第18話:太古の合併契約と、ゆりかごの防衛線
エルフリーデが残していった小箱の底。そこには、二重底に隠された一枚の極薄い銀色の羊皮紙が眠っていた。
ステラが指先で微かな魔力を通すと、そこには現代の文字とは異なる、しかし投資家としての彼女には見慣れた形式の『契約条項』が浮かび上がった。
「……これは、ただの契約書ではありませんわ。帝国と王国、その両方の根源に関わる『相互合併契約(M&A)』の原典……?」
ステラがその内容を読み進めるにつれ、彼女の美しい眉が驚きで跳ね上がった。
かつてこの大陸を統治していたのは、一つの巨大な魔導文明だった。それが後継者争いによって、武力を司る『帝国』と、魔力を司る『王国』に会社分割されたのだ。
そしてこの契約書には、衝撃的な一文が記されていた。
『両国の正当なる血脈が交わり、新たな命が宿った時、分散された資産は再び一つに統合され、真の支配権が発動する』。
つまり、ステラのお腹に宿った新しい命こそが、帝国と王国のすべての利権を統合する「筆頭株主」になるということだった。
「……お姉様、お話があります。入ってもよろしいですか?」
不意に、部屋の隅の影が揺れ、一人の少年が姿を現した。
かつて王国でステラの世話を焼いていた、隠密部隊の少年・カイトだった。彼は王国崩壊後、ステラの手によって帝国の情報局へと再就職されていた。
「カイト。……そんなに顔色を変えて、どうしましたの?」
「王国の地下深くに封印されていた『真の王籍名簿』が、何者かによって持ち出されました。……犯人は、廃人同然だと思われていたユリウス元王太子の支持者たちです。彼らは、お姉様の子供が『王国の正当なる継承権』を奪うことを恐れ、先手を打とうとしています」
カイトの報告に、ステラの瞳が静かな怒りで冷たく澄み渡った。
自らの欲望のために国を滅ぼしかけた者たちが、今度は自分の子供の未来を「不良在庫」扱いしようとしている。
「……私のポートフォリオに、これ以上のノイズは不要ですわ。カイト、その者たちの背後関係をすべて洗い出しなさい。……資金源を断ち、彼らの『存在価値』を市場から抹消します」
「御意、皇后陛下」
カイトが再び影に消えるのと入れ替わりに、廊下から凄まじい勢いの足音が聞こえてきた。
「ステラ! 大変だ! 今すぐ城の周りに、物理無効の防壁を三重に張り巡らせることにした! それから、お前の食事を作る料理人は、今日から私が厳選した十人の毒見役をパスした者だけにする!」
現れたレオンハルトは、相変わらずのパニック状態だった。
彼はステラが手に持っている銀色の羊皮紙に気づくと、一瞬だけ皇帝の鋭い目に戻り、それを奪い取るようにして読んだ。
「……合併契約だと? 私の子供が、王国の負債まで引き継ぐ権利があるというのか。……ふざけるな。そんな面倒な権利、私が今すぐこの手で握り潰してやる」
「お待ちください、レオンハルト様。これはリスクではなく、最大の『リターン』ですわ」
ステラは夫の荒ぶる肩をそっと叩き、優しく微笑んだ。
「この契約を逆手に取れば、私たちは王国の残党が縋りついている『正統性』という名の株を、完全に無価値にできます。……彼らが拠り所にしている法を、私たちが新しく書き換えればいいのです。……それこそが、この子のための最高の『英才教育』だと思いませんか?」
「……お前という女は。……腹の中の子供と一緒に、私の理性まで買い叩くつもりか」
レオンハルトは呆れたように溜息をつき、それから愛おしそうにステラを抱きしめた。
彼の大きな掌が、ステラのまだ平坦なお腹にそっと触れる。
「分かった。お前の言う通りにしよう。……だが、防壁は張る。それだけは譲らん。……お前とこの子に指一本触れさせるくらいなら、私は何度でも暴君に戻ってやる」
「ふふっ。はい、頼りにしていますわ、マイ・パートナー」
二人の絆は、古の契約すらも上書きするほどの強固な資産となっていた。
だが、暗躍する王国の残党たちの背後には、まだステラすらも察知していない、ある『古い神格』の影が忍び寄っていた。
帝国の平和を揺るがす最大の敵は、外敵ではなく、太古から続く『血の呪縛』そのものだった。
ステラは、愛する家族と帝国の未来を守り抜くため、人生最大の合併交渉に挑もうとしていた。




