第6話:ここが俺の最後の世界なのか?
俺はまだ、女神セレーネのオフィスにいた。
部屋の隅で、壁にもたれかかるように座っていた。
そこは、死者たちが新たな道へと導かれる、あの白くて何もない空間だった。
もう、ここから動く気さえ起きなかった。
俺はただ、黙って座り続けていた。
セレーネは椅子に座り、そんな俺を見つめていた。
しばらくして、彼女は静かに口を開いた。
「前の世界で、よほど落ち込んじゃったみたいね。
まあ……ここで休みたければ、好きなだけ休んでいていいわよ」
そう言うと、彼女は俺から視線を外し、自分の仕事を始めた。
それからしばらくして――
突然、セレーネの目の前に一人の魂が現れた。
太った少年だった。
高校の制服を着ていて、その顔には疲労と悲しみがはっきりと浮かんでいた。
セレーネは落ち着いた声で話しかけた。
「それでは、田中ハルさん……。
こんなことをお伝えするのは心苦しいのですが、あなたは亡くなりました。
私は女神セレーネ。あなたを新たな道へ導くために来ました」
少年は彼女を見つめていた。
そして突然、その場にひざまずき、セレーネの足元にすがりついた。
その声には、泣きそうな感情がにじんでいた。
「ほ、本当に……女神様なんですか?
もし本当に女神様なら……どうか、僕を導いてください!」
彼はひどく悲しんでいるようだった。
セレーネは彼の様子を察し、優しく尋ねた。
「あなたが前の人生で、とてもつらい経験をしてきたことは分かっているわ。
だからこそ、自ら命を絶つことを選んだのね。
……もう一度、生まれ変わってみたいと思う?」
少年はゆっくりと立ち上がった。
目は赤くなっていた。
彼は首を横に振りながら答えた。
「いいえ……。
もう、どんな世界にも生まれ変わりたくありません。
僕は……もう生きたくないんです」
セレーネは彼の言葉を聞き、しばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開いた。
「……分かったわ。
それなら、あなたを天国へ送ることもできるわよ。
そこへ行きたい?」
少年の顔に、初めてかすかな笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます……偉大なる女神セレーネ様」
すると、少年の目の前に、まばゆい光を放つ扉が現れた。
セレーネはその扉を指さして言った。
「この中へ入りなさい。
その扉は、あなたを天国へ連れて行ってくれるわ」
少年は扉に向かって歩き始めた。
だが、その途中で、彼の視線がある人物に向けられた。
部屋の隅で、壁にもたれながら黙って座っている俺だった。
少年は足を止め、セレーネに尋ねた。
「……女神様、あの人は誰ですか?」
セレーネは俺を見ることもなく答えた。
「ああ、あれはただの男の子よ。
自分の死をまだ受け入れられずにいるみたいね。
気にせず、そのまま行っていいわ」
少年は一瞬だけ俺を見つめた。
それから何も言わずに向き直り、扉の向こうへと消えていった。
扉はゆっくりと閉じられた。
再び、部屋に静寂が戻った。
セレーネはほっと息をついた。
「かわいそうな子……。
人生で本当にたくさんの苦しみを味わってきたのね。
だから、自分の人生を終わらせる道を選んだ……。
まあ、あの子にとっては、それが一番楽な選択だったのかもしれないわね」
その言葉を聞いた瞬間――
俺の頭に、一つのアイデアがひらめいた。
俺はその場から立ち上がり、まっすぐセレーネのもとへ歩いていった。
「……いいことを思いついたぞ!」
俺は彼女の目を見て言った。
「俺が、自分で命を絶とうとしている世界に送ってくれないか?
そうすれば、俺は簡単に自分の死を回避できるかもしれない!」
セレーネは俺を見つめた。
さっきまでの悲しそうな表情は、もうどこにもなかった。
今の俺の顔には、なぜか奇妙なほどの期待と興奮が浮かんでいた。
セレーネは少し考えてから答えた。
「そうね……。
あなたが自ら命を絶つことになっている世界なら、二百くらいはあると思うわ」
俺の笑顔が、一瞬で消えた。
「……は? 二百もあるのか!?」
「でも、あなたがどんな世界に行きたいのか教えてくれれば、それに合わせて候補を絞り込めるわよ」
俺は少し考えた。
そして、はっきりと答えた。
「魔法があって、モンスターがいて、冒険者ギルドもある世界がいい。
そこで自分だけの冒険者パーティーを作って、冒険に出て、金を稼いで……仲間たちと楽しく暮らしたいんだ!」
セレーネは少し眉をひそめた。
「ずいぶん注文が多いわね……。
でも、いくつかなら見つかりそうよ」
彼女は目を閉じ、意識を集中させた。
しばらくすると、再び目を開いた。
「見つかったわ。
条件に合いそうな世界が五つあるわよ。
試しに、その五つの世界でトライアルを受けてみる?」
俺は即座に首を横に振った。
「いや。
もうトライアルは受けない。
今度こそ、自分で世界を選ぶんだ。
……その世界と、そこにいる俺の姿を見せてくれないか?」
セレーネは小さく微笑んだ。
「ええ。それくらいなら、別に不可能じゃないわ。
私にもできるわよ」
そう言うと、彼女は俺の両手を握った。
次の瞬間――
俺たちは、新たな世界の中にいた。
ただし、今回は誰かの体の中にいるわけではなかった。
俺は空中に浮かんでいた。
そして、セレーネが俺の手を握ってくれていた。
彼女は片手を離し、眼下を指さして言った。
「さあ……最初の世界に到着したわよ。
見える? 美しくて、冒険心をくすぐられるような世界だと思わない?」
俺は周囲を見渡した。
目の前には、青々とした木々が広がっていた。
澄み切った湖。
そして、遠くまで連なる雄大な山々。
確かに、美しい景色だった。
セレーネはさらに下の方を指さした。
そこには、鎧を身にまとった一人の男が歩いていた。
「彼が、この世界にいるあなたよ。
一人の戦士ね。そして……彼は今、自ら命を絶とうとしているところよ」
俺はその男を観察した。
彼はひどく落ち込んでいるようだった。
苛立った様子で、乱暴に足を踏み出しながら歩いている。
「……いったい、何があったんだ?
どうして、そこまで死にたいと思っているんだ?」
セレーネは静かに答えた。
「自分の妻が、ほかの男と一緒にベッドにいるところを見てしまったの。
それで、生きる気力を失ってしまったみたいね」
俺は思わず驚いた。
そして、心の中でつぶやいた。
(……最近の人間って、そんな理由だけで人生を諦めちゃうのか?)
セレーネが尋ねた。
「彼の体に入ってみたい?」
俺は少し考えた。
体格自体は悪くない。
だが、年齢が少し高そうだった。
しかも、すでに結婚している。
身長だって、俺の好みとは違っていた。
「……俺が求めているものとは、ちょっと違うな。
こいつ、身長も高いし……。
次の世界に行こう」
セレーネはうなずいた。
「分かったわ。
それにしても……あなたの理想にぴったり合う世界なんて、本当に見つかるのかしら?」
俺は何も答えなかった。
そして、俺たちは次の世界へと向かった。
◆ ◆ ◆
次の世界は、夕暮れ時だった。
俺たちはかなり高い場所から、沈みゆく太陽を眺めていた。
空はオレンジ色と紫色に染まり、とても美しかった。
そのとき――
下の方から、何人かの話し声が聞こえてきた。
俺たちは声のする方へ向かった。
そこには、三人の少年が立っていた。
そのうちの一人は……。
まるで俺自身のような姿をしていた。
顔も、髪型も、肌の色も……すべてがそっくりだった。
まるで、自分自身を目の前で見ているような気分だった。
違うのは、着ている服くらいだ。
その少年の隣には、もう二人の少年が立っていた。
彼らの会話が、はっきりと聞こえてきた。
一人が言った。
「おい、カジョラ。お前、家を出ていったって聞いたぞ?」
もう一人が、笑いながら言った。
「いや、俺は家族の方がお前を追い出したんだと思うけどな!」
二人はカジョラを見て、ゲラゲラと笑い始めた。
俺そっくりの少年――カジョラは、その場から逃げ出した。
背後から、二人の少年が大声で叫んだ。
「お前って本当に役立たずだな、カジョラ!
いつも逃げてばっかりじゃねえか!」
俺は、走り去っていく彼の姿をじっと見つめていた。
カジョラはそのまま走り続け、森の中へと消えていった。
セレーネが静かに口を開いた。
「……そろそろ決めてもらわないと困るわね。
彼はもうすぐ崖の近くにたどり着くわ。
そして、そこから飛び降りて、自ら命を絶つつもりなの」
彼女は俺の方を向いた。
「さあ、カイト……。
この世界を選ぶ?」
俺は、あの少年に対して、なぜか不思議な感情を抱いていた。
どうしてなのか、自分でも分からない。
ただ、彼の姿が妙に気になった。
そして、俺の頭の中に、一つの疑問が浮かんだ。
(……もしかして、こいつが……俺の探していた世界なのか?)
つづく……




