第9話:暴君の隠し事と、生涯投資の誓約書
国境での決着から数日後。帝都ヴァロージアは、かつてないほどの活気と光に満ち溢れていた。
ステラがもたらした純白の魔力は、帝国の隅々にまで行き渡り、枯れかけていた土地に緑を蘇らせ、冷え込んでいた街に温かな熱をもたらしていた。
かつて「亡国の無能」と蔑まれた少女は、今や帝国において「奇跡をもたらす神の遣い」として、民衆から熱狂的な支持を集めている。
だが、当のステラ本人は、そんな喧騒から離れた皇宮の執務室で、静かに眉をひそめていた。
「……レオンハルト様。これは、一体どういうことでしょうか」
彼女の目の前にあるのは、分厚いマホガニーの執務机。そしてその上で突っ伏すようにして眠ってしまった若き皇帝と、彼の手元から滑り落ちた一枚の羊皮紙だった。
ステラは、疲労で眠る彼に毛布を掛けようとして、偶然その書類を目にしてしまったのだ。
そこには、皇帝の正式な署名と国璽が押され、こう記されていた。
『遺言状。万が一、私レオンハルトの身に何らかの事態が生じ命を落とした場合、ヴァロージア帝国の全権、全領土、および国庫の全資産を、ステラへ譲渡する』。
それは、先の国境での戦いの直前に、彼が密かに作成していたものだった。
「……馬鹿な人」
ステラは、眠るレオンハルトの銀色の髪をそっと撫でた。
彼は「暴君」と恐れられながらも、その実、誰よりも不器用で優しすぎた。自分の命を削ってまで国の呪いを背負い続けてきた彼にとって、初めて自分を救ってくれたステラは、命に代えても守り抜くべき「信仰」の対象になってしまっていたのだ。
「……ん……ステラ……?」
不意に、レオンハルトが身じろぎをして目を覚ました。
寝ぼけ眼でステラを見上げ、それから彼女の手元にある羊皮紙に気づいた瞬間、彼の顔からサッと血の気が引いた。
「あ、いや、それは……!」
「見ました。そして、呆れましたわ」
ステラは冷ややかな声で告げ、レオンハルトの目の前で、その絶対的な効力を持つはずの遺言状を、ビリビリに引き裂いた。
「なっ……何をする! それはお前を守るための、最後の盾だったんだぞ!」
狼狽するレオンハルトに対し、ステラは細い指先で彼の唇を塞いだ。
「投資家として言わせていただきます。これは最悪の運用計画です。自分が死んだ後のことなど考えて、資産を丸投げするなんて無責任にも程がありますわ」
「ステラ……私は……」
「レオンハルト様。私は、あなたという『器』の強さと、その奥にある温かさに投資したのです。あなたが死んでしまっては、私の莫大な魔力を持て余してしまいます」
ステラは引き裂いた羊皮紙の破片を空中に放り投げた。破片は彼女の魔力によって光の粒となり、美しく執務室を舞う。
「私に国など残さなくて結構です。その代わり……あなたが生きている限り、私にずっと『利息』を払い続けてください」
それは、回りくどい彼女なりの、最大の愛情表現だった。
レオンハルトは目を見開き、やがて、堪えきれないといった様子で顔を覆った。彼の広い肩が、わずかに震えている。
「……お前という女は。どこまで私を狂わせれば気が済むんだ」
顔を上げたレオンハルトの瞳には、かつての孤独な暴君の影は微塵もなく、ただ一人の女性を激しく、そして深く愛し抜く男の熱情だけが宿っていた。
彼はステラの腰を力強く引き寄せ、自分の膝の上に座らせた。
「ステラ。お前が私に投資したというのなら、私はそのすべてを懸けて、お前を幸せにする。……もう、遺言状など書かない。お前を残して死ぬことすら、私自身が許さない」
「ええ。その覚悟でいていただかないと、困ります」
至近距離で見つめ合う二人。レオンハルトの大きな手がステラの頬を包み込み、誓いを立てるように、ゆっくりと、深く甘い口づけを交わした。
窓から差し込む朝の光が、二人の影を一つに溶かしていく。
一方その頃。
帝国の国境警備隊のもとに、一団の難民が保護を求めて押し寄せていた。
彼らは泥にまみれ、飢えと疲労で今にも倒れそうだったが、その服装はかつての魔法王国の貴族や高官のものだった。
「た、頼む……! 我々を帝国に入れてくれ! あの国はもう終わりだ。水も食料も底を尽き、魔物に怯えて眠ることもできない!」
みすぼらしい姿で懇願する元貴族たち。
その中には、かつてステラを「地味で無能」と嘲笑っていた者たちの顔もあった。彼らは、王太子ユリウスが魔石の暴走によって廃人となった後、完全に崩壊した王国から逃げ出してきたのだ。
警備隊長は冷徹な視線を彼らに向け、一枚の布告書を読み上げた。
「帝国は、不法な難民の受け入れを許可していない。……ただし。我が帝国の『国家筆頭魔力運用官』であられるステラ様より、特例の指示が出ている」
『ステラ』という名を聞いた瞬間、元貴族たちの顔に、後悔と絶望、そして僅かな希望が入り混じった無様な表情が浮かんだ。
「ス、ステラ様が!? おお、やはりあの方は慈悲深い聖女だ! 我々を許してくださるのだな!」
「勘違いするな」
警備隊長は、彼らの希望を容赦なく打ち砕くように、冷たく言い放った。
「ステラ様からの伝言だ。『王国の未払い負債はまだ残っている。帝国領内の荒野を開拓し、平民として一生涯を労働で捧げる覚悟がある者のみ、命だけは保証する』……とのことだ」
元貴族たちはその場に崩れ落ちた。
かつて彼らがゴミのように捨てた少女は、今や彼らの生殺与奪のすべてを握る、帝国の女帝とも言うべき絶対的な存在となっていたのだ。
華やかなドレスを着て優雅にお茶を飲むことも、魔法の恩恵に与ることも、もう二度とない。彼らを待っているのは、己の傲慢さを呪いながら泥に這いつくばる、果てしない贖罪の日々だけだった。
「さあ、選べ。ここで魔物の餌になるか、鍬を持って帝国の土に這いつくばるか」
帝国に下された圧倒的な敗北と、無慈悲なまでの完全なる「ざまぁ」。
そして、帝都の中心では、世界で最も強大な魔力を持つ二人の、甘く重い誓いの儀式が、誰にも邪魔されることなく始まろうとしていた。




