第3話:皇帝陛下の不器用な過保護と、泥船の王国
帝国ヴァロージアの朝は、ステラが十年ぶりに迎える『痛みのない朝』だった。
ふかふかの天蓋付きベッドで目を覚ました彼女は、ゆっくりと身を起こした。いつも当たり前のように全身にへばりついていた鉛のような倦怠感が、欠片もない。限界まで魔力を搾取され、命を削るように息をしていた日々が本当に終わったのだと、実感する。
コンコン、と控えめなノックの音が響き、重厚な扉が開いた。
「おはよう、ステラ。その……よく眠れただろうか」
ひどく遠慮がちな声とともに現れたのは、この帝国の絶対権力者であり、昨夜『投資契約』を結んだばかりの若き皇帝、レオンハルトだった。
昨晩の恐ろしげな威圧感は鳴りを潜め、どこか所在なさげに視線を彷徨わせている。
そして彼の後ろには、数十人のメイドたちが、色とりどりの最高級ドレスや宝石箱を抱えてズラリと並んでいた。
「陛下、おはようございます。あの、その後ろの方々は……?」
「あ、ああ。お前が着の身着のままで国を出てきたと言っていたから、帝都で一番腕のいい仕立屋と宝石商を呼んだ。……すまない。女性がどのようなものを好むか分からず、とりあえず目に付いたものをすべて持ってこさせたんだが、気に入るものはあるだろうか」
少し頬を赤らめながら告げるレオンハルトの言葉に、ステラは目を丸くした。
ざっと見ただけでも、用意されたドレスは百着を優に超えている。どれも隣国の王家ですら簡単には手が出せないような、一級品の魔蚕糸で織られた最高級品ばかりだ。
「これ、全部ですか……? 私は昨日、契約を交わしたばかりの身です。ここまでしていただく理由がありません」
ステラが戸惑いながら言うと、レオンハルトは真剣な表情で歩み寄り、彼女の手をそっと握った。
「理由ならある。お前は私の命を救い、この帝国を『呪い』の脅威から解放してくれた、何よりも尊い恩人だ。お前に相応しい扱いをするのは、皇帝としての当然の義務であり……私の、個人的な願いでもある」
大きな手から伝わる温もりに、ステラの胸の奥がじんわりと熱くなる。
隣国では『地味な無能』と蔑まれ、灰色のドレス一枚しか与えられなかった。それがどうだろう。目の前の恐ろしくも不器用な青年は、世界中の美しいものをすべて彼女の足元に捧げようとしている。
「……ありがとうございます、レオンハルト様。では、お言葉に甘えて、一番似合うものを選んでいただきますね」
ステラがふわりと微笑むと、レオンハルトは一瞬息を呑み、さらに顔を赤くして「あ、ああ、好きにしてくれ」とそっぽを向いた。
暴君と恐れられる彼が、一人の少女の前でだけ見せる純情。それは帝国のメイドたちをも密かに悶えさせる光景だった。
その頃、ステラが去った魔法王国は、まさに泥船のごとく沈みかけていた。
「なぜ直らない! この無能どもが!!」
王宮の執務室で、王太子ユリウスの怒声が響き渡った。
彼の目の前には、砕け散った巨大な魔石の残骸が散乱している。王都を覆う防御結界の核となる特級魔石が、突如として限界を迎え、崩壊したのだ。
「で、殿下、お怒りを鎮めください! 魔石の修復には膨大な魔力が必要ですが、聖女ルナ様は昨夜から意識が戻らず……魔力供給が完全にストップしております!」
魔導師団長が青ざめた顔で報告する。
ルナはステラという『水源』を失い、空っぽになった自分の体から無理やり魔力を引き出そうとして、魔力枯渇による深い昏睡状態に陥っていた。
「チィッ! 使えない女だ。あれだけ聖女だと持て囃されておいて、肝心な時に倒れるとは!」
ユリウスは苛立ち紛れに机を蹴り上げた。
彼はまだ、根本的な真実に気づいていない。ルナが本物の聖女であり、ステラが無能であるという前提を疑おうともしなかった。今の状況はただの不運なトラブルの連鎖だと、己に言い聞かせているのだ。
「殿下! このままではあと三日で防壁が消滅し、魔物の群れが王都に雪崩れ込んできます! 早急に他国から魔力を買い付けるか、強力な魔石を調達しなければ!」
「……他国から調達だと? 魔法王国であるこの国が、他国に頭を下げるというのか!」
プライドの高いユリウスは顔を歪めたが、背に腹は代えられない。彼は地図の上に乱暴にナイフを突き立てた。
「……帝国だ。隣国であるヴァロージア帝国には、未発掘の魔石鉱山が多数あると聞く。あそこの皇帝は呪いで先が長くないはず。弱り切っている今なら、我が国の軍事力をちらつかせれば、魔石の無償提供に応じるだろう」
「し、しかし殿下。帝国は野蛮な武力国家。万が一交渉が決裂すれば……」
「黙れ! これは決定だ。直ちに帝国へ使者を送れ! 従わねば国境を越えて武力で制圧すると伝えろ!」
ユリウスは狂気じみた笑みを浮かべた。
自分たちの命綱を握っていた存在が、今まさにその帝国で『最愛の宝』として手厚く保護されていることも知らずに。
泥船の王国は、破滅という名の滝壺に向かって、自らその進行速度を上げていった。




