第75話『縁の横取り成り代わり』
未だ濛々と霧が立ち込めるガード下。敦斗は、隣にいる『翠羽』に違和感を覚えていた。
――怖がってないどころか……。
まとわりつく距離感。視線の熱。息の近さ。
――この感じ……俺に気がある女子みたいな……。
探るように見つめると、彼女は蕩けるような笑みを浮かべた。
敦斗は、翠羽がこれまで見せたことのない表情に戸惑っていた。獲物を逃がさず絡め取るような、丸ごと呑み込んでしまいそうな――そんな眼差しに、複雑な感情が押し寄せる。
「敦斗君が好き。もっと触れて……」
『彼女』の指先が、敦斗の腕に絡みつく。
「敦斗君も、私を一番にして……」
「……っ!?」
「離れないで!」
反射的に一歩引こうとする。だが思った以上の力で、より密着度が増してしまった。
「こんな気持ち、敦斗君にだけ――」
『スイハ』が自らの顔を近づけ、唇が触れる――
「んぶっ!?」
――その直前。触れた感触はあの柔らかさとは程遠く、乾いて硬い、骨ばったものだった。
「チッ……家でやれ」
「っ……え、幸樹!」
幸樹は不機嫌さを隠そうともせず――背後から『翠羽』の顔を鷲掴みにした。そのまま、強引に後ろへ引き剥がす。
「…」
敦斗は不可抗力とはいえ幸樹の手の甲に口づけてしまったことに気づき、一瞬だけ気まずさに意識を奪われる。だがその間にも、彼の指はさらに強く食い込んでいた。
悲鳴など意に介さず、無言のまま力を込めた次の瞬間。
『バキィン!』
硬質な破砕音が響き、続けざまに何かが崩れ落ちる音が重なった。
「え――家守さん!?」
そこにいたのは翠羽ではなく、行方不明の少女――家守だった。
彼女は糸が切れたようにその場に崩れ落ち、ぐったりと意識を失っている。
「ふぅん……私の理解を超えた何かが関わっていることは、間違いなさそうね」
幸樹の後ろで、カレンが腕を組んだまま呟く。
「これでここにいるのは……熊本君を除いた全員かしら?」
その一言で、敦斗の思考が一気に現実へと引き戻される。
――翠羽!?
視界を覆っていた霧がさらに薄れる。その隙間を縫うように、敦斗は彼女の姿を探して駆け出した。
☆彡
「翠羽、顔赤いよ……?可愛い。オレにドキドキしてくれてる?オレかっこいい?」
「……えっと……」
翠羽は『敦斗』からの熱烈な求愛を受けてぱっと俯く。その表情の奥に浮かんだのは、喜びではない。
――敦斗君も……私のこと、好きになっちゃったんだ……あれ。何で笑えないんだろ。
落胆が胸に広がり、彼女はそれを隠すように声を上ずらせた。
「全部好きだから……俺が見たことない表情、もっと見せて欲しい……」
「いっ、一旦落ち着いて!?ね?」
「っ……たまんねぇ……可愛い……!」
「えぇ……」
――敦斗君……急に変になっちゃってどうしたんだろう。
言葉にしてようやく気づく。この状況は――どこかがおかしい。
敦斗が自分を『恋愛対象』として見て、好意を向けてくること。それ自体は幼い頃から嫌というほど経験していて、慣れているはずなのに。
そこにあるのは満たされる感覚ではなく――空しさだった。
――友達って言い方はちょっと違うけど、同士とか戦友とか……敦斗君となら、対等な存在になれるって思ってたのに。
恋愛とは、惚れた方が相手より弱い立場に回るものだ。翠羽は『彼』が勝手に堕ちてしまったという現実から目を逸らすように、ずっと掴んでいた彼の腕から手を離した。
「蟇目君と家守さんを探さないと……」
「ここにいるよ」
「え?」
翠羽が顔を上げると、敦斗の整った顔がどこか禍々しいものに見えた。
「一緒に逝こう。オレはずっと翠羽の隣で守るから……彼氏として、永遠に」
言葉は甘い。だが、どこかが決定的に噛み合っていない。
「ど、どういうこと……?痛っ――」
突然、握られた手に異様な力が込められる。翠羽が痛みに顔を歪めた、その刹那――
「『俺』がそんなこと言うかぁー!」
「へぐぅ!?」
――鋭い右ストレートが、その顔面を容赦なく抉った。
「ヤベ!俺の顔で激クサ台詞吐いてたから手加減できなかった……生きてる!?」
「……敦斗君!?え、偽物……って蟇目君!?」
敦斗の拳が叩き込まれた衝撃で、顔を覆っていた『仮面のような何か』が砕け散る。
露わになったのは――もう一人の行方不明者である蟇目だった。そのまま力なく崩れ落ち、彼は昏倒する。
「翠羽大丈夫!?」
ただ自分を一人の人間として気遣うような声色に、翠羽はようやく肩の力が抜けるのを感じた。
――うん……そっくりだったけど、やっぱりこっちが敦斗君だ。
「……これで解決はしたな。一応」
「そうみたいね」
「……あれ?え?」
「スカッシュ部の先輩。幸樹とテディ連れ戻しに来たって」
「そうなんだ……お、お疲れ様です」
幸樹の後ろには、資産家で美人と名高い先輩の姿があった。
「日射病や脱水症状ではないみたいだけど、彼もかなり体力を削られているようね……服部君。救急車を呼んで頂戴」
「俺すか」
「今の私がスマホを持っているように見える?」
「はぁ……」
「何よその溜息」
「は、服部君!今すぐ救急車呼んで!」
翠羽は一気に起こった異常に狼狽えながらも、散乱した情報を無理やり繋ぎ合わせ――どうにか状況を受け入れるのだった。
☆彡
『……意外とかかったな』
「距離の話?」
『おー』
幸樹が翠羽に化けていた家守にアイアンクローをキめていた頃。糸哉はシェンに映像を見せながら、ガード下を抜けた先にある『縁切り地蔵』の前に対峙していた。
――『愛する人と結ばれない者が、相手と自分の髪を結んで供えると、来世で結ばれる』ねぇ……。
霧は届いていない。だが周囲に人影も車もなく、無害なはずの地蔵だけが――場にそぐわない気配を孕んでいた。
『髪の毛とやらは?』
「ない……ね。風で飛んだか、やっていないかだけど……」
『やってるに決まっとるじゃろ。相手の髪の毛なんて簡単に手に入るわ』
「小椿さんは髪長いからまだ分かるけど、敦斗の髪の毛なんてどういう経路で入手したんだろ……」
『そらお前アレよ。おまじないとか』
「呪い……やっぱ女子って恐るべしだなぁ……」
糸哉が地蔵の前に立ち、シェンから預かった『聖水』を振りかけようとしたその時。
『ゴリュッ』
地蔵の首が、不自然な音を立てて落ちた。すると周辺の空気が澱み、総毛立つような悍ましさに包まれる。
「おぉ」『クソ。昼前じゃなきゃもっとえかったのに……』
ホラー耐性が高い糸哉とシェンは他人事のような声を漏らし、静かな目でその様子を観察する。糸哉は転がって止まった首を一瞥し、そのまま胴体の断面へと視線を落とした。
「えキモ」
『うっわ』
中は石像でも、空洞でもなく――大量の髪の毛がぎっしりと詰め込まれていた。
黒や茶、あるいは金や白までもが複雑に絡まり合い、年代も性別も判別がつかないそれらは、異様な密度でうねっている。
『なぁ。そっち風は』
「無風かな?」
『じゃ何で髪の毛が動いとるん』
二人が理解するより早く――それらは、ぞろりと溢れ出した。
束になった髪が地面へとこぼれ落ち、まるで意思を持つかのように蠢く。
――あーこれ、髪の毛が地蔵を守ってる……?
糸哉が生理的な不快感に気を取られた隙に――地蔵は溢れ出た髪で自らの体と頭部を覆い、守る。
そして残ったそれらが、糸哉の足元へと這い寄ってきた。
『聖水……これ一本しかねーぞ!上からかけても効くか!?』
「効かなかったら逃げるね!」
糸哉が聖水ボトルの蓋に手をかけると――
「おい邪魔。どけよ」
――すぐ背後から、自分と同じ声が命じた。
「!?」
考えるより早く、彼は一歩横へ退く。一秒後、背後からオレンジの猛炎が、太い腕が伸びるような勢いで放たれた。
『ゴォォォォォ――』
噴き出した熱が空気ごと薙ぎ払い、無数の髪の毛を一瞬で焼き焦がす。
チリチリと縮れ、黒く炭化していくそれらは――さっきまでの生々しさを嘘のように失っていった。
「…」
『はぁ!?何で燃えた!?おいテディ!そっちの状況は――』
呆然とする糸哉の耳に、シェンの声が飛び込む。眼鏡が取れた彼の視線は、ある一点に固定された。
そこには、何らかの方法で髪の毛を燃やした犯人――自分と寸分違わぬ相貌を湛えた男が佇んでいた。
彼は背中に両手を回したままこちらの戦慄をなめるように見つめ、地蔵の首を蹴ってよこす。
糸哉が昏い顔で聖水をかけると、その存在は地蔵と共に跡形もなく霧散した。
☆彡
糸哉たちは、幸樹が呼んだ救急車が到着する前にその場を離れた。
その後の事情聴取など、面倒な一切は全て幸樹が引き受けることになる。
蟇目と家守に命の別状はなかった。しかし二人は放心状態に陥っており、自分たちが何をしようとしていたのか――断片的にしか思い出せない状態だった。
そして翠羽と敦斗に向けていたはずの執着は、完全に『恐怖』へと変貌したことを本能で理解する。
以後――彼らが二人の名前を出すことは、二度となかった。
とあるドラッグストアの店長「――あぁ?送ったのは『穢れを祓うミネラルウォーター』なんだからバッチリ怪異に効いてるって。あの後俺も心配になってさ。行方不明の子二人にお見舞いがてら『トラウマを消す薬』使った。これで心もキレイに治って、明日には問題なく日常に戻れるから――」




