各々の思い
「水……」
頬を濡らした水滴に、トゥレは空を見上げた。竜の庭から見える空には少し雲がかかっている。
水は竜からの授かり物。雨は竜が都市を去る時に少しの時間降る恵。今この場には石によって沈黙を守る竜が一匹と、そしてその竜の経過観察をしているトゥレ傘下の研究員だけしかいなかった。それなのにどうしてと思わないでもなかったが、今は目の前の実験に集中する必要があると、自分を律する。
数年間、自分の研究を補佐してくれていた男に聞いたら何かわかるのかもしれないが、男はなにやら理由を付けて竜の庭には入らなかった。
まったく、薄情である。にやにやとした笑みを貼り付けた表情はどうにも不快だったが、奴の知識は大いに役立ってきた。
数年前に立ち上げた研究施設。貯水湖の植物研究施設に隠される形でその施設は作られた。表向きの研究は乾燥に強い品種の研究をしている事になっているが、裏では竜を操る方法を確立するための研究を行っていた。
外部の都市からも人を呼んで賛同者を集めた。白亜宮改修工事の際に、図面に載っていない隠された通路も作った。このときのために準備してきたことは無駄になっていない。
他に竜もいない中、雨が降る。
トゥレは護衛官に簡易の屋根を作らせるように指示する。支柱を立てて、板を上に張るだけの簡単なものだ。記録用の書類が濡れなければそれでいい。
慌ただしく数人去っていく護衛官を見送ると、トゥレの元には研究員が一人近づいてくる。
横たわった竜の観察を三名の研究員がしていた。健康状態の観察は必要だった。自分たちは竜に首輪を付けたとしても、殺そうとは思っていない。竜を従わせた上で、これまで通り竜の息吹を手に入れる必要があるからだった。
「トゥレ様」
「どうした」
「先ほど入手した竜の息吹のことについて報告します」
「わかった続けろ」
報告者は手元の資料をめくって、口を開く。
「サイズは大人の親指ほど。通常の竜の息吹と比べると半分以下のサイズです。また、こちらを見ていただけますか?」
差し出された小さな石を受け取る。
「こちらは二度目に採取したものですが、一度目の息吹よりも小さいという結果になりました」
「そうか……」
「やはり竜仕官が宝石を与えるという行程が必要なのではと思いますが、実験が足りず、結論が出るほどの情報はそろっていません」
仕方ない。竜を操る石の生成方法は確立したとはいえ、本物の竜を相手にどれほどの効果を発揮するかというところは、竜相手でないと実験ができない。協力者の男もその辺りの情報は足りないらしく、言葉を濁していた。「有意義な実験場があればいいのですけどねぇ」とつぶやいた男の事を覚えている。だが、竜がやってくる場所なんて、大抵は都市の中心部である。安易に侵入することはトゥレですら難しい。
二十年の裏工作と、秘密裏の実験があってこそ。
この最終実験は必ず成功させなければならない。
竜の主導権を人の手に。
『竜を操る』と決めたときから最後はこうなることがわかっていた。それが遅いか早いかだけだ。ただ、ほんの少しの不安が胸の内に去来したことを、トゥレは見ない振りをした。内に侵食する焦りが、出てきた芽に蓋をしたのだ。
「しかし、連続で竜の息吹を採れるというデータはできた」
「はい、しかし、少し懸念点が」
「どうした」
「竜の足の先端の色が変化しているのを、他の者が見つけました」
トゥレは竜の方に目を向ける。
「どうなっている」
「今はわずかに爪の先だけですが、後ろの地面が透けて見える状態です」
「透ける?」
報告を受けながらトゥレは歩き出した。近寄りたくもないと思っていた竜だが、異常があるのならその目で確かめなければならない。これは未来の都市のために必要な事で、トゥレの目指す未来に必要不可欠なのだから。
研究員と共に移動する。
近づいた竜の右後ろの足に、確かに変化が見て取れた。
竜の体は鱗に覆われている。竜の個体ごとに鱗の色は違っている。が、爪の色は本来は白いはずだ。
「性質の変化はあるか?」
「爪の先を少し削ったものがこちらです」
研究員の手の中には白い布に包まれた爪のかけらがあった。別の布の上には同じ部分を左後ろ足から採ったかけらがある。
「色はやや赤紫っぽいな」
「はい。ただ、変化部分が少ないのでなんとも。あまり竜自体を傷つけてしまっては採れる竜の息吹の量に影響してしまう可能性もありますので」
「そうだな。この変化が広がるようならまた報告しろ」
「わかりました」
簡潔に返事をすると、研究員は持ち場に戻っていく。
そこに護衛官が走ってきた。トゥレの息子、クイーズに貼り付けさせた護衛官の一人だ。数人を交代制で張り付かせて、その行動を逐一報告させている。トゥレのお膳立てに乗っかったとはいえ、竜の庭に侵入して、竜に接触するまでの行動力を見せたクイーズだが、竜の思わぬ変化には驚き、受け入れるのに時間がかかっているらしい。
彼は竜仕官になりたかった。見習いになるための試験まで受けて、素質がなくて落とされた。何度も竜仕官長への抗議を書面で行ったことは聞いていたが、自分で石を竜へ与えるという願望は持ち続けていた。その執着がどこから来るのか、息子でありながらトゥレはわからない。彼の部屋には一冊の児童書があることをトゥレは知っている。竜と英雄の物語だ。都市でも広く親しまれているその本は、息子の本棚の一角で静かに鎮座していた。
息子が初めて宝石を買ってきたのはいつだっただろうか。それを自分で身につけるでもなく、部屋のガラス戸の中に保管しているのを知っている。知らない間に段々と数を増やして、石を納めた場所は両開きの戸棚一つを占領するようになった。それを息子につかせた護衛官から報告を受けたときのなんとも言いがたい感情は覚えている。彼は竜に与える宝石をずっと集めていたのだ。
「あいつは落ち着いたか?」
行動の監視の意図もあり、白亜宮の一室に留め置いている息子の処遇は決めかねていた。勝手に行動されて、竜の庭で何かを起こされても困る。
「はい。夕食をおとりになった後は特に不審な行動をされる様子はなく、早めに部屋にあるベッドに入られました」
「食事は?」
「出した食事は完食されています」
「わかった。明日の朝、特におかしな点がなければ、本来の護衛官に職務を引き継ぎなさい」
「畏まりました」
足をそろえて敬礼した護衛官は、回れ右をするとその場を離れた。
トゥレは大きく息を吐き出す。やるべき事は山積みだった。研究員から受け取った小さな竜の息吹に目をやる。
こんなもののために。
瞼の裏で再生される過去の出来事が、まるで呪いのようにトゥレの頭の中をかき乱す。
忌々しい。
それを振り払うようにこめかみに手をやって頭を振るトゥレの事を、ガラス玉のような竜の瞳が見ていた。
雨がしとしとと降る。
見たことのない黒い雲が、上空に浮いていた。
*
窓についた水滴が、もう一つの水滴と合体してガラスの上を滑っていく。
外は雨が降っているようだった。ここに来てから何時間経ったのかわからないが、リリアナはようやく物思いの穴蔵から意識を浮上させた。一瞬どこにいるのかわからなかったほどだ。それだけ、頭の中でぐるぐると疑問と今の状況を反芻していた。
ようやくそれを自覚する。
自覚すると部屋の状況も見えてくる。
簡素な宿舎。二人一組で使うベッドが二つある部屋。リリアナはそこに護衛官と共に入れられていた。護衛官のアイクは律儀に扉のすぐ内側に立っている。扉にもたれかかるでもなく。直立不動を貫いていた。彼の顔はこちらを見ているけれど、その神経は扉の外側の状況を音と気配で察知しようと、研ぎ澄まされているのがわかる。
アイクがリリアナの護衛官になってからもう十年になろうか。それくらいはわかるようになっていた。
まだ散乱する思考をそのままにアイクを眺めていると目があう。茶褐色の瞳が見定めるようにこちらを見る。ややあって口を開いた。
「少しは落ち着きましたか?」
「わたしはいつも落ち着いているよ」
「……憚りながら、わかりやすく取り乱しておられるように見えましたよ」
「……」
強がりを言う口を閉じて、沈黙で返す。自分でもわかっていた。わかりやすい見栄っ張りだ。だけどずっと考えてしまうのだ。叔父がどうしてあんなことをしたのか。
「叔父さまがこんな事を起こすなんて思わなかった」
竜の庭へ侵入したクイーズ。それを証拠がないと罰しなかったトゥレ。最初の侵入から、息子の行動の裏にはトゥレがいたのだ。そのことに、今更ながら思い当たる。
思えばおかしな話だった。白亜宮の警備の穴、穴をついたクイーズの侵入。そう偶然が重なる訳がない。
真っ直ぐにみてくるアイクの視線を受け止めきれずに、はめ殺しの窓に視線を移す。アイクは扉から離れると、リリアナの前を横切った。
「『知っていたら止められた』ということもないでしょう」
「そうかもしれないが」
何か察せることはあったかもしれない。
窓の前まで移動すると、引き出しの上に置いてあった木製のコップを手にとって水差しから水を注ぎ、差し出してくる。
「あなたはなんでもかんでも問題を自分の事と捉えがちです。人のしたことや感情の事を一人で背負う事はできません。あなたの両手はそれほど広くないのですから」
「辛辣だな」
受け取ったコップは少し冷たい。
「あなたの護衛官ですから。主人をお諫めするのも仕事です」
「普通の護衛官は身辺を守るだけだぞ」
「そうかもしれませんね」
ふうと一息つく。考え込みやすい自分をいさめてくれるのはありがたい。昔から大人びた男だった。もう何年も共にいる戦友のような存在だった。
「思えば、第二外周の貯水池付近に研究所を作ったのも、このためだったのだろうな」
「乾燥地域で育てられる植物の研究施設と銘打っていますが、研究施設の一部はあの石の研究に費やされていたのでしょうね」
「竜の意識を操る石、か」
「すごいものを作り上げたものです」
「おい」
その言いぐさをリリアナは窘める。ルイスには聞かせられない会話だ。アイクは肩をすくめる。彼は現実主義で冷静だ。
「それがいいものだとは言っていません。しかし、今までなかった技術である事は否定できません。竜を操ることに、デメリットがなければですが」
「確かにな」
竜を管理する、そう宣言したトゥレの決意は良く見て取れた。だが、それを見たときのルイスの表情も覚えている。自分の痛みを堪えるような顔。青ざめた表情。彼のそんな顔は初めて見た。いつも穏やかで優しい人物だ。他者を慮る声。人を安心させる仕草。高すぎず、低すぎない声は、ゆったりと流れる水のように穏やかだ。その声が竜の事を語るときは雄弁になる。彼らの美しさ、自分が彼らの事をどんなに好きか。人に見せる竜の親愛を、聞かずとも語ってくる。学生の頃と変わらず、竜仕官になってからはより熱をはらんだ口調にいつも圧倒されるばかりだが、それすらも小気味いいと思う。
考え込んでいるリリアナにアイクが質問する。
「二十年前の事件。トゥレ様に何があったのかご存じですか?」
その頃アイクはまだ護衛官ではなかった。リリアナは頷く。
「少しだけな。聞いた話だ。エレクシオン家の次男だった叔父様が、同じ五家で男子がいなかったイリュジオ家に婿養子として入られたのがその少し前で、息子が生まれてすぐ、奥様が亡くなられたと」
「まさか水道局にいらっしゃった?」
リリアナは頷く。
「大変優秀な方で、肝いりで入局されたと伺ったことがある。二十年前の事件の事を聞いた時点で思い出しておくべきだった」
「では、目的は復讐ですか?」
「復讐、か。許せないのかもしれないな。竜も、竜仕官も」
二十年。リリアナが生きた時間のほとんどだ。どのような気持ちで過ごしてきたのか。竜を操る方法を知り、その研究に全てを継ぎ込んだに違いない。リリアナの父が死んで市長になると、研究の進み具合と現状を天秤にかけて、用心深く計画を実行する機をうかがっていたのだ。果てしのない時間のように感じただろう。
俯いたリリアナの前に、スープのボウルが差し出された。
「やや冷めてしまったのは甚だ不本意ですが、お召し上がりください。腹が減っては要らぬ事も考えます」
「今の考えは要らぬ事か?」
「人の心を慮り、共感する力は必要ですが、復讐と憎しみに共感するのはいただけません」
「はは、その通りだな」
見上げた表情が本当に不本意そうで、不覚にも笑ってしまった。
そうだ。復讐心も、憎しみも、トゥレのものだ。リリアナがそれを引き受ける必要はない。
石を飲んだ竜に少しの恐怖がないと言えば嘘になるが、それを操り、人の下で管理することもまた受け入れがたい。ルイスならそれもひとしおだろう。
「叔父様を止めなければな」
口に入れたスープは薄かった。護衛官はその言葉を諫めることはなかった。自分の仕事は、その背中を守るだけだというように、扉の前に、そして自分の仕事に戻った。しかし、ほんの少し主人に歩み寄った心はそのまま離れずにいてくれることはわかった。




