第10話:世界で一番美しい投資家と、甘すぎる最終決算
かつて、魔法王国と呼ばれたその土地には、もはや見る影もなかった。
乾ききった荒野に、重々しい金属の音が響く。
泥にまみれた粗末な麻布を纏い、ひび割れた手で鍬を振るっているのは、かつてこの国の王太子であったユリウスだ。
白髪交じりの髪は皮脂と泥で汚れ、落ち窪んだ眼窩の奥には、もはや何の光もない。
「おい、手が止まっているぞ! 貴様ら新入りは、今日の分の開拓ノルマが終わるまで水抜きだ!」
帝国から派遣された現場監督の怒号が飛び交う。
周囲で泥に這いつくばっているのは、かつてステラを嘲笑っていた王国の貴族たちだ。彼らは今や、帝国の最下層の労働力として、自分たちが腐敗させた土地を自らの手で耕すという果てしない負債を背負わされていた。
「あ、ああ……どうして、私がこんな……。私は、偉大なる王太子、だったのに……」
ユリウスは血の滲む手を見つめ、虚ろな声で呟いた。
彼らの野営地の隅にあるボロボロのテントからは、ルナの虚ろな笑い声が聞こえてくる。
彼女は魔石にすべての生命力を吸い尽くされた後遺症で、心が完全に壊れてしまっていた。泥団子を宝石だと思い込み、「私は聖女よ、皆私を崇めなさい」と一日中呟き続けているのだ。
ふと、ユリウスが重い首を上げて空を見た。
遠く離れた地平線の向こう。帝都ヴァロージアの方向の空が、夜であるにも関わらず、まるでオーロラのように美しく、神々しい純白の光に包まれていた。
それは、今日という日が、帝国における歴史的な祝祭の日であることを示していた。
「……ステ、ラ……」
ユリウスはその美しすぎる光を見つめながら、ついに膝から崩れ落ち、泥の中に顔を埋めて慟哭した。
自分が手放したものがどれほど尊く、どれほど途方もない価値を持っていたのか。その真実の重圧に、彼のちっぽけな魂は完全に押し潰されたのだった。
一方、その光の中心である帝都ヴァロージアの皇宮。
ステラは、壁一面の巨大な鏡の前で、静かに息を呑んでいた。
「ステラ様、本当に……本当に、この世のものとは思えないほどお美しいです……!」
周囲を取り囲むメイドたちが、感極まって涙を拭っている。
ステラが身に纏っているのは、帝国の最高級の魔蚕糸と、彼女自身の純白の魔力を織り交ぜて作られた、世界に一着しかない特別なウェディングドレスだった。
かつて王国で着せられていた、地味で惨めな灰色のドレスとは対極にある、圧倒的な美しさと気高さ。
ステラが少し動くたびに、ドレスの裾から細雪のような光の粒子がふわりと舞い散る。
コンコン、と扉がノックされ、入室の許可を待たずに扉が開いた。
「ステラ、準備は……」
そこに立っていたのは、正装である純白の軍服を身に包んだレオンハルトだった。
普段は威風堂々としている彼が、ドレス姿のステラを見た瞬間、完全に言葉を失い、入り口で石像のように固まってしまった。
「……レオンハルト様? もしかして、少し派手すぎましたか?」
ステラが不安げに首を傾げると、レオンハルトはハッと我に帰り、大股で彼女に歩み寄った。そして、壊れ物を扱うような手つきで、彼女の震える指先をそっと握りしめた。
「……違う。あまりにも美しすぎて、今すぐこの部屋に鍵をかけて、誰の目にも触れさせたくないという、私の独占欲と戦っていただけだ」
レオンハルトの正直すぎる言葉に、メイドたちが顔を真っ赤にしてそそくさと部屋から退室していく。
二人きりになった部屋で、レオンハルトはステラの手に深く口づけをした。
「初めてお前が私の前に現れた日、あの薄汚れた灰色のドレスを着ていたお前を見て、私は思ったんだ。この少女の本当の価値を理解できない愚か者たちから、すべてを奪い取ってやりたいと」
「ふふっ。私は奪われたのではなく、自らの意志で『解約』して、あなたのところに『投資』しに来たのですわ」
「ああ、そうだったな。私の、恐ろしく有能な投資家殿」
レオンハルトは優しく微笑み、彼女をそっと抱き寄せた。
「だが、今日からは『投資家』と『事業主』という関係すらも終わらせる。……今日からお前は、私の命そのものだ。私のすべては、お前のためにある」
「……レオンハルト様……」
彼の瞳の奥底にある、嘘偽りのない、ひたすらなまでの愛の深さ。
ステラは胸の奥が熱くなるのを感じながら、彼の広い胸にそっと顔を埋めた。
「私の方こそ、覚悟してくださいね。私の魔力も、心も、これからはすべてあなただけのものです。……一生涯、一番近くで愛という名の利息を払い続けていただきますから」
「望むところだ。お前がもうお腹いっぱいだと言うまで、甘やかしてやる」
壮麗な鐘の音が、帝都中に響き渡った。
それは、新たな女帝の誕生と、奇跡の始まりを告げる祝福の鐘だ。
「さあ、行こう。お前の帰る場所は、もう私の隣にしかない」
レオンハルトが差し出した手を、ステラは迷いなく、しっかりと握り返した。
皇宮の大バルコニーへ続く重厚な扉が開かれる。
外には、見渡す限りの群衆が、新しい皇后の姿を一目見ようと押し寄せていた。二人が姿を現した瞬間、帝都を揺るがすほどの割れんばかりの歓声が巻き起こる。
夜空には、ステラの魔力が打ち上げ花火のように咲き乱れ、レオンハルトの力強い腕が彼女の腰を抱き寄せる。
数十万人という民衆が見守る中、皇帝は世界で一番愛する女性のヴェールをそっと持ち上げ、その唇に、永遠の誓いを刻み込んだ。
(ああ……私の投資は、大成功でしたわ)
歓声と祝福の光の中で、ステラは心からの笑顔を咲かせた。
かつて魔力ゼロの無能と蔑まれた少女は、世界で最も強大な暴君の心を完全に制圧し、誰よりも幸せな皇后としての新たな人生を、今、華やかに歩み始めたのだった。




