第12話:猪の王との対峙
森の入り口に辿り着いた俺たちは太い大木の根元に腰を下ろし、俺は小枝を拾って地面に簡単な作戦図を描き始めた。
「いいか、よく聞け。作戦は至ってシンプルだ。俺が猪の正面に出て注意を引きつける。突進してきたら、お前が死角の側面から回り込んで首元を仕留める。二人で息を合わせて一気に倒すぞ」
「ってことは、あんたが囮ニャ?」
「俺が……ああ、俺が囮役だ」
「新しい囮ニャ!」ルルミは嬉しそうにパチパチと手を叩いた。「あたし、この作戦気に入ったニャ!」
「それと、もし少しでも危なくなったら即座に撤退する。文句なしで、だ。分かったな?」
「分かった、分かったニャ!」
その瞳はキラキラと輝いていて、俺の話の半分も聞いていないんじゃないかと不安が過った。
俺たちは森の奥へと足を踏み入れた。
木々は生い茂り、木漏れ日が地面にまだら模様を描いている。足元には至る所に蹄の跡が残り、ところどころ地面が鋤で耕されたかのように大きく掘り返されていた。
「この近くにいるニャ」ルルミが鼻をヒクつかせながら言った。「匂いがするニャ」
それから間もなく、俺たちは最初の一匹を発見した。
体高は俺の腰ほどまであった。黒く剛毛に覆われた皮膚、口元から突き出た二本の太く白い牙。そいつは藪の中に鼻先を突っ込んで何かを嗅ぎ回っていた。
心臓の鼓動が激しく高鳴る。
「よし」俺は囁いた。「俺が出る」
「あたしは横からニャ」ルルミが小声で応じる。
俺はリッカを抜き放ち、正面へと進み出た。猪が顔を上げる。その小さく濁った赤い瞳が、真っ直ぐに俺を捉えた。
「お、おい! こっちだ、豚野郎!」
グルルルと唸り声を上げる猪。
そして次の瞬間、猛烈な勢いでこちらへ突進してきた。
俺は切っ先を構えた。リッカが手の中で淡い青い光を放つ。
「斬りなさい、カイト!」リッカが鋭く囁いた。
猪の巨大な牙が刃と激突し、両腕に激しい衝撃が突き抜けた。身体ごと後方へと押し込まれる。だがその瞬間、藪の中から鮮やかなオレンジ色の影が跳躍した。
ルルミが猪の首筋深くに鋭い爪を突き立てた。
断末魔の甲高い叫び声を上げ、そして静寂が訪れた。
猪は地面に崩れ落ち、動かなくなった。
「やったニャ!」ルルミは飛び跳ねて喜んだ。「カイト! 作戦大成功ニャ!」
「ああ……ああ、上手くいったな」
俺は乱れた呼吸を整えながら、思わず笑みをこぼした。こんなにあっさり倒せるものなのか? 俺はもしかして、生まれながらの冒険者の才能があるんじゃないか?
「見た?」リッカが呆れたような声で言った。「囮役の才能だけは天性のものがあるみたいね」
「黙ってろ」
◆ ◆ ◆
続く一時間ほどで、俺たちはさらに五匹の猪を狩った。
毎回同じ作戦で、毎回それが完璧に機能した。俺が正面から注意を引き、ルルミが側面から急襲し、猪が沈む。ルルミも一度として勝手な暴走をすることなく、俺の指示を完璧に守り通していた。
「あたし言われた通りにしたニャ! ちゃんと全部聞いたニャ!」倒すたびに彼女は誇らしげに叫んだ。
「ああ、偉いぞ」
「ご褒美もらえるニャ?!」
「ギルドに戻ったらな」
「ニャ! あたし最高ニャ!」
俺たちの気分は最高潮に達していた。麻袋の中には五対の牙。そして俺の胸には危険な考えが芽生え始めていた――冒険者稼業というのも、案外悪くないんじゃないか、と。
その時、ズシンと大地が揺れた。
ドォン。
ルルミの耳がピクンと直立した。
ドォン。
剣を握る腕の産毛が総毛立った。木々の葉が一斉にざわめく。
ドォン。
「カイト」背中のリッカの声が、かつてないほど緊迫したものに変わった。「下がりなさい」
「え……?」
「今すぐよ!」
藪を押し分け、巨大な影が立ち塞がるように姿を現した。
それは猪だった。だが、今まで相手にしていた獲物と比べるなら、ネズミと象ほどの差があった。背丈は大人の男二倍はある。漆黒の分厚い皮膚には幾つもの古傷が刻まれ、口元から伸びる二本の牙は俺の腕ほども太く、大剣並みに長かった。荒い鼻息からは白煙が立ち上っている。
俺たちを見下ろす赤い瞳に、獣特有の狂気はなかった。そこにあったのは、冷酷で獲物を品定めするような飢えだけだった。
「こ、こいつが……八匹目の獲物なのか……?」俺の声が震えた。
「あいつは猪たちの王よ」リッカが言った。「『キングタスカー』。絶対にDランクの魔物なんかじゃないわ!」
「ルルミ!」俺は小声で叫んだ。「引くぞ! 作戦通りだ! ゆっくり後退しろ!」
ルルミがこちらを振り返った。その金色の瞳にあったのは恐怖ではなく、異様なまでの闘志の輝きだった。
背筋に冷たいものが走る。
「ルルミ……やめろ!」
「あんなに大きいニャ、カイト!」彼女の声は震えていたが、それは興奮のあまりだった。「あたしならぶっ倒せるニャ!」
「ルルミ! 引けって言ってるのが……!」
彼女はすでに地を蹴っていた。
オレンジ色の稲妻と化してキングタスカーへと真っ直ぐに跳躍し、爪に魔力を宿らせて輝かせた。そして全身の体重を乗せ、その強靭な肩口へと渾身の一撃を振り下ろした。
ガキィンッ!
その爪は、まるで濡れた巨岩を撫でただけのように空しく弾かれた。
キングタスカーは、鬱陶しそうにほんの少し首を振った。ただ、それだけだった。
ルルミの身体は無慈悲に吹き飛ばされ、十歩ほど離れた大木へと叩きつけられた。
「ルルミッ!」
地面に激突した彼女の肩からは鮮血が滲んでいたが、それでも必死に立ち上がろうともがいていた。
「ニャ……あたし……平気……ニャ……」
平気なわけがなかった。そして猪の王は、完全に彼女を標的として向き直っていた。
俺は何も考える余裕がなかった。
「リッカ、もうどうにでもなれだ!」
俺は無我夢中で駆け出した。地面を蹴る足音が響き、頭のどこかで自分が完全に狂っていると警告のサイレンが鳴り響いていた。俺は猪の王とルルミの間に割り込むように飛び込み、剣を正面に構えてその突進を受け止めようとした。
激突。
骨がきしむほどの衝撃が全身を貫いた。足は地面から弾き飛ばされ、次の瞬間、俺はルルミが倒れていた同じ大木へと背中から激突していた。
息が詰まる。まるで鉄のハンマーで胸を殴りつけられたかのようだった。
「カイト!」リッカの悲鳴のような切迫した声が響く。「立って! 立ちなさい!」
激しく咳き込むと、口の中に鉄の味が広がった。
隣に倒れているルルミは、耳をペタンと伏せ、その目には涙が溢れていた。
「ごめんなさい、カイト……あたし、また……またやっちゃった……」
「今は……喋るな……」
俺は心の中で絶望的な恐怖に震えていた。(こいつはBランクの魔物だ……俺たちなんかに勝てる相手じゃない……)
猪の王が、確実な足取りでこちらへと迫ってくる。
ドォン。
ドォン。
ドォン。
一歩踏み出すごとに大地が震える。背後には大木、その数歩先には深い崖。完全に逃げ場を失っていた。
見上げた先で、その巨大な牙が木漏れ日を浴びてギラリと光った。
(三度目か……)と、俺は思った。(三度目の死を迎えるんだな。今度は猪の手にかかって。セレネが知ったら大笑いするだろうな)
猪の王が、とどめを刺そうと頭を低く下げた。
その時だった――
シュバッ――!
甲高い破空音が大気を切り裂いた。
青白く発光する一条の光の軌跡。俺の目ではその軌道を捉えることすらできないほどの超神速。
ドスッ!
猪の王が耳を劈く絶叫を上げた。その左目には深く光の矢が突き刺さり、その周囲をパチパチと青い稲妻の火花が激しく舞っていた。
「な、何だ……?!」
シュバッ! シュバッ!
さらに二筋の閃光が矢継ぎ早に放たれた。一筋は前脚の関節を、もう一筋は後脚を正確に貫いた。矢の鏃から氷のような青い霜が一気に広がり、その巨躯の蹄を大地へと完全に凍りつかせる。
猪の王は地面に縫い付けられた。
咆哮を上げて拘束を引きちぎろうと暴れ狂うが、ミリ単位すら動くことができない。
そして、最後の一撃が放たれた。
シュオォォォッ――!
今度の矢は、燃え盛るような紅蓮の輝きを纏っていた。それは猪の王の眉間のど真ん中を深く穿ち、次の瞬間に凄まじい衝撃波を伴って炸裂した。
ドカァァァンッ!!
爆風とともに土煙と木の葉が猛烈な勢いで吹き荒れた。俺は反射的に両腕で顔を覆った。
やがて土煙が晴れた時、そこにはピクリとも動かなくなった巨大な猪の王が横たわっていた。
耳の奥で、キーンと静寂の音が響いていた。
「……ニャに、これ……?」ルルミが茫然と呟いた。
「俺にだって分からない……」と、俺は答えた。
「あたしには分かるわ」リッカが低く静かに言った。「射手は遥か遠くにいる。信じられないほど遠くにね」
俺は顔を上げた。
百メートル以上も離れた小高い丘の頂に、一人の人影が凛と佇んでいた。その手には長大な弓が握られている。
その人影は静かに弓を下ろすと、少しの焦りも見せることなく、ゆっくりと丘を下り始めた。




