第11話 「霧中の弓」
矢が霧を切った。
先頭の武者の肩に刺さり、男が馬から落ちた。
続けて二本目。
三本目。
崖の上から矢が降り注ぐ中で、赤松の先鋒が一気に混乱した。
「上だ! 崖の上から射ている!」
「どこだ! 霧で見えないぞ!」
霧が、三郎たちを隠していた。
下からは崖の上がほとんど見えない。しかし三郎の目には、霧の薄いところから先鋒の動きがはっきりと見えていた。
三郎は矢を番え、引き、放つ動作を繰り返した。
感情はなかった。
的を定め、引き、放つ。それだけだった。
隣で源蔵も弓を引いていた。三郎ほどの精度ではないが、速かった。次々と矢を放ちながら、崖の端から端へと移動して、射る位置を変え続けた。
「大将、右の武者が崖を登ろうとしている」
「わかった」
三郎は右を向いた。
崖の斜面を、三名の武者が手と足を使って這い上がろうとしていた。
三郎は一名を射た。
残りの二名が止まった。
それでも登ろうとした。
もう一本。
二名目が斜面を滑り落ちた。
三名目が引き返した。
「よし」
源蔵が言った。
「大将の弓は化け物だな」
三郎は答えずに次の矢を番えた。
◆
先鋒の混乱が頂点に達した頃、後方から別の音が届いた。
太鼓だった。
低く、重い太鼓の音が、霧の向こうから響いてきた。
源蔵が耳をそばだてた。
「本軍の太鼓だ。進めの合図を出している」
「先鋒が足止めされているのに気づいていないか」
「霧が深くて見えないんだろう。後ろからは何が起きているかわからない」
本軍が前進を続ければ、先鋒との間で押し合いが起きる。
千五百の兵が、霧の中で身動きが取れなくなる。
三郎はそれを計算していた。
「もう少し待て」
「何を待つ」
「本軍が先鋒に追いついて、混乱が後ろまで広がるのを」
源蔵が少し考えた。
「……なるほど。混乱が大きければ大きいほど、引くのも時間がかかる」
「そうだ。今引けば、赤松はすぐ立て直せる」
三郎は矢を引き続けた。
目標を選ぶ基準は単純だった。
指示を出している者を狙う。声が大きく、周囲に命令している者。そういう者が倒れると、周囲の兵の動きが止まる。
それを繰り返した。
やがて後方の太鼓の音が変わった。
急に、早くなった。
「退けの合図だ」
源蔵が言った。
「先鋒と本軍が混ざって、前が見えなくなったんだろう。赤松が退く判断をした」
三郎は弓を下ろした。
手元の矢を数えた。
二十本持ってきた矢が、残り四本になっていた。
「引くぞ」
「追わないのか」
「追うな。矢が足りない」
源蔵が崖の端から身を引いた。
霧の中から、赤松軍の撤退の音が聞こえてきた。
馬蹄の音が遠ざかる。怒鳴り声が遠ざかる。
やがて、静かになった。
霧だけが残った。
◆
崖を下りると、荒木が走り寄ってきた。
「三郎様! 赤松が引きました!」
「見ていた」
「こちらの損害は」
「軽傷が一名。崖を登ろうとした赤松の兵に石を投げられた」
「赤松は」
「討ち取りは確認できていませんが、相当数が矢を受けています。倒れた木を取り除くのに手間取っている間に、後方と前方で押し合いになって、かなり混乱していました」
三郎は頷いた。
「倒した木はそのままにしておけ。赤松がもう一度ここを通ろうとしたとき、また使える」
「はい」
源蔵が横から言った。
「大将、赤松の本軍に、旗印が明らかに違う一団がいた」
「旗印が違う?」
「赤松の旗とは別に、白地に黒の丸の旗を持った部隊が本軍の後ろにいた。俺は見たことがない旗だ」
三郎は少し考えた。
「近隣の国人が援軍を出したか」
「可能性はある。ただし確証はない」
「調べてくれ」
「やってみる」
三郎は山道を歩き始めた。
城まで戻る道は長かった。
農民工兵たちが後ろからついてくる。
藤吉が三郎の隣に並んだ。
「三郎様、今日の仕事はいかがでしたか」
「十分だ。よくやった」
藤吉が嬉しそうに顔を崩した。
「倒した木が道をきっちり塞いでくれましたな。方向もばっちりで」
「お前の仕事は毎回正確だ」
「へへ、褒めていただくと次も頑張れます」
三郎はそれには答えなかった。
しかし藤吉は気にした様子もなく、後ろの仲間たちに声をかけながら歩いていった。
源蔵が三郎の隣に来た。
「あの旗の件、気になるか」
「赤松が援軍を得たとすれば、次は今日より多い数で来る」
「対応できるか」
「手がある」
「どんな手だ」
「まだ話す段階ではない」
源蔵が少し笑った。
「相変わらず話を最後まで言わないな」
「言う必要が出たら言う」
二人は並んで歩いた。
霧が晴れ始め、朝の光が山の木々の間から差し込んできた。
◆
城に戻ったのは、昼前だった。
左近が門のところで待っていた。
その顔を見て、三郎は足を止めた。
普段の左近と、顔が違った。
「何があった」
左近が深く頭を下げた。
「三郎様がご出陣の間に、赤松から使者が参りました」
「使者?」
「はい。書状を持参しております」
三郎は書状を受け取った。
広げた。
達筆な文字が並んでいた。
読んだ。
内容は短かった。
「大内三郎よ。夜盗同然の卑怯な真似はもうやめよ。男らしく正面から来い。さもなくば、領内の村を一つずつ焼き払う」
署名は「赤松道空」だった。
左近が言った。
「……脅しにございます。三郎様、これはいかが」
三郎は書状を畳んだ。
荒木が口を開いた。
「村を焼くとは……本当にやるでしょうか」
「やれる男だ」
三郎が答えた。
広間が静まり返った。
「しかし三郎様、では我らはどうすれば」
三郎は書状を机の上に置いた。
「使者はまだいるか」
「はい、城下で待たせております」
「帰らせろ。返事はいらない」
左近が目を丸くした。
「よ、よろしいのですか。返答なしでは」
三郎は書状を机の上に置いた。
「今夜中に、領内の全ての村人を山の奥へ避難させる。食料と家財を持てるだけ持って移動させろ。家畜も連れていけ」
広間が静まり返った。
左近が口を開いた。
「全村を……しかし三郎様、その人数となると」
「赤松が動くより先にやれ。空の村を焼いても、赤松には何の得もない」
荒木が息を呑んだ。
「な、なるほど。村人がいなければ、焼いても脅しにならない」
左近が、突然大きな声を上げた。
「な、な、なんと見事な……! 前代未聞にございます、三郎様!」
目に、みるみる涙が浮かんだ。両手を床につき、深々と頭を下げたかと思うと、すぐに顔を上げて洟をすすった。
「先ほどまでの不敬、平にご容赦を……! この左近、三郎様が策を仰るたびに肝が縮む思いにございますが、いつも土壇場で唸らされてばかりで」
三郎はその様子を横目に見て、何も言わなかった。
「それだけではない」
三郎は立ち上がった。
「避難させた村人に、山の中で仕事を与える。木を切る者、食料を運ぶ者、見張りをする者。遊ばせておく必要はない」
左近がしばらく三郎を見ていた。
それから深く頭を下げた。
「……承知いたしました。すぐに手配を」
左近が広間を出た。
荒木が静かに言った。
「三郎様。赤松の脅しを、そのまま返すのですね」
三郎は答えなかった。
机の上の書状を見た。
赤松は焦っている。
補給を断たれ、霧ノ峠で足止めされ、それでも正面から来られないから脅しを使った。
(追い詰められているのはこちらではない)
三郎はそう考えた。
「源蔵」
「なんだ」
「今夜は休め。明日、また頼む」
「何をする」
「赤松が次にどこから来るか、調べてほしい。あの白地の旗の正体も合わせて」
源蔵が頷いた。
「わかった」
三郎は立ち上がった。
「今日の働きに対して、全員に日当を払う。雪乃に計算させる。それだけだ」
家臣たちが一礼した。
三郎は部屋を出た。
廊下を歩きながら、次の手を頭の中で並べた。
赤松が動く前に、もう一手打てる。
問題はその手に、どれだけの時間があるかだった。
第11話 了
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