第8話 「借りは返す」
19層。
水が壁を伝い、足元を流れている。
ランタンの光が水面に反射し、天井に波紋を映していた。
俺とレナとミラの三人。
壁に手を当てるたびに、ハイドラの痕跡が濃くなっていく。
巨体が壁を擦った音。水を撒き散らした振動。通路全体が震えた低い咆哮の残骸。
「大きい。通路いっぱいの幅だ。こいつから逃げるのは難しい」
つまり、20層で遭遇したら──正面から対処するしかない。
その時だった。
「カイル」
レナが立ち止まった。
「一つ聞いていい?」
振り返った。
レナの顔はランタンの光で半分だけ照らされていた。
剣の柄を握っている。いつもの癖──しかし、指の力が強い。
「あたしの借金、このダンジョンの踏破報酬で半分くらいは返せる」
そこまでは、そうだろう。上級ダンジョンの踏破報酬は初級の比ではない。
「でも──もしハイドラの亜種をあたしが倒せたら。あの手の素材は50万Gを超える。借金が一発で──」
「駄目だ」
即座に返した。
レナの目が光った。
「なんで。あたしの判断だろ」
「お前一人で勝てる相手じゃない。死ぬ」
「あたしの人生にあんたが口出すな!」
声が上がった。水の壁に吸い込まれず、通路に跳ね返った。
このダンジョンは音が消えない。レナの怒声が、何重にも重なって耳に届いた。
「借金があるかぎり、あたしは自由じゃない。あたしは──」
「レナ」
名前を呼んだ。
静かに。しかし、強く。
「お前が死んだら、誰が借金を返すんだ」
レナの口が止まった。
「お前の親父は、娘に死んでほしくて借金を残したのか」
沈黙が落ちた。
水が壁を伝う音だけが続いている。
レナが俯いた。
「……親父は、あたしに何も残さなかった」
声が低くなっていた。
「借金だけだ」
間を置いて、続けた。
「でも──あたしがガキの頃、剣を教えてくれたのも親父だった」
「なら、その剣で生き延びろ」
レナの目を見た。
「生きて返せ。死んで終わらせるな」
水の音が通路を流れていく。
ミラが黒板を差し出した。
『一緒に帰る』
三文字。
レナの目が赤くなった。
しかし涙は見せなかった。唇を噛んで、一度だけ深く息を吐いた。
「……借りは作らない主義なんだけど」
声がいつもより柔らかかった。
「行くよ。あんたの指示で」
※
20層。
壁に手を当てた。
残響を読む。
ガルドの剣の音が聴こえた。まだ振っている。しかしリズムが崩れている。連撃の間隔が長くなっている──体力の限界が近い。
エルダの足音。ガルドの背後を動いている。
そして──《治癒の手》の発動音。治癒魔法が対象に触れる時の、微かな共鳴音。
この壁に、その音が四回刻まれていた。20層だけで四回。一日の限度は五回だ。
「二人はまだ戦っている。だが限界が近い。急ぐぞ」
20層の大広間。
通路が開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは──水だった。
広間の床一面が膝下まで水に浸かっている。
崩れた柱が幾つも倒れ、その合間に巨大な影が蠢いていた。
ハイドラの亜種。
六つの首。
一本一本が成人の胴ほどの太さで、鱗に覆われた蛇の頭が水面から突き出ている。
全長──15メートルはある。通路を丸ごと埋め尽くす巨体。
その巨体の足元で、一人の男が剣を振っていた。
ガルド・ヴェスター。
フルプレートの鎧がボロボロだった。右腕のプレートが砕けて、生の腕がむき出しになっている。血が水面を赤く染めていた。
しかし──剣は握ったままだった。
その背後に、エルダ。
片膝をついている。両手をガルドの背に向けて、淡い光を──しかし、もう光は点滅を繰り返している。
「ガルド!」
叫んだ。
ガルドが振り返った。
その目に──驚愕が浮かんだ。
そして、別の何かが混じった。
三年間一緒にいたが、あの表情は初めて見た。何を意味するのか、読み取れなかった。
「なぜ──お前が──」
「話は後だ」
レナを見た。ミラを見た。
「レナ、右の首を斬れ。ミラ、目を狙え。俺が音でタイミングを読む」
《残響》を発動した。
壁に触れる。
過去数時間分のハイドラの攻撃パターンが流れ込んでくる。
6本の首は独立して動くが、規則性がある。
右から3番目の首が突く時、左端の首が引く。
中央の首が咆哮する直前、全ての首が一瞬だけ止まる。
同時に──現在の音にも耳を澄ませた。
水を打つ首の音。鱗が擦れる音。ガルドの剣が空を切る音。
過去と現在。二つの音の地図を重ねる。
「右から3番目の首──2秒後に突く。レナ、左に避けろ!」
レナが跳んだ。
水しぶきが上がる。ハイドラの首が突き出した鎌首を、レナの体が紙一重でかわした。
振り向きざま、首の根元に片手剣を叩き込む。
鱗が裂けた。
「ミラ──左端の首、今!」
ミラが弓を引き絞った。
《鷹目》は温存する。この先まだ何があるか分からない。通常の視力──しかし、獣人の視力は人間を超えている。
矢が放たれた。三本。立て続けに。
二本がハイドラの左目に命中した。
咆哮が広間を揺らした。
ハイドラが怯む。全ての首が一瞬、止まった。
──今だ。
しかし、俺の腕では中央の首には届かない。
この一撃を放てるのは──
「ガルド」
呼んだ。
ガルドが俺を見ていた。
膝が震えている。鎧がボロボロで、血が止まっていない。
それでも──剣を握っている。
「俺の──前に出るな」
低い声。プライドが、まだ折れていない。
「お前の剣が要る。俺の指示を聴け。一度だけでいい」
「ガルドさん──」
エルダの声が重なった。
いつもの敬語が崩れていた。
「──お願い、聴いて」
ガルドの顎が引き締まった。
歯を食いしばる音が、水音の中から聴こえた。
「4秒後に中央の首が下がる」
カウントダウン。
ハイドラの中央の首──核がある首──が態勢を変えようとしている。残響のパターン通りだ。
「4──3──2──」
ガルドが踏み込んだ。
水しぶきが爆発のように上がった。
「1──今だ!」
ガルドの剣が弧を描いた。
三年間、何百回と聴いた音。
あの太い、鈍い、しかし異様に鋭い──ガルドの全力の斬撃音。
中央の首が、切断された。
ハイドラの体が震え、崩れ落ちた。
六つの首が力を失い、水面に沈んでいく。
広間全体が水しぶきに包まれた。
静寂が戻った。
ガルドが膝をついた。
剣を床に突き立て、肩で息をしている。
エルダが最後の力を振り絞った。
両手をガルドの背中に当て、淡い光が──《治癒の手》。
光が灯った直後、エルダの体が傾いた。
魔力の限界を超えた。
俺はエルダに駆け寄り、倒れる体を支えた。
「もういい。お前はよくやった」
エルダの目に涙が浮かんでいた。
唇が動いたが、声にならなかった。
その右手の薬指は──どこにも触れていなかった。
嘘はない。
この涙も、この沈黙も、本物だ。
「全員、無事か」
声を上げた。
レナが水の中に座り込んで、大きく息を吐いた。
「……生きてる」
ミラが黒板を掲げた。水で滲んで読みにくいが──
『無事』
ガルドは膝をついたまま、何も言わなかった。
水が壁を伝い、天井から滴り落ちる音だけが、広間に響いていた。




