第19話:血脈の買収工作と、揺りかごの守護者
深夜の皇宮、静寂が支配する寝室で、レオンハルトはステラの膨らみ始めたお腹を、壊れ物を扱うようにそっと撫でていた。
「ステラ、やはりこのベッドは硬すぎるのではないか? 明朝、南方の最高級羽毛をすべて買い占めさせよう。それから、城壁の警備兵をさらに一万人増員する」
「レオンハルト様、もう何度目ですか。過剰投資は破綻の元ですわ。……それに、あまり厳重にしすぎると、風通しが悪くなってしまいます」
ステラは苦笑しながら、夫の手の上に自分の手を重ねた。
彼の過保護ぶりはもはや帝都の語り草だが、その裏にある「大切なものを二度と失いたくない」という切実な怯えを、ステラは誰よりも理解していた。
だが、その「風通し」の隙間を縫うようにして、招かれざる客が音もなく部屋の隅に現れた。
「……お熱いことですな、皇帝陛下。そして、忌々しき血を引き継ぐ投資家殿」
レオンハルトが瞬時にステラを背後に隠し、枕元に置いていた魔剣を抜き放つ。
闇の中から現れたのは、銀色の仮面をつけた老修道女だった。彼女の纏う空気は、この世のものとは思えないほど冷たく、そして古い。
「……銀の蛇か。先代皇帝が根絶やしにしたはずの、太古の血脈崇拝者どもが、何の用だ」
レオンハルトの声は、これまでにないほど低く、殺意に満ちていた。
銀の蛇。彼らは帝国と王国が分かたれる前、この大陸を統治していた『古き神』の末裔を自称する秘密結社だ。
「用件は一つ。その腹の中にある『統合された命』を、我らの祭壇へ差し出しなさい。それはあなたたち個人の所有物ではない。大陸すべての霊脈を統括するための、神聖なる『鍵』なのですから」
「私の子供を、ただの道具呼ばわりするなんて。……聞き捨てなりませんわね」
ステラはレオンハルトの肩越しに、修道女を冷ややかに見据えた。
彼女の魔力眼には、修道女の背後にうごめく、数千年にわたる怨念と執着が編み上げた、どす黒い『負債の鎖』が見えていた。
「いいですか。投資の世界では、歴史が古いというだけで価値が認められる時代は終わりました。あなたたちが縋りついているその『神聖なる権利』とやらは、数千年の間に利息すら払えず、とうの昔に不渡りを出したゴミ同然の債権ですわ」
「黙れ、小娘! 貴様に何が分かる! この子が生まれれば、世界のバランスは崩れ、再び戦乱の……」
「戦乱を起こさせないために、私がこの子の人生を『完全買収(TOB)』したのです。……レオンハルト様、お願いします。この方の持っている古い契約書、物理的に破棄していただける?」
「喜んで。……我が子の眠りを妨げた代償は、貴様の魂でも足りんぞ」
レオンハルトが踏み込んだ瞬間、部屋中の空気が爆発的に膨れ上がった。
銀の蛇が放つ古い魔術は、物理法則を無視してレオンハルトの五感を狂わせようとする。だが、ステラが指先から放った純白の魔力が、夫の周囲に最強の『監査防壁』を構築した。
「……無駄ですわ。あなたの術式、構造が古すぎて、私の魔力の前では脆弱性が丸見えです」
ステラが魔力の流れを指先で弾くと、修道女が展開していた結界が、パリンとガラス細工のように砕け散った。
レオンハルトの剣が修道女の仮面を真っ二つに叩き割り、彼女の正体を露わにする。
「……な、何故だ……何故、神の力が、たかが人間の少女に……」
「神の力? いいえ、これは『愛』という名の、世界で最も不確実で、かつ最強の資本ですわ」
修道女は血を吐きながら闇へと消えていったが、その断末魔の叫びは、皇宮の地下深くに眠る『何か』を呼び覚ます合図となった。
地響きが城を揺らす。
ステラは咄嗟に自分のお腹を守るように身を屈めた。
「ステラ! 丈夫か!」
「……レオンハルト様。どうやら、本当の『最終決算』が始まったようですわ。……地下の、先代たちが封印した『旧文明の負の遺産』が、私たちの子供の鼓動に共鳴して目覚めようとしています」
ステラが見つめる床の先、皇宮の地下深くから、黄金色の光が漏れ出していた。
それは、かつての合併契約を白紙に戻すための、強制的な清算プログラムの起動を意味していた。
「……面白い。全財産を懸けてでも、お前とこの子を守り抜いてみせる。……ステラ、私の背中に隠れていろ。ここからは、皇帝としての私の『仕事』だ」
「いいえ、レオンハルト様。……家族経営の第一歩は、困難を二人で分担することですわ。……さあ、行きましょう。私たちの未来に、一切の未払いを残さないために」
二人は手を取り合い、光り輝く地下への階段を駆け下りた。
そこには、帝国の建国以来、誰も目にしたことのない『真の玉座』と、それを守る太古の守護者が待ち構えていた。
ステラの妊娠という最大の慶事の裏で、帝国の歴史そのものを担保にした、史上最大の防衛戦が幕を開けようとしていた。




