第10話 「霧ノ峠」
霧ノ峠の手前に着いたのは、夜の五つ(いつつ)を過ぎた頃だった。
松明を持てない。火を使えば居場所が知れる。
一行は月明かりだけを頼りに、山道を歩いてきた。
源蔵が先頭に立ち、三郎がその後ろに続いた。荒木の手勢十名と、農民工兵が二十名。鋸と鍬を担いだ男たちが、足音を殺して暗い山道を進んだ。
峠の手前で源蔵が立ち止まった。
手を上げた。
全員が止まった。
源蔵が三郎の耳元に口を寄せた。
「ここだ。道が左に曲がる手前の杉林。ここを塞げば、峠に入った先鋒が孤立する」
三郎は暗い中で地形を確かめた。
道の両側から山が迫っていた。杉の木が密集し、根元が地面にしっかりと張り出している。切り倒せば、道を完全に塞げる太さだった。
「何本要る」
「三本あれば十分だ。四本倒せれば、馬も越えられない」
「夜明けまでに終わるか」
「やってみるしかない」
三郎は振り返り、農民工兵の頭である藤吉を手招きした。
藤吉が無言で近づいてきた。
三郎が指で地面に簡単な図を描いた。どの木をどの向きに倒すか。根元をどこから切るか。
藤吉がじっと見た。
それから小さく頷いた。
「できます」
「音を抑えろ。木が倒れる瞬間だけはどうしようもないが、それ以外は静かにやれ」
「わかりました」
藤吉が男たちに手振りで合図した。
鋸を持った男たちが、音を立てないよう慎重に木に近づいた。
◆
夜が長かった。
三郎は道の脇に座り、崖の上を見上げながら待った。
源蔵が隣に腰を下ろした。
「大将は、なぜ弓を始めた」
「お前はなぜ刀を始めた」
源蔵が少し黙った。
「……生きるためだ」
「俺も同じだ」
「どんな師匠だ」
「うるさい老人だった。呼吸が乱れるたびに竹で背中を叩く」
「それで上手くなったのか」
「叩かれるのが嫌だったから、叩かれないように練習した」
源蔵が小さく笑った。
古傷が引っ張られて、片頬だけがゆがむ、あの笑い方だった。
「動機が不純だな」
「動機など何でもいい。結果が出れば」
「それが大将の考え方か」
「お前も似たようなものだろう」
源蔵が視線を落とした。
「……そうかもしれん」
しばらく、二人とも黙っていた。
木を切る音だけが、低く続いていた。
「源蔵」
「なんだ」
「前の主君の話を、もう少し聞かせろ」
源蔵が三郎を見た。
「なぜ今それを」
「暇だからだ」
源蔵が少し間を置いた。
「……悪くない主君だった。気前がよくて、部下の面倒をよく見た。ただ、名誉にこだわりすぎた」
「名誉のために死んだか」
「名誉のために、仲間を死なせた。本人は生き残った。それが一番たちが悪い」
三郎は何も言わなかった。
「俺はそれで出ていった。一緒に死んだ仲間の分まで生きてやろうと思って、銭のために動くようにした」
「銭は裏切らないか」
「払われる限りはな」
三郎は空を見上げた。
星が少しずつ減っていた。夜明けが近づいていた。
「お前は俺を信用しているか」
源蔵がしばらく考えた。
「銭を払う限りは」
「それ以外では」
「……まだわからん。ただ」
源蔵が三郎を見た。
「少なくとも、お前は仲間を名誉のために死なせようとはしない。それはわかる」
三郎は答えなかった。
「大将」
「なんだ」
「お前は、何のために戦っている」
三郎は少し考えた。
前の世界では、何のために働いていたのか。
会社のため。上司のため。締め切りのため。
気がついたときには、机に突っ伏して死んでいた。
「今は、領民が腹いっぱい食えるようにするためだ」
「それだけか」
「今はそれだけで十分だ」
源蔵がしばらく黙っていた。
それから前を向いた。
「……悪くない理由だ」
そのとき、藤吉が小走りに近づいてきた。
「三郎様。三本、切り込みが入りました。あとは押せば倒れます」
「倒す方向は確認したか」
「はい。道を完全に塞ぐ向きに」
三郎は立ち上がった。
空が、うっすらと白み始めていた。
「あと半刻で夜が明ける。赤松の先鋒が来る前に全部倒せ」
「わかりました」
藤吉が走り戻った。
源蔵が立ち上がり、弓を手に取った。
「俺は崖の上に行く。大将も来い」
三郎は黒漆塗りの大弓を担ぎ直した。
崖への道を歩き始めた。
背後で、最初の大木が地面に倒れる音が響いた。
鈍く、重い音だった。
山の中に、その音が吸い込まれていった。
◆
崖の上から、峠の入り口が見渡せた。
霧が出ていた。
夜明けの冷気の中で、白い霧が山の斜面を這うように流れていた。
源蔵が崖の端に腹ばいになり、下を見た。
「見えるか」
「見える」
三郎も端に寄り、下を確認した。
道を塞いだ木が三本、ちょうど道幅いっぱいに倒れていた。
藤吉の仕事は正確だった。
「赤松の先鋒は何人くらい来る」
「二百ほどだ。本軍の千五百より先に、道を確認するために来る」
「先鋒が詰まれば、後ろの本軍も止まる」
「道が一本しかないからな」
三郎は弓を手に取った。
矢を二十本、手元に並べた。
源蔵が隣に腹ばいになり、同じく弓を構えた。
「大将、一つだけ確認しておく」
「なんだ」
「今日は殺してもいいか」
三郎は少し間を置いた。
「……先鋒だけなら構わない。ただし、矢が尽きたら引け。深追いはするな」
「わかった」
霧の中に、音が混じり始めた。
馬蹄の音だった。
最初は遠く、しかし確実に近づいてくる。
やがて霧の向こうに、赤松の旗が見えた。
先鋒の兵たちが、隊列を組んで峠の入り口に向かってくる。
三郎は呼吸を整えた。
丹田に息を落とす。体から余分な力が抜ける。
先頭の武者が、倒れた木に気づいた。
「止まれ! 道が塞がれているぞ!」
叫び声が霧に響いた。
先鋒の隊列が乱れた。
その瞬間、三郎の右手が開いた。
第10話 了
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