第2話:暴君が抱える負債と、規格外の投資家
帝国ヴァロージアの玉座の間は、氷のような冷たい静寂に支配されていた。
玉座に深く腰を掛ける若き皇帝レオンハルトの周囲には、誰も近づこうとしない。否、近づけないのだ。彼の全身からは、呼吸をするように濃密で暴力的な黒い魔力が漏れ出し、床の大理石をジリジリと焦がしている。
「……報告はそれだけか」
レオンハルトが低く掠れた声で問うと、十歩以上離れた場所で平伏していた宰相が、震える声で答えた。
「は、はい。国境沿いの魔物被害は増加の一途を辿っております。しかし、陛下にこれ以上の討伐をお願いすれば、お体の『呪い』が限界を迎えてしまいます」
レオンハルトは忌々しげに自分の両手を見つめた。
彼が『魔王』と恐れられる所以。それは、体内で無限に生成される魔力が暴走し、周囲の生命力を奪ってしまう特異体質にあった。
力を抑え込もうとすれば自らの内臓が焼き切れ、力を解放すれば国が滅ぶ。
若き皇帝は、圧倒的な力と引き換えに、孤独と痛みを抱えながら緩やかな死を待つしかなかった。
「……下がれ。少し、一人にしろ」
苦しげに息を吐き、玉座に背を預けたその時だった。
「あら。一人きりになってしまうのは、もったいないのではなくて?」
玉座の間の重厚な扉が、音もなく開いた。
近衛兵が何重にも警備しているはずの絶対防衛線を抜け、一人の少女が軽やかな足取りで入ってくる。
灰色の地味なドレス。しかし、その顔には恐れなど微塵もなく、むしろ値打ち物を品定めするような、自信に満ちた笑みを浮かべていた。
「何者だ。私の領域に踏み入れば、その体は一瞬で消し飛ぶぞ」
レオンハルトが警告とともに黒い魔力を威嚇として放つ。
普通の人間なら気を失うほどの圧だったが、少女――ステラは、立ち止まるどころか鼻歌交じりで玉座の階段を上り始めた。
「初めまして、レオンハルト陛下。私はステラ。先ほどまで隣国の聖女をやっておりましたが、不当な扱いに嫌気がさして退職いたしました」
「隣国の聖女……? 戯言を。お前の体からは、魔力の欠片も感じられない」
「ええ、私の魔力は少し特殊でして。体内に留めるのではなく、外部の器に『預金』する性質を持っているのです。……ちょうど、あなたのように大きくて頑丈な器を、探していたところでした」
ステラはついにレオンハルトの目の前まで歩み寄り、彼を蝕む黒い魔力に、素手で触れた。
「なっ、馬鹿な! 触れるな、死ぬぞ!」
レオンハルトが慌てて手を引こうとしたが、遅かった。
しかし、ステラの白い手は焼け落ちることはなかった。それどころか、彼女が触れた瞬間、猛り狂っていた黒い魔力が、まるで春の陽光に溶ける雪のように、スゥッと穏やかな透明へと変わったのだ。
「……これは」
「陛下の『呪い』の正体は、魔力の純度が低すぎるせいで起きる『目詰まり』です。莫大な魔力を生産できるのに、それを濾過するフィルターがないから暴走しているだけ」
ステラはレオンハルトの手を両手で優しく包み込んだ。
途端に、ステラの体から圧倒的な質と量を持った純白の魔力が流れ込み、レオンハルトの体内で暴れていた瘴気を瞬く間に浄化していく。
十年もの間、レオンハルトを苦しめていた内臓を焼かれるような激痛が、嘘のように消え去った。
それどころか、かつて感じたことがないほどの温かさと力が、体の奥底から満ちてくる。
「私のあり余る純白の魔力を、あなたの空っぽになった部分に全額投資いたします。これで陛下の体は安定し、本来の力を完全に制御できるようになるでしょう」
「お前は……一体、何者なんだ。これほどの力を、隣国はどうして手放した?」
驚愕に目を見開くレオンハルトに、ステラは悪戯っぽく微笑んだ。
「あちらの王太子殿下は、どうやら『数字の読み方』をご存知なかったようです。私はただ、自分の口座から全額引き出しただけ。……さあ、皇帝陛下。私と専属の投資契約を結びませんか? 利益は保証いたしますよ」
レオンハルトは、目の前の底知れない少女を見つめ、やがて腹の底から笑い声を上げた。
彼がこれほど晴れやかな顔で笑ったのは、皇帝に即位して以来、初めてのことだった。
「いいだろう、ステラ。お前の莫大な投資、この私が命に代えても守り抜き、何倍にもして返してやろう」
二人の手がしっかりと結ばれ、強力な誓約の光が玉座の間を照らした。
一方、その頃。
隣国の王宮では、異変が起きていた。
「おい、どうなっている! なぜ私の魔法剣が崩れ落ちるのだ!」
王太子ユリウスの怒声が響く。
彼の腰にあった国宝の魔法剣は、刀身がボロボロに崩れ去り、ただの鉄屑と化していた。
「で、殿下! 剣だけではありません! 王都の防壁を覆っていた結界魔導具の機能が、完全に停止しました!」
「なんだと!? ルナはどうした! 聖女の魔力を注ぎ込ませろ!」
青ざめる騎士の報告に、ユリウスは怒り狂って妹のルナを振り返る。
しかし、先ほどまで光り輝いていたルナは、今は床に這いつくばり、老婆のように荒い息を吐いていた。
「あ、ああ……光が、魔力が、出ない……どうして……お姉様の力が、流れてこないの……?」
王国の栄華を支えていた巨大な歯車が、たった一人の少女の不在によって、今まさに崩壊へのカウントダウンを始めようとしていた。




