呼びかけ
遠くで石が割れる音が聞こえた。その音が聞こえたのは、庭が静かだったからだ。竜がとまる。相対していた竜が全て、その動きを止めていた。竜の庭に渦巻いていた風が止んだ。
「ああ、終わりだ」とつぶやいた誰かの声が、風に乗ってルイスの耳に届いた気がした。
ルイスは足を踏み出す。
人は勝手だ。人の都合で竜を使いながら、恐怖し、意のままに操ろうとし、彼らから心を奪うこともいとわない。
呪いを受けた竜が大きく啼いた。呪いは竜の体と心を蝕んで暴走する。喉を裂くような声。口の端からは血が零れる。近くにいた竜が呼応するように一つ啼いた。竜たちの行動を阻害する石が壊れたからだ。彼らの共鳴を止めるものがなくなった。
彼らの間で、心は伝播する。それが都市崩壊への大きな要因になるとルイスは既に理解していた。呪いの石を飲んだ竜は鳴き声を上げて竜を呼ぶ。それは助けて欲しいからなのか、その他に理由があるのかはわからないけれど、しかし彼らの『心を共有する』という特性はやってきた他の竜を巻き込んで大きな暴走を引き起こす。それを人が外側からとめる手立てはない。
例外は二十年前。一人の竜仕官と、暴走を免れた一匹の竜。
終わりにはしない。そのまま終わらせたりなんかしない。
竜と竜が牙を剥き、爪を振るう。竜翼は庭に風を起こす。無造作に振るわれる尾が、建物を壊した。抉られた土が、瓦礫が、舞い上がる。
その向こうで、翡翠の目がルイスを射貫く。ウォンダーだ。彼は自分の役目を果たした。
握りしめたお守りを手に大きく息を吸い込み、吐く。思い描くのは相棒の姿だ。
カルセドニー。最後にみたのは、呪いの石から逃がすために「逃げろ」と空へ追い返したときだった。あのときはまだ、石の事も何も知らなかった。ただ自分の直感に従って、あの竜を行かせることしかできなかった。
応えてくれるだろうか。
「カルセドニー」
声はいらないと言われたけれど、名を呼ばずにはいられなかった。同時に強く願う。相棒の存在を。あの輝く青灰色の瞳を。乳白色の艶やかな体を。この騒動が、早く終わるように。本来であれば心優しい竜たちが、自らを傷つけ合わないように。
一人で呪いの石を追いかけ続ける人が、――ように。
空を仰ぐ。雲一つ無い空に太陽が一つ。
そして一粒の水滴が降ってきた。
上空で、高めの声が応えた。
太陽の光に照らされた白い姿が見える。その姿はぐんぐんと近づく。迷いなく、ルイスの元に一直線だ。
ああ。応えてくれた。青灰色の目が逆光なのによく見える。ぽっかりと浮かんだ宝石の様だ。
小柄な竜は音もなく着地した。ふわりと風が頬を撫でていく。再会を喜ぶかのように鼻先をルイスにすりつける。それだけでお腹の奥からぎゅっと捕まれたような感じがする。
「来てくれて、ありがとうございます」
縦に長い瞳孔が、ルイスの顔を写しとる。
瞼がゆっくりと上下する。少し離れた顔が、再び近づくと、ルイスのお守りに優しく触れた。当たり前だと言うみたいに。ちょうどいい位置にある竜の眉間に、ルイスは額を付けた。ひんやりと冷たいけれど、少し温かい、いつもの感触だ。ひっそりと息を吐き出すと、顔を触られているカルセドニーが不思議そうに瞬きするのを感じた。ルイスは自分の竜に、どこにも異常がないか観察する。
カルセドニーに、恐れていた暴走の兆候はなかった。見た目の行動も、いつもの通り。喉の奥が親愛を示すように低く震えた。額を離すと、一度ゆっくりと離れた竜は、再び長い首を伸ばして、ルイスの背中を軽く押してくれる。柔らかな翼の膜が行く道を空ける。促すように一声鳴いた。相変わらず相棒の言葉は分からないけれど、なんとなく一緒に行こうとする意思は伝わった。
頷いて感謝を口に出す。不思議と一体感があった。見つめてくる瞳が、ルイスの心の奥底を覗き込む。ウォンダーにどうやれと言われた訳ではないのに、なんとなく次にするべき事が思い描ける。どうして、ウォンダーが「ルイスと相棒の竜になら、この事態を治められる」と判断したのかわかった。心を共有しているという竜たちの中で、カルセドニーは異質だった。
ルイスの手はお守りを掴む。
同胞に対して無防備なはずの竜の心が、ここに預けられているから。カルセドニーは竜たちの暴走に靡かない。
ルイスはほんの少し、カルセドニーの手助けをするだけだ。寄り添うカルセドニーの首元に手を当てる。体温よりも冷たい竜の鱗。ルイスの動きを追っていたカルセドニーの目がすっと外れる。竜が見つめるのは呪いの石を喰った初めの竜。
周りの竜たちもそれに追随した。暴れていた竜たちがおとなしくなる。低く地を這うようだった声が、玉を転がすような軽いものに変わった。相棒が足を踏み出す。ゆっくりと他の四匹の竜も輪を狭めて、呪いを受けた竜へと近づく。
触れられる距離へと近づいても、かの竜は暴れることはなかった。仲間たちを受け入れるように目を閉じると、首をみずからカルセドニーに近づけた。白竜もそれに応える。頬と頬を合わせる行為は、仲直りのサインの様だ。相手の竜はそれだけすると力尽きたように横たわる。竜の庭には沈黙が流れた。
夢の中にいるようだった。夢じゃないよと肩を叩いたのはカルセドニーの翼だった。
「……終わったんでしょうか?」
「終わったな」
応えたのはウォンダーだ。竜をかき分けて近づいてきたのだ。今ここには全部で竜が六体も集まって団子状態だ。人が近づくには少し遠慮する空間だろう。この男は気にしないらしい。ルイスはこんな状況じゃなければ喜びを表わにしているところだ。しかし、今は安堵感から力の抜けそうな足を必死に踏ん張っている。
「よく臆さなかったな」
「この子が、居てくれましたから」
「それでも、状況が危険な事に変わりはなかった。あんたが、信じて踏ん張ったからそこ、竜もそれに応えて降りてこれたんだ」
素直な賞賛の言葉だった。ルイスは思わずウォンダーの方を見る。ウォンダーはカルセドニーを見ていた。彼の横顔は、今まで見た中で一番柔らかい表情をしていた。熱いものがこみ上げてきて、その横顔から顔を逸らす。大丈夫、表情は見られていない。
「……ウォンダーも、約束通り、石を壊したじゃないですか」
あれがなければ、作戦は成功しなかった。それぞれが、それぞれのやることをこなした。
「協力者のおかげでな。口では色々と言ってくるが、いい奴だ」
「ああ、アイクですか? そうですね。周りが見えて、色々と手助けしてくれるいい人なんです」
視界の端では、竜たちの体越しに、こちらにやってきているリリアナとアイクを捕らえていた。しかし、彼らは竜に馴れていない。果たして近寄ってもいいのかと、こちらを伺っている様子である。それが少し面白くて笑えた。
よそ見をしていると、ルイスの頭を何かが軽く叩く。カルセドニーだ。
そうだ。ウォンダーの話を聞いたときから、相棒をウォンダーに紹介したかったのだ。青灰色の瞳が、好奇心を湛えてウォンダーを見つめている。
「紹介しますね。私の相棒のカルセドニーです」
「ああ、綺麗な竜だな。……やはり、ずっと空にいたのはあんただったか」
ウォンダーが左手を伸ばした、カルセドニーが頭を押し当てる。そのまま、何か話すのかと思えば、彼らは少しの間じっとしていた。竜の心の共有能力で何かを話しているのかもしれない。傍目からみていたルイスには分からないけれど、何かの神聖な儀式のようで目が離せない。
と、唐突にカルセドニーが動いた。ウォンダーの服の端を噛んだかと思うと、引っ張って移動させた。たたらを踏んだウォンダーがよろめいた先には他の竜がいる。彼らはウォンダーの事が物珍しいのか、彼の事に触れたがった。
「おい、やめろ!」
流石に焦ったウォンダーの声が聞こえてくる。ルイスはもうおかしくて、声を出して笑った。
「あはは」
「おい! 笑っていないで助けろ!」
「それは、ちょっと難しいです」
「おい!」
もみくちゃにされるウォンダーが竜の波に攫われる。
「ルイス! 大丈夫か! 生きているか?」
「リリアナ! 大丈夫ですよ! 怪我もしていないです!」
友人の心配の声に返事をする。竜たちがウォンダーに集まっているおかげで、ルイスの周りからは竜が離れている。駆けてきたリリアナはルイスの状態を確認すると、ウォンダーに目を移した。どうしたんだあの状態はと聞かれたけれど、答える言葉を持っていなかったルイスはさあと濁すにとどまった。アイクは一瞥して胡乱げな表情をしていた。
カルセドニーが竜の輪から抜け出てこちらにやってくる。ルイスの会話相手に興味を示したらしい。口元を舌で舐めながら匂いをかいでいる。
リリアナは間近でみる竜が初めてで少し体を強ばらせながらもカルセドニーの好きにさせている。体は少し緊張していて、視線だけルイスによこした。
「この竜がルイスの……?」
「はい、カルセドニーと言います。リリアナに紹介できる日が来るとは思いませんでした」
「私も、こんなに竜を間近でみることができるとは思わなかった。こんなに美しい生き物なんだな」
「……はいっ!」
おずおずとリリアナが伸ばした手を、カルセドニーがためらうことなく一舐めした。アイクも物珍しそうに相棒を観察している。竜にもみくちゃにされたウォンダーも、やっとそれから抜け出せたのか服を払いながらやってきた。
少し遠くでは竜仕官長と水道局長の連れてきた警備が、市長や他の協力者たちを連れて行く。壊れなかった竜の庭の入り口ではルイス以外の竜仕官が顔をのぞかせていた。宿舎から解放された竜仕官たちは、自分が避難する事よりも、竜の庭の状況を確認する事を選んだらしい。つくづく竜仕官という人間は、自分も含めて、竜に関する事を疎かにできない性格らしい。
数人が竜の姿をみて安堵の表情を浮かべる。ここにいる竜の担当の竜仕官たちだった。
彼らの駆け寄ってくる姿を見ながら、この光景を守れたのだとようやく実感した。




