第6話 「それでも、耳を澄ます」
10層の先は、白い壁の迷路だった。
音を吸い込む壁。
自分の足音すら数歩先で消える。
まるで綿の中を歩いているような不気味さだった。
俺は壁には頼れない。
代わりに──空気を読んだ。
指を弾く。
爪が空気を切る小さな音。
壁が吸い込む前の、ほんの一瞬だけ反射がある。
その反射の角度と距離で、通路の幅と天井の高さを推測する。
簡易的なエコーロケーション。
精度は《残響》の半分以下だ。だがゼロではない。
「この通路、幅は約3メートル。天井は2メートルちょっと。大型のモンスターは通れない」
ドルクが頷いた。
「つまり、小型か中型が想定されるということですな」
「ああ。油断はするな」
11層に入った時だった。
空気が変わった。
風ではない。温度だ。
ほんのわずかに──生き物の体温が混じった空気が、前方から流れてきた。
「止まれ」
全員が足を止めた。
「前方にモンスターがいる。温度で分かる。数は──」
耳を澄ませた。
音は消えている。だが、呼吸は空気を動かす。
極微の気流の揺れを、頬の産毛で感じ取った。
「三つ。呼吸のリズムが三種類ある」
「避けられるか?」
レナの声。低い。もう臨戦態勢に入っている。
「……避けきれない。通路が一本しかない」
戦うしかなかった。
「レナ、正面の1体。ミラ、左の1体を弓で。ドルク、右の1体を受け止めろ」
通路を曲がった瞬間、薄暗がりの中に三つの影が見えた。
灰色の鱗。短い四肢。黄色い目。
石化蜥蜴──ストーンリザード。
中型のモンスターで、尾の一撃で人の骨を折る。
「行け!」
レナが飛び出した。
「やっと──あたしの仕事だ!」
片手剣が弧を描く。
蜥蜴の首に、一太刀。速い。借金に追われてDランクの依頼を受け続けていた女の剣は、Dランクの重さではなかった。
蜥蜴が崩れ落ちた。
左。
ミラが弓を引いている。目を細めている──《鷹目》は使っていない。通常の視力で狙っている。
矢が放たれた。蜥蜴の目に命中。悲鳴。二の矢が喉を貫いた。
右。
残りの一体がドルクに突進した。
「《硬壁》」
ドルクの左腕が灰色に変わった。皮膚が石化し、蜥蜴の体当たりを正面から受け止める。
衝撃音が通路に響いた──が、壁に吸い込まれて消えた。
5秒で石化を解除。ドルクが体を捻り、蜥蜴を壁に押しつけた。
レナが駆け寄り、横から一刀。
静寂が戻った。
「全員、怪我は」
確認した。全員無傷。
「無戦闘記録は途切れたけど」
レナが剣の血を拭きながら言った。息が上がっている。しかし、口元が笑っていた。
「まあ、悪くない」
「いや──俺の判断ミスだ。もっと早く気づければ回避できた」
「完璧を求めすぎるのは、投資家としては最悪の癖ですよ、カイルさん」
ドルクが左腕を振った。石化の名残で指がこわばっているらしい。
※
12層。13層。14層。
試行錯誤が続いた。
指を弾いて通路の幅を測る方法は、少しずつ精度が上がっていた。
だが、それだけでは足りない。
14層の長い直線通路で、ふと気づいた。
足音。
俺の前を歩く三人の足音が、壁に当たる前に──ほんのわずかに反射している。
壁が完全に吸収する前の、0コンマ数秒の反射。
それは《残響》で読む「過去の音」ではなく、「今この瞬間の音」だ。
レナの足音は重く、短い。片手剣の重さで前傾するから、踵が強く打つ。
ドルクの足音は規則正しい。商人時代の歩き方──等間隔で、無駄がない。
ミラの足音はほとんどない。獣人の肉球が石を叩く音は極微。だが──尻尾がある。長い尻尾が歩行のバランスを取る時、壁に触れる。その微かな音がある。
三人の音。
その反射の返り方が、通路の形によって変わる。
天井が高ければ、音の返りが遅い。
通路が狭まれば、反射が早くなる。
分岐点があれば、音が分散して返りが弱くなる。
仲間の足音を、通路の形を測る「音源」として使える。
「全員、そのまま歩いてくれ。歩調を変えるな」
「どうした?」レナが訊いた。
「お前たちの足音が教えてくれる。通路の形を」
レナが振り返った。怪訝な顔だったが、そのまま歩き続けた。
聴こえる。
レナの足音が壁に当たり、俺の耳に届くまでの時間が──0.3秒短くなった。
通路が狭まっている。
「前方、通路が狭くなる。大きい個体はいない。進め」
※
15層。
ここで問題が起きた。
「ミラ。《鷹目》は何回使った?」
ミラが黒板に書いた。
『4回』
合計使用時間は短いが、連続使用の間隔が短かった。
次に使えば──反動が重なる。
「次の索敵はお前に頼みたいが──」
ミラが黒板を裏返して書いた。『使う』。即答だった。
「ミラ」
ミラが黒板を消し、もう一度書いた。『使う』。
銀色の耳がぴんと立っている。
結局、ミラは《鷹目》を発動して前方50メートルの通路構造を確認した。
罠が二つ。モンスターの影は一つ。
60秒が切れた瞬間、ミラの足元がふらついた。
黒板に書いた字が震えていた。手がうまく動いていない。疲労が蓄積している。
『10分、見えない』
俺はミラの横に立った。
「目を閉じていい。俺が聴いている」
ミラの耳が倒れた。
それから、ゆっくり起き上がった。
小さく頷いて、目を閉じた。
※
15層から20層。
俺がミラに代わって先導した。
仲間の足音と、呼吸と、空気の流れ。
それだけを頼りに、罠を三つ回避した。
モンスターとの遭遇は二回あったが、レナとドルクの連携で処理できた。
ドルクの《硬壁》は11層で一度発動。5秒。残りは7秒。温存できている。
20層。最深部。
ダンジョン核が台座の上で青白く光っていた。
俺が手を伸ばし、核に触れた。
光が消え、ただの石になる。
踏破時間、6時間30分。
戦闘3回。
怪我人──ゼロ。
「全員、無事だ」
呟いた。
レナが座り込んで大きく息を吐いた。ドルクが壁にもたれて眼鏡を外した。
ミラの目はもう回復していた。尻尾がゆっくり揺れている。
※
帰還途中。
16層の無音区画を歩いている時だった。
ふと、立ち止まった。
耳を澄ませた。
「……聴こえる」
レナが振り返った。
「え? 残響が?」
「いや」
首を振った。
「お前たちの──呼吸だ」
四つの呼吸。
レナの深い吐息。ドルクの安定した腹式呼吸。ミラの静かで浅い鼻息。
そして、俺自身の呼吸。
壁が音を吸い込む。残響は残らない。
だが──今この瞬間、生きている人間が吐く息は、壁に届く前に俺の耳に届いている。
「残響はなくても、今この瞬間の音は──ある」
三人が黙って俺を見ていた。
母さんの言葉は、《残響》のことだけじゃなかった。
「耳を澄ませば、壁の向こうが見える」
それは──今この瞬間に生きている音を聴け、という意味だったのかもしれない。
過去の音だけに頼るな。
今ここで鳴っている音を、聴け。
左耳のイヤーカフに触れた。
指先に伝わる銀の冷たさが、いつもより柔らかく感じた。
「……行こう。帰ろう」
四人分の足音が、白い壁の通路に刻まれていく。
残響は残らない。
けれど──俺たちがここを歩いたことは、俺の耳が覚えている。




