第5話 「聴こえない音」
5日後。
パーティ「残響」は、Cランクに昇格した。
ギルドマスター・オーゲンの裁定だった。
通常、ランク昇格には戦闘実績が必要になる。しかしオーゲンは「踏破実績と安全記録も評価対象とする」という特例を出した。
受付で昇格通知を受け取った時、職員が言った。
「ギルドマスターからの伝言です。『実力は記録で示せ。ランクは後からついてくる』──以上です」
あの老人らしい言葉だった。
※
Cランクで挑めるダンジョンの幅が広がった。
俺が選んだのは「沈黙の回廊」。地下20層、B相当。
名前が気になっていた。
ギルドの過去資料には短い注記があった。
「10層以降、音が消える区画がある。原因不明」
音が消える。
その一文を読んだ時、背筋に冷たいものが走った。
しかし同時に──確かめなければならないとも思った。
《残響》が通じない場所があるなら、いつか必ずぶつかる。早い方がいい。
入口は地下への長い石段だった。
冷たい空気が這い上がってくる。ランタンの灯が揺れた。
「10層から先は未知だ。慎重にいく」
レナが頷いた。ドルクが手帳を開いた。ミラが弓の弦を確かめた。
1層から9層は、順調だった。
石壁のダンジョン。天井が高く、残響がよく通る。
俺が壁に手を当てるたびに、音の地図が頭の中に広がった。
モンスターの巡回ルート、罠の位置、隠し通路の有無。
全てが聴こえた。
9層まで、1時間40分。無戦闘。
パーティの連携は噛み合っていた。
俺が秒数を読み上げ、レナが先行し、ドルクが殿を守り、ミラが視覚で補佐する。
言葉が減っていた。必要な情報だけが、必要な瞬間に交わされる。
そして──10層への階段を降りた。
空気が変わった。
重い。
空気に、音を飲み込むような圧があった。
足音が、消えた。
レナの靴が石を踏む音。ドルクの革鎧が擦れる音。ミラの足音はもともと微かだが、それすらも──
消えている。
俺は壁に左手を当てた。
目を閉じた。
《残響》を発動する。
──何も、聴こえない。
耳の奥に広がるのは、無音だった。
いつもなら押し寄せてくる過去の音の層が、一切ない。足音も、叫びも、罠の作動音も。何もない。
目を開けた。もう一度、壁の別の場所に手を当てた。発動。
沈黙。
三度目。
沈黙。
「……何も、聴こえない」
自分の声が、異様に近く聞こえた。
壁に反射しない。吸い込まれている。
「残響が──ない。この壁に、過去の音が一切残っていない」
レナの声が返ってきた。
「どういうこと? スキルが壊れた?」
「壊れたんじゃない」
壁を見た。
10層の壁は、上の層とは質感が違った。石灰岩のような白っぽい表面で、触ると微かにざらつく。そして──指先に振動がない。完全に死んだ壁だった。
「この層の壁が音を吸収している。残響そのものが存在しない空間だ」
ドルクが壁を指で弾いた。
音がしなかった。指が壁に触れた衝撃が、そのまま消えた。
「……いやはや、確かに。音が壁に吸い込まれている」
四人の間に、緊張が落ちた。
俺の指示がなければ、この先の罠もモンスターの位置も分からない。
今までのように「8秒後にスライムが通る」とは言えない。
目が利くミラでも、角の向こうは見えない。
──撤退か。
「撤退する」
俺は言った。
「は?」
レナが振り返った。目が吊り上がっている。
「ここまで来て?」
「俺のスキルが使えない状態で、お前たちを危険に晒すわけにはいかない」
「あたしの剣は飾りじゃない」
レナの手が柄を握った。苛立ちではない──覚悟の握り方だった。
「借金三万G。安全なダンジョンの報酬じゃ一生かかる。ここを踏破すれば──」
「レナ」
「あたしの人生にあんたが口出すな!」
声が跳ね返らなかった。
壁が吸い込んだ。
だからレナの怒声は、普段より小さく聞こえた。
ドルクが間に入った。
「二人とも、一旦落ち着きましょう」
いつもの穏やかな声。しかし、眼鏡の奥の目は真剣だった。
「レナさんの気持ちも分かる。カイルさんの判断も正しい。しかし──」
ドルクが俺を見た。
「カイルさん。あなたの耳は《残響》がなくても優れているのでは?」
指を折る癖。何かを計算している。
「商人時代、私は耳のいい番頭を何人も見てきた。人の足音で客の身分を当てる者。壁の厚さを叩き音で見積もる者。あなたは普段から、スキルを使わなくても微細な音を拾っているでしょう」
否定はできなかった。
母に教わったのは《残響》の使い方だけじゃない。
「耳を澄ませば、壁の向こうが見える」──母の口癖は、スキルのことだけを指していたわけではなかった。
幼い頃から、目を閉じて音だけで周囲を把握する訓練を受けた。
だが──それはスキルの精度には遠く及ばない。
「……できるかもしれない。だが精度は大幅に落ちる。確実な安全は保証できない」
沈黙。
ミラが黒板を差し出した。
『私の目がある』
5文字。
銀色の耳がまっすぐ俺に向いている。尻尾は揺れていない。
真剣な目だった。
俺はイヤーカフに触れた。
俺一人じゃ駄目だ。
でも──四人なら。
「……進む」
三人の表情が変わった。
「ただし、ここからは俺の指示だけじゃなく全員の判断が必要だ」
ミラを見た。
「お前の《鷹目》が頼りになる。ただし60秒の制限を超えるな。視界不良の10分間は俺がカバーする」
ドルクを見た。
「《硬壁》は最後の切り札だ。12秒をどこで使うか、お前が判断しろ」
レナを見た。
「お前の剣が──初めて必要になるかもしれない」
レナが口角を上げた。
「やっと出番か」
※
10層の通路。
俺は壁ではなく、空気に耳を澄ませた。
《残響》ではない。
純粋な、生まれ持った聴覚と──母に鍛えられた耳で。
目を閉じる。
風。
かすかな空気の流れ。右の通路からは──何も感じない。空気が動いていない。行き止まりか、極端に狭い通路だ。
左。
ごくわずかに、空気が頬を撫でた。流れている。この先に開けた空間がある。
「左だ。空気が流れている。右は行き止まりの可能性が高い」
レナが「根拠は?」と訊いた。
「風だ。止まった空気は壁で塞がれている。動いている方に道がある」
確信はない。
《残響》なら、過去にその通路を通った足音から構造を読み取れた。
今は──風の流れだけが頼りだ。
不完全で、不安で。
しかし、俺の耳は確かに何かを拾っている。
ミラが先行した。
俺の推測を信じて、迷わず左に踏み出した獣人の背中を見て──覚悟を決めた。
ここから先は、音のない世界だ。
それでも、耳を澄ます。
聴こえる音が、一つでもある限り。




