しかしこの六位階においては別名『侍』という言い方も一部ではされていて結構特殊な位置にある位階だ
次に六位以下の位を上げると
『正七位上』『正七位下』『従七位上』『従七位下』
『正八位上』『正八位下』『従八位上』『従八位下』
『正初位上』『正初位下』『従初位上』『従初位下』
となる
最下位たる初位については現在では殆ど与えられる事はなく、ただ有るだけの存在と化している
あと最高位の正一位についての話ではあるが、生前ではなくその死後に功績を称えられ与えられる事が基本とされ生前に与えられた者は殆どいない
位階は以上であるがこれに官職が加わってくる
官職とは役職であり、位階とは違うがまったく関係がない訳ではない
位階に応じて就ける役職が異なってくるからだ
これを『官位相当制』と呼ぶ
ちなみに磯も位階を貰える話が以前あった事がある
しかしそれは断った
高貴な出でもなければ支配階級でもない一介の白拍子にしか過ぎない人間が位階を持つのはどう考えても無理があるからだ
前例があるかと言われればそんなモノは無い
何より貰うと反発や嫉妬する人間もいるため京で生きるには非常に不利になる
身分は有るより無い方が有利に働く場合もある
それに有っても磯にとってはそもそも意味がないからだ
「や、ありがたき幸せでございまする」
鵺退治で有名なおじいちゃんである頼政は席で照れ臭そうに笑う
頼政この時75歳
宴には八条院以下関係のある人々が集まりわいわいと賑やかにやっていた
磯もまた愛想笑いを振り撒きながら酌などを行う
自ら『営業笑い』と呼ぶこの笑いは現在は弟子達の仕事の斡旋に非常に役に立っている
貴族の所に弟子を派遣させるには色々と立ち回らなくてはならない
もちろん磯の名前は知られているのでそれだけでも仕事は回ってはくるが、それはそれとして人間関係は良好にしておかなくてはならない
そう言えば今回の昇進の件については頼政の詠んだ和歌が効いたという
頼政は鵺退治だけではなく歌を詠むのもまた有名である
「のぼるべきたよりなき身は木の下に椎をひろいて世をわたるかな」
正四位止まりだった頼政は今回そう詠んだ
言わば「四位のままじゃ~、四位で生涯を終えそうじゃ~、四位じゃぞ?、分かっておるのか?、四位じゃ子孫にも誇れんわい、あ~四位四位…上に上がれんものかの~、この儂じゃ無理かの~」という皮肉を利かせた歌である
或いは頼政渾身の心の叫びか
とにかくその歌を聞いた清盛は吃驚した
長年に渡り宮廷に仕え、平家とも二人三脚で歩んできた頼政がまだ四位の位にいるとは…と
そして清盛の推挙により従三位の位に昇進したのだ
「いや~、はっはっはっ」
宴で豪快に笑う頼政
流石は鵺を退治した豪傑である、中々にしたたかだ
京の貴族の中では「歌が詠めずんば栄達はあらず」と冗談めかして言われている
それ程歌を詠める事は重要視されているのだ
たかが歌、されど歌である
教養や感性がモノを言う世界はそこに広がっていて、今回の頼政の昇進はまさにそれだ
歌は人の心を掴むのであり、動かすのだ
ちなみに今回の宴の中には八条院の宴ではお馴染みの似仁王は勿論の事、その他に磯の知らない顔も何人か混じっていた
その一人に美人であるが何やら暗そうな女性がいる
その女性の名は式子内親王という
父は後白河法皇であり、母は藤原成子である
八条院にとっては姪にあたり、内に引きこもってばかりいる式子を心配して今回引っ張り出してきたようだ
とは言え内親王が家内に籠もっているのは普通の事であり、表に出て常に宴や会を開いて賑やかに騒ぐのが好きな八条院が特殊と言えば特殊なのであるが…
あと似仁王と式子とは同父同母の実姉弟に当たる
式子内親王、御年30歳
平治元年[1159年]から嘉応元年[1169年]まで10年間、斎院として賀茂神社に奉仕していた
年齢で言えば11歳~21歳の頃に当たる
その後病気で退下した
斎王として有名な所では伊勢神宮の斎宮であるが京中だと斎院もまた同じぐらいに有名である
その起こりは第52代・嵯峨天皇の御世において第51代・平城上皇と嵯峨天皇との対立があった『薬子の乱』の時代に遡る
嵯峨天皇は勝利すれば皇女を阿礼少女として捧げると王城鎮守の神とされた賀茂大神に祈願した
その後、勝利した嵯峨天皇は皇女・有智子内親王を賀茂社に遣わした
これが斎院の始まりと伝えられている
以後は未婚の内親王等の中から卜定の占いによって選ばれ今に至る
ちなみに皇女はその多くが未婚でその生涯を終える事が多い
皇女の結婚相手は四世以上の皇親に限ると定められていたからである
つまりは身分が高すぎて嫁ぎ先がないという事だ
しかし最近では臣下に嫁ぐという『降嫁』の例も無い訳でもない
しかしそれはあくまでごく少数の例外であり、まだまだ未婚が多いのが現状である
かくいう八条院もまた未婚であり、式子内親王もまた結婚をしてはいない
磯からすれば八条院も式子内親王も絶世とはいかないまでもそこそこ美人であり、もったいないとは思うが身分の差は覆せない
それゆえに地位や身分というものは厄介なものだと思うのだ
とはいえ一般人が良いかと言われればそれもまた食うや食わずやの生活を余儀なくされるためそれはそれで微妙な問題ではある
つまる所どちらが良いとも言えない
一番良いのは財ある一般の民が一番気楽で良いだろう事である
そしてそういう生き方を磯はしている




