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レイガート家


 母の記憶は壁越しの大きな声から始まる。それはどんな場面であったのか、今となってはよくわからない。しかし、ルイスは自分の部屋の中で、外にいる母の声をよく聞いていたように思う。

 物心ついた頃から母と祖父の仲は悪かった。母に言わせれば、祖父は竜と自分の職務にしか興味が無く、冷たい人間なのだそうだ。母、イサベルは祖父の一人娘だ。ルイスの祖母は母がまだ学生の頃に亡くなった。それすらも、家を省みない祖父の所為と日々の愚痴の中で母はこぼしていた。母から与えられる言葉はルイスにとっては毒のようだったのだ。

「あなたは父のようにはならないで」

 空を見上げ、竜を見ていたルイスにそう言った。

「あなたはいずれレイガートを守ってゆくのです。なんですか、その言葉遣いは!」

 話しかける言葉はその形を正された。

「父と何を話していたんですか」

 祖父との会話の内容を執拗に知りたがった。

 家の中で祖父と顔を合わせようものなら、大抵は喧嘩になっていた。

 どうしてこうなるんだろう。ルイスは疑問だった。ルイスは祖父が好きだったから。祖父から聞ける竜の話が大好きだったから。『竜の事なんて嫌い』と隠すことなくルイスに告げる母よりもずっと。

 母と祖父が対しているところを見ると胸が痛んだ。次第に大きくなる母の声が突き刺さるようだった。対して祖父は無口だった。母をどう扱っていいのかはかりかねているようだった。

 どうしてこうなってしまったのだろう。

 仲を取り持とうとしたこともある。

「なんで余計なことするの!」

 待っていたのは叱責だった。

 ある日、家を数日空けてやっと帰ってきた祖父はとても疲れている様に見えた。しかし、そんなこと、母には関係なかった。その頃には母は祖父と顔を合わせることもやめていた。彼女は祖父がいるのを見て、嫌な顔をしてきびすを返して立ち去った。それをルイスは柱の陰から見ていた。まだ小さかったルイスを見つけた祖父は、その表情を隠すように引きつった微笑みを浮かべると、ただいまとルイスを抱きしめてくれた。

 数年後、祖父がレイガート家を立ち去るとき、ルイスはそれについていった。家のことは振り返らなかった。ルイスが六才の頃だった。



 双子に導かれて、ルイスはレイガートの家の前に立っていた。

 帰ってきてしまった。

 胸にあるのはその言葉だ。帰りたい場所とはほど遠いその場所に、ルイスは出来るだけ立ち入るつもりはなかったのに。

 ルイスにとってこの場所は、治らない傷口の様な場所だった。学舎に入った頃だって、挨拶に来た以外はほとんど寮にいて顔を出さなかった。当時はまだ小さかった双子は、新しく家族に加わった兄という存在が珍しいのか、ルイスが渋々顔を出す度にあれやこれやと構ってきたけれど、逆に母とはほとんど顔を合わせなかった。そんな交流が、何年も続いていて、それはルイスがレイガート家に関わる『普通』になってしまっていた。

 しかし、この前の事件で家に迷惑をかけてしまったのは本当だ。中央を脱出したルイスを探しに、クイーズの息のかかった者たちが、この邸に訪れたこともあったという。その話はリリアナから聞いていた。それだけは、本当に申し訳なく思う。

 遠い記憶からいつでも変わらない門扉は、それだけでルイスの足を止めるのに十分だ。気ままな一般人であれば、どれほどよかっただろう。学舎で噂されていたように『レイガートの自由人』として振る舞えたらどれだけ。

「兄様がこの家を気にいっていらっしゃらないのは十分に私たち、わかっているつもりです」

「それでも、兄上。僕たちを気にかけていただけると嬉しいのです。兄上がどう思っていようと、兄上は僕たちの兄上なのですから」

「そうです。お母様は嫌いでもいいですから、私たちとは仲良くして欲しいんです」

「それは……」

 腕を引く妹が邪気のない笑みを浮かべた。

「私たちは兄様の事が大好きですから」

「母は、いいんですか?」

「いいのです!」

 あんまりな物言いに、双子の兄は近くで苦笑していた。

 扉をくぐると、嫡男の帰宅に使用人が深く礼をする。長くレイガート家に使える執事だ。レイガートの直系である母と、入り婿である父を長く支えてきた人だ。彼が、邸の奥へと子供たちを案内する。

「奥様がお待ちです」

「わかっている」

 部屋へは付き添わず、扉の前で見送られる。使用人の領分を決して踏み越えてこない人なのは相変わらずだ。彼によって開かれた扉の先では、見知った母がいた。

「お久しぶりです、母上」

 その表情も想像の通りだった。記憶にある母の顔は、不機嫌な顔か、もしくは無表情。笑った顔などついぞ見たことはない。レイガート家の女主人として毅然としている女性の顔だ。久方ぶりに息子を迎えるのに、眉ひとつ動くことはない。ルイスはその表情から逃れるように、頭を深く下げた。

 部屋の主人が声を上げないから、部屋の中には静寂が満ちる。

「母上……」

 ルイスの脇をすり抜けたヒューイが、母を窘める。それに返されたのは本当に小さなため息だ。部屋が静かなので、ルイスの耳にもきこえてしまった。

「自分の母にそこまでの礼は不要です。頭を上げなさい」

「はい」

 頭を上げる前に、目を閉じて今の感情を振り払った。そうしなければ、諦めている何もかもを顔に出しそうだったからだ。努めて無感情に振る舞うのも、レイガート家に帰ってきたルイスの処世術であった。

 目が合った母もまた、無表情だった。息子を快く迎え入れるような心情とは思えない。触れれば白氷石よりも冷たいだろう、温度のない表情。

「久しぶりに帰ってきましたね」

「ご挨拶が遅れ、申し訳ございません。レイガート家を危険に晒してしまったこと、誠に弁解のしようもございません」

「そのことは不問と致します。最初の原因は元市長の息子の暴走と聞き及んでいます。むしろ巻き込まれたのはあなたの方でしょう」

「……」

「顔を見せるのが遅くなったのは、どうかと思いますが」

「……はい」

「事件が起こってから、もう二ヶ月です。普段から家に寄りつかないとはいえ、早めに連絡をいれ、顔を見せるのが筋ではありませんか?」

「おっしゃるとおりです」

 折り合いが悪いとはいえ、顔を出すのを引き延ばしてずるずるとこんな時期になってしまったのはルイスの落ち度だ。双子に手を引かれていなければ、もっと長くなっていただろう事を思うと、母の言葉も頷ける。

ただ、レイガート家に危険が及んでしまったことを咎められないとは思わなかった。嫡男としての自覚を持って行動せよ、と言われるものだと思っていた。しかし、まあ、結果としての話である。リリアナが手を回してくれていなかったら、クイーズはイリュジオ家の権力を行使して、レイガート家の内部にまで踏み込んでいたかもしれない。そうなれば叱責は免れなかっただろう。その可能性も考慮しないで、あのときのルイスはただ彼の目の前から逃げることしかできなかった。

 胸に去来するのは後悔だ。確かにこの家はルイスとの縁が薄いけれど、それでも災厄を被って欲しいわけではない。

「白亜宮には常にない数の竜がやってきたと聞き及んでいますし、しばらくは混乱していたと聞きます。都市にどのような影響がでるか」

「その辺は私たち竜仕官も調査を行っているところですが、今のところ悪い方向には向かわないだろうと考えております」

 忙しくはある。それに今後の対策、対応も大変ではあるけれど、ただでさえ、竜をよく思っていない母には『安全である』と言うことだけは伝えておかないといけない。

 母の表情がやや険しい。感情の中で折り合いを見つけようとしているのかもしれない。

「わかりました。私には都市存続が成されるのならそれで構いません。竜仕官として、都市機能の一部として果たすべき役割をなさい」

「承知しております」

 さて、これで報告の義務は果たしたはずだ。深い眉間の皺を刻む母に、これ以上付き合おうとは思えない。ここに横たわる親子の情は限りなく薄いのだから。


 最後まで丁寧に質問に答え、部屋を辞したあと、大きなため息をついてしまったのは仕方がないことだと思う。気をはっていた体が強ばっているのも仕方ない。いつもこうだ。いつもこうなのに、いつまでも馴れることはない。

 ルイスについてきていた妹が、斜め後ろで苦笑する気配が伝わってきた。

「お疲れ様です、お兄様」

「すみません、ペルラにもヒューイにも気を遣わせましたよね。こうなるからあまり家には帰りたくないんですが……」

「あら、私たちにも会いに来てくださらないんですか?」

「あ、いや、そういうことでは。もちろんヒューイとペルラは可愛いですよ。血の繋がった兄妹が出来るなんて思っていなかったので、最初にあったときは驚きましたが」

 第三外周から本当に久しぶりにレイガート家に帰ってきた時には、既に六才になった双子に出迎えられた。こちらを見つめる無垢な二対の目には本当にびっくりしたものだ。

「ごめんなさい、お兄様。少し意地悪な質問でしたね。でも、お兄様ともっと一緒に過ごせたらいいのにと思っているのは本当ですよ? ヒューイも同じです。そうだ! どうですか? 私たちをお祖父様の家に招待していただくというのは!」

 くるりと可憐にターンした妹は、ルイスの前で諸手を挙げる。圧が強い。ただ、その提案に否やはない。

「いいですね」

「本当ですか?! 絶対ですよ!」

「はい、絶対です。約束は守ります」

「期待していますね! お兄様!」



 兄が出て行った後ろを、妹のペルラがスキップでもするように追いかけていった。ヒューイはそれを眺めやり、近くで身じろぎした母の小さな体を見やった。兄が出て行った時のまま、その背中を椅子に深く腰掛け、立ち上がるそぶりもない。

 自分たちが学舎に入る前には、とても大きいと思っていたその体は、長期休みに帰ってくる度に、小さくなっていったように思う。特に双子の妹よりもずんずんと大きくなった自分からすると、その違いは顕著だった。

 しゃんと伸ばされた背中が、どこにも届かないため息と共に少し丸くなる。

 ヒューイはちくりと棘を刺すように口を開く。

「……。……心配だった、と口にされればよろしかったのに」

 丸くなった肩が、ぎくりと跳ねるが、ヒューイは努めて気にしないように言葉を続けた。

「あれでは兄上に伝わるとは思えませんが、それでよろしかったんですか?」

「……。よくは、なかったわね」

 たっぷりした沈黙のあと、小さな言葉が落ちた。

「せっかく兄上を捕まえたのに……。『今度こそ』と言っていたのはどなたでしょう」

「わたくし、ですわね」

 息子の視線から逃れるように、母の視線はうろうろとさまよった。この部屋に自分がいなければ、頭でも抱えていそうな「失敗した」という表情をしている。

 こういう顔を兄にも見せればいいのに。ヒューイは心の中で何度そう思ったかしれない。まあ、母と兄の溝がなければ、こうして自分たち兄妹への母の接し方も変わらなかったかもしれないと考えると、善し悪しだけれど。

「元気そうな姿が見られただけでも……」

「本当にそれだけでよろしいのですか?」

「……」

 ヒューイは今度こそため息を隠さなかった。

 我が兄の方は母への壁を隠さない。そして、母は母で長男への接し方がわからない。父はあくまで傍観者でいるつもりで関わってこない。一度遠くに行ってしまった長男に対して歩み寄らないのはどうしたことか。もどかしさと共に、苛立ちを感じるのは仕方がないと思った。

 静かになった部屋に、ノックの音が響く。ヒューイが「どうぞ」と促すと、そこには執事がいた。

「お夕食の用意はどうなさいますか?」

「兄上はお帰りになった。四人分で構わない」

「かしこまりました」

 長く家族を見てきた執事だ。母がまだ少さかった頃からレイガートのために働いているという。彼の眉は消沈している女主人を見て眉をわずかに下げたが、いつも通り丁寧に頭を下げて部屋を辞した。

 次にこの家で家族揃って食事が出来る日はいつ来るのだろうか。

 母を慰めるのも面倒になってヒューイもまた部屋から立ち去った。母のかつての後悔の話も、両親と兄との関係も、正直特にどうなればいいとは思っていないのだ。過去は変わらない。血縁関係も、自分と兄の関係もまた、両親や家に左右されるものではない。こちらが関わりたいと、兄と弟の関係でありたいと望む限り、あの優しい兄は受け入れてくれるのだから。




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