嵐の予兆
チリーン……
微かに鈴の音が聞こえる
それがどこから聞こえてくるかは分からない
しかしどこからか聞こえてくる
その涼やかな音色を聞きながら磯は家にて昼食に白米を食べる
白米とは精製されたモノで一粒一粒が真っ白だ
本来これが食べられるのは貴族であり一般の民には手が出せない代物だ
しかし磯にとってはどうという事もなく手に入れられる
そもそも貴族ですら宴は別にしても御膳は基本的に朝夕しか取らないのに昼も食事を取る磯は贅沢の極みといっていい
治承三年[1179年]1月、久しぶりに奇人と会う
「磯殿~!!」
京中を散歩中に声を掛けられた磯
そのどこかで聞いた声に懐かしさを感じ、その声の主を見る
「お久しぶりです」
ニコニコとした顔で手を振るのは平時忠である
「久しぶりですね、時忠殿」
いつ以来か?
確か滋子の葬儀以来か…
時忠は今月『正二位』の叙せられ検非違使別当に就いた
とはいえこれが初めてではなく三度目である
検非違使とは令外の官と呼ばれ、京中の治安維持を担当、二官八省から独立していて官人の綱紀粛正を行っている
同じようなモノに弾正台があるが、こちらは現在は殆ど機能していない
『二官八省』の二官とは『太政官』と『神祇官』だ
『太政官』とは行政の最高機関で八省以下を統括する
『神祇官』は神祇を司り祭祀・祝部・御巫・卜兆等を管掌する
『八省』とは八つの省の事
『中務省』『式部省』『治部省』『民部省』『兵部省』『刑部省』
『大蔵省』『宮内省』の八つ
『二官八省』以外には『八省被官』『東宮』『後宮』『斎王』『軍事・警察』『令外の官』『地方官』などがある
検非違使の話に戻して別当とは長官の事を表し、検非違使の長の事だ
上からを『別当』『佐』『判官』『主典』
この三度目の検非違使別当に対して九条兼実は「物狂いの至りなり、人臣の所為にあらず」と非難した
それにしても久しぶりに会った時忠は相も変わらずだ
とはいえ滋子の死に多少は変わったといえなくもない部分はある
しかし思ってもみればこの奇人とも随分と長い付き合いになると感じた
始めて会った時はいつだったか?
確か平治元年ぐらいの頃だ
という事は…かれこれ20年近く前の事になる
「……」
お互いに年を取る筈だな…と
かつては磯にとって単なる奇人変人の馬鹿でしかなかった時忠も今や滋子の話が出来る数少ない内の一人になった
チリーン……
やはりどこからともなく鈴は鳴っている
今年に入ってそれはずっと続いていた
同年7月、清盛の後継者である平重盛が死去、亨年42歳
そして11月、度重なる後白河法皇の平家を無視した態度に清盛は数千機の兵を率いて上洛
法皇の人事により官についていた39名を解官
そして数名を追放した
それだけに留まらず清盛は法皇を鳥羽殿に幽閉
これにより院政は停止し、清盛の独裁が始まった
チリーン…
年の暮れ
磯が家でくつろいでいると、家の外のすぐ傍で鈴の音が聴こえた
今年になり遠くで聴こえていたその鈴の音
ずっと気になっていたが、それが家のすぐ外で聞こえたのである
磯は急いで外に飛び出した
それを奏でている者が何者なのかが知りたかった為である
「……」
玄関から飛び出し辺りを見渡した
すると一人の女後ろ姿が目に入る
「もし…」
その女に声をかける磯
すると女はゆっくりと振り返る
その姿は旅装束に市女笠、手には持鈴を持っている
そして振り返った女は枲垂を捲りその顔を見せた
「何か?」
顔を見た限りまだ10代中頃と思われる少女
「いや、最近鈴の音が聴こえるので気になっての」
「そうですか…」
「今年に入ってからだが、もしかしてソナタか?」
「はい」
「ふむ、ソナタは何故に鈴を鳴らす?、比丘尼にも見えんが?」
「いいえ、比丘尼です」
「何と?、それはすまぬな」
「いいえ、構いません
「しかしその鈴の音色は美しいな、実に心地よく耳に残る」
「これでございますか?」
そう言うとチリーンと鳴らしてみせた
「そう、それじゃ、実に良い」
そう言って音の余韻に浸る磯
それを見て少女は少し笑んだ
「これは私の家に代々伝わる鈴です」
「ふむ、そうか」
「そしてこの鈴にはある伝説があります」
「ほう、伝説とな?」
「はい」
「どのような伝説じゃ?」
「この鈴の音を聴ける者は生まれ持って大いなる幸がある…と」
「何と?、しかし鳴らせば誰にでも聴こえよう」
「あくまでも伝説でございます」
「なるほど」
「ではこれで」
「うむ、気をつけてな」
「ああ…そう言えば…」
「ん?、どうした?」
「嵐が近付いています、お気をつけ下さいませ」
「嵐?」
快晴の空を見上げ磯は怪訝そうに言う
「そんなものは来そうにないが?」
その言葉に少女は静かに微笑んだ
「それではこれで」
「うむ…いや、そう言えばソナタの名前は何と言う?、聞いておきたい」
「私は…人からは白比丘尼と呼ばれております」
「白比…」
磯が言いかけたその時、突然突風が巻き起こった
そして砂が舞い上がり、目の前の視界が遮られる
巻き上がった砂と埃が目に入りそうになり、堪らず磯は目を閉じた
「……」
そして少しして風が止む
そーと閉じた目を開く磯
すると少女の姿はその場から消えていた
周囲を見渡してもいない
「……」
何かはよく分からないが少女はいなくなった
暫くその場に突っ立っていた磯だったが立っていても仕方がないため家に入る
そしてその後、京中で鈴の音は一切しなくなった
これについては不思議な話がある
誰に聞いても『鈴の音』の事については知らないのだ
誰も聴いた事がないと
そんな筈はない
遠くから聴こえていたのだから誰も聴いた者がいないなど有り得ない
家の者達に聞いてもその日、家のすぐ外で鳴っていた鈴の音を誰も聴いていない
家には鈴も桜も静もその他の弟子達も使用人達もいた筈なのにである
「奇妙な話じゃな」
まるで狐につままれたようなその奇怪な体験に磯は首を捻るばかりだった
これで三章は終わりです。
『四章・源平争乱』は気が向いたら書きます。




