第3話 : 初めての世界へ
俺の名前は天野カイト。
実を言うと、ついさっきまで俺は、大阪の本屋で大好きな漫画の最新巻を買って、家に帰る途中だった。
ところが、間抜けな女神のミスによって、俺は死んでしまった。
その埋め合わせとして、女神は一つの取引を持ちかけてきた。
別の世界にいる、俺とまったく同じ顔をした人間の体に、俺の魂を送り込んでくれるというのだ。ただし、その人間は死ぬ寸前でなければならないらしい。
俺は、より良い世界を自分で選ぶために、いくつかの世界を試してみることにした。
そして今――。
俺は森の中を走っていた。
足を必死に動かしながら、息を切らして走り続ける。木々の間を駆け抜けていると、ふと疑問が頭に浮かんだ。
「……待てよ。なんで俺、走ってるんだ?」
俺はゆっくりと足を止め、周囲を見回した。
そこは、ごく普通の深い森だった。
青々と茂る木々に、地面に落ちた数枚の葉。そして、あたりを包み込む静寂。
近くには人っ子一人見当たらない。物音すら聞こえなかった。
俺は自分の服に目を落とした。
古くて、汚れていて、あちこちが破れている。まるで野生人のような格好だった。
手には小さな擦り傷もいくつかあった。
そのとき、背中に何か重いものがあることに気づいた。
手を後ろに回して触れてみると、何かが布で背中にくくりつけられている。
俺は急いでそれをほどき、体の前に持ってきた。
……卵だった。
ただし、普通の卵ではない。
なんと、新生児くらいの大きさがあるのだ。
表面はゴツゴツしていて、色は濁ったような薄い白色だった。
「な、なんだこれ……? こんなにデカい卵があるのか!?」
俺は両手で卵を抱えながら、頭の中に次々と浮かぶ疑問を整理しようとした。
いったい、どんな生き物がこんな卵を産んだんだ?
そして、どうして俺の背中にくくりつけられていたんだ?
しばらく考えたものの、俺は結局、肩をすくめた。
「まあ、いいか。とりあえず、今日の晩飯は確保できたな」
俺は再び卵を布で包み、しっかりと背中にくくりつけると、笑顔で歩き始めた。
森から抜け出す道を探しながら、俺は少しずつ気持ちが楽になっていくのを感じていた。
少なくとも、飢え死にする心配はなさそうだ。
そのときだった。
背後から、大きな音が聞こえてきた。
何かがものすごい速さで近づいてくるような音だ。
重い足音が落ち葉を踏み砕き、荒々しい息遣いが響く。舞い上がった土埃が、あたりに広がっていく。
俺は振り返った。
最初は土埃しか見えなかった。
だが、それが徐々に晴れていくにつれて、目の前の光景がはっきりと見えてきた。
青い毛並みをした動物の群れが、ものすごい勢いでこちらに向かって突進してきていたのだ。
そいつらは巨大で、動きが速く、全員がまっすぐ俺を見据えていた。
その正体を理解するまで、俺の頭は一瞬、考えることを放棄した。
「と、トラ……!? しかも、青いだと!?」
俺は目を見開いた。
「っていうか、こっちに向かってきてるじゃねえか!」
考える暇なんてなかった。
俺はすぐさま反対方向へ走り出した。
木々の間を必死に駆け抜けながら、俺の頭の中では同じ考えが何度も繰り返されていた。
この世界のトラは青いのか……。
そりゃ、かなり変わってるな。
……いや、今はそんなことを考えてる場合じゃない!
こいつら、俺を殺す気満々じゃねえか!
呼吸はどんどん荒くなっていく。
背中にくくりつけた卵が、走るたびに上下に揺れた。
背後から響く咆哮も、次第に大きくなっていく。
俺は全力で走った。
青いトラたちは、どんどん距離を詰めてくる。
まるで時間が経つほど速くなっているかのようだった。
足は疲れ始め、息をするのも苦しくなってきた。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
そのとき、突然……何かがおかしいことに気づいた。
俺は走っている。
足もちゃんと動いている。
なのに、前に進めない。
「な、なんで前に進めないんだ!?」
足元から地面の感触が消えた。
俺は下を見た。
そこには、もう地面がなかった。
俺は深い谷の縁に立っていたのだ。
そして今――。
俺は落ちようとしていた。
「う、嘘だろ――!」
バランスを崩した俺の体は、あっという間に落下を始めた。
風が耳元で轟音を立て、俺は反射的に目をぎゅっと閉じた。
終わった……!
再び目を開けると、俺はあの白い光に包まれていた。
見覚えのある場所。
女神セレネの執務室だった。
セレネは俺の目の前にある椅子に座り、ニコニコと笑っていた。
その声には、面白がるような響きと、少しばかりの皮肉が混じっていた。
「おかえりなさい、天野カイトさん! 本日はどのようなご用件でしょうか? あちらの世界で、せめて丸一日くらいは生き延びてくれると思っていたんですけどね」
俺はイライラしながら答えた。
「何がおかしいんだよ!? せめて一日くらい生き延びられる世界に送ってくれよ! それなのに、いきなりトラの群れに放り込むなんて、どういうことだ!」
セレネは腹を抱えて笑い出した。
「アハハハハハハッ!」
しばらくして、ようやく笑いが収まった。
目尻に浮かんだ涙を拭いながら、彼女は言った。
「ああ、ごめんなさい! でも、本当に面白かったんですもの。自分が何をしたのか、わかっていますか? あなたが入った体の少年には、まだ丸一日も寿命が残っていたんですよ。それなのに、あなたはたった十分で彼を死なせてしまったんです!」
その言葉を聞いた瞬間、俺は固まった。
「一日……? どういう意味だよ?」
セレネは微笑みながら説明を始めた。
「その少年は、青いトラの卵を盗んで逃げていたんです。もしあなたが彼の体に入っていなければ、彼はなんとかトラたちから逃げ切り、村まで帰ることができたはずでした。
そして、その卵を家に保管して、翌日、村人たちに見せびらかすつもりだったんです。自分がどれほど勇敢なのか、証明したかったのでしょうね。
ところが、その翌日、トラたちは村全体を襲撃することになります。
その襲撃によって、少年だけでなく、何人もの村人たちが命を落とすはずでした。
でも……あなたがあまりにも早く死んでしまったおかげで、村の人たちは誰一人として被害に遭わずに済んだんです」
俺は無言で頭を抱え、顔をそむけた。
セレネは優しい声で尋ねた。
「それで? 次の世界で、もう一度試練を受ける準備はできていますか? それとも、ここで少し休んでいきますか?」
俺は落胆していたものの、すぐに気持ちを立て直した。
顔を上げ、力強く答えた。
「最初の試練なんて、ほんの序章にすぎない! 今度こそ、絶対に死なずに生き延びてやる。見てろよ!」
セレネは小さくうなずいた。
「はいはい。どうなるか、楽しみにしていますね。それでは、いってらっしゃい!」
次の瞬間、俺の体は光に包まれ、どこかへ転送された。
俺が消えたあと、セレネは長いため息をついた。
椅子の背もたれにゆったりと体を預け、彼女は小さくつぶやいた。
「本当におバカな子……。今度こそ、本人が気に入る世界を見つけられるといいのだけれど」
つづく……




