第70話『ラスボス襲来?』
七月下旬。それは学生にとって夏休みの開始であると同時に、受験の趨勢を決定づける重要な時期でもあった。
「――うん。かなり努力されていますね。この調子なら第一志望は十分現実的です。特にお兄さんの方は、トップ合格も狙えると思いますよ」
塾での面談中。担当講師から穏やかな口調でそう告げられ、山根母は安堵の息を吐いた。
今年の一月末に、ほとんど突発的に決まった大舞学園中等部という進路。準備期間としては決して長くはなかったが、兄妹ともに順調に結果を積み上げてきていた。もともとの地頭の良さもあるのだろうが、それだけでは説明のつかない伸び方だった。
――『憧れの先輩がいるから受験したい』って言ってはいたけれど……誰か聞いても『受かるまでに話す』としか言わないし。
彼女はふと、内心で言葉を継ぐ。
特に長男の変化は顕著だった。およそ一年不登校だった彼は、今では毎日きちんと登校している。楽しそう――というよりはどこか機械的で、本心では行きたくない様子が常に滲んでいる。それでも母親の立場からすれば『問題なく通学している』という事実は大きな安心材料だった。
長女の純花は純花で、兄への対抗心に火がついたのか、目に見えて勉強への姿勢を強めている。
――そこまでは想像つく。けどまさか、喧嘩ばっかりのお兄ちゃんと同じ学校に行きたがるなんて……。
兄だけでなく、純花にも何らかの影響が及んでいるのは明らかだった。
――あの子たちは、どうしてあそこまで変わったの……?
彼女にはどうしても分からなかった。兄妹をここまで変えた決定的な要因が。
気にならないはずがない。それでも日々の仕事と家事に追われる中で、その疑問に深く踏み込む余裕はなかった。不登校が解消され、家の手伝いにも前向きになった息子をあえてそのままにしている自分がいる。それは夫も同じだった。
『どうかこのまま折れずにいてほしい……』と心のどこかでそんな希望を抱きながら。
彼女は夫ほど、彼女は子供たちの中学受験に熱心ではなかった。だからこそ今の状況を、どこか現実味の薄いものとして受け止めている部分もある――そんな頃だった。息子の口から『憧れの先輩を紹介したい』という言葉が出たのは。
☆彡
「――熊本ー!ちょっと!」
部活終わり。片付けに手を動かしていた糸哉の耳に、顧問の切羽詰まった叫びが飛び込んできた。
「はーい」
糸哉は間延びした声で応じる。だが顧問は何も返さず、無言のまま歩き出した。
一階の廊下。足音だけが響く中――やがて彼は、どこか硬い声で口を開く。
「君のお父さんが来ている」
「!?」
――連絡も無しにいきなり……か。いつも。にしては先生のビビり具合が……。
「なんかすみません。絶対しょーもないことで来てると思うのでそんな驚かなくても……」
顧問は応接室の手前で立ち止まり、周囲を気にするように声を抑えた。
「こういう言い方は良くないけど……熊本君はお母さん似だね」
「え?」
彼は糸哉の返事を待たず、応接室の引き戸を軽くノックした。だが自分は中に入ろうとせず「終わったら部屋はそのままで職員室に来て」とだけ告げると、その場を離れた。
「……?」
――怯えてる……?何で?僕も父さんも温厚で売ってるのに。
糸哉は引き戸を開け、中にいる人物――スーツ姿の男性を見た瞬間。
「あぁ……」
――僕の父さんとは別ベクトルで表情が読めないタイプだ……。
顧問が一度も視線を合わせなかった理由を即座に理解した。とりあえず向かいのソファーに座り、相手と視線を合わせて問いを投げる。
「えっとすみません。僕が熊本ですけど……誰のお父さんですか?」
「突然の訪問で失礼します。初めまして、私は――」
「――えっ、ユイガのお父さん!?」
「ユイガ?」
「あ、僕ネットで彼のことそう呼んでて……」
――予想外だ……てっきり祐東家の人間かと。
糸哉は、差し出された名刺に目を落とし、思わず声を上げる。
目の前の男――山根家の父は終始崩れない硬い表情のまま、体操服姿の少年を静かに値踏みするように見据えていた。
と、いうのはあくまで糸哉から見た視点である。
――急に半休になったものだから、帰りがけに純花から聞いた『熊本と言う憧れの先輩』とやらのことを考えながらふらっと立ち寄っただけだったのに……。よりによって彼を知る教員から呼び止められた挙句、そのまま父親と勘違いされて応接室に通されてしまった……一体、何なんだこの状況は。
実際のところ、今日こうして部活帰りの糸哉と顔を合わせることになるとは思っておらず――山根父の内心は大いに戸惑っていた。
「この近くに喫茶店があります……場所を変えましょう。君の家の事情については純花からある程度聞いています。長くは引き留めません」
内心の動揺は切り離し、彼は冷静に言葉を選ぶ。年相応の落ち着きで相手に余計な警戒を抱かせぬよう――自然な流れで席を外す提案をした。
「わ、分かりました……じゃあすぐ着替えてきます!」
――待って待ってユイガの妹さんから聞いて……ってどこまで!?全部ならゲーム実況のことも知ってる!?先手打って反対しに来た!?わざわざ話し合いの場を設けてくれるってことは一方的な忠告をする気はなくて、僕の言い分をきちんと聞いた上で精査してくれるってこと……?スーツなのも具体的な話をしに来たって意思表示……?
糸哉は全力で駆け戻ると、既に着替え始めていた幸樹に追いつく勢いで制服へと腕を通した。
「僕このまま(ユイガの)父さんと帰るから!敦斗に伝えといて!」
「……おー」
「じゃあね!」
――うわぁぁぁぁ早くスマホスマホ!シェンっ……!
彼は部活後の疲労も忘れ、急いでシェンに連絡を取った。
☆彡
10分後――喫茶店チェーン『ホシダ珈琲』の四人掛けソファー席にて。
「…」
「…」
糸哉は目の前に置かれたアイスミルクコーヒー――一番大きな『ぼっけぇグランテサイズ』と、向かいに座る人物とを交互に見比べた。
――朝から部活だったんだろう。喉も渇いているはずだ……こういう時くらい沢山飲んでほしい。
彼はただの善意から、自分の息子と同じくらいの少年へ大きめの一杯を勧めたに過ぎない。
――ガ、ガッツリ小一時間は問い詰める気だ……てか量エグ。飲んでも飲んでも減らない……。
ビールジョッキ並の量はある飲み物と、山根父の無言の圧も相まって――糸哉は逃げ場のない恐怖を覚えた。
「糸哉君と子供たちの関係については純花から聞いている。だが、改めて君自身の言葉で聞かせてもらえるかな」
「はい」
――えっと表向きのストーリーは……。
糸哉が『テディ』であることを伏せた上で、ユイガと整えた出会いの経緯はこうだ。
二人はネットを通じて知り合ったゲーム仲間である。約一年前からやり取りを重ねるうちに意気投合し、互いの素性を明かすに至った。
その結果、偶然にも近隣に住む年の近い同性であることが判明する。やがてユイガは、自身が不登校であることを打ち明けた。
それに対し糸哉は、自分が進学を予定している大舞学園の受験を勧める。
『知り合いがいるなら』という後押しもあり、ユイガはそれを契機に再び前を向く決意を固めた。
純花ともユイガを通じて話す機会があり、糸哉は『兄を良い方に変えてくれた救世主のお兄ちゃん』という印象を持たれている――。
事実を基にしつつも、対外的にはそのように整理された経緯である。
「まず、君が自分のことを偽らずに話していたことに礼を言いたい。あの子たちは他人に対して警戒心が強い方だと思っていたが……」
――直接会わずともここまで関係を築けるとは。糸哉君の人柄あってのことかもしれないな。
山根父はただ素直に感慨していたに過ぎない。だが糸哉は言葉の裏を無意識に探り、意図を読み取ってしまう。
――他人の事情に首を突っ込むなって釘刺されてる……?
糸哉は静かに息を吐き、意識を右耳へと寄せる。そこには超小型のワイヤレスイヤホンが収まっており、この会話はシェンにも共有されていた。
――大丈夫。いざとなったら神の知恵も借りれるし。ここまで整えてきた段取りを活かさなきゃ。
昼時の喫茶店は人で溢れていたが、誰もが自分たちの会話に没頭している。
糸哉たちのやり取りも、喧騒の中に自然と溶け込んでいた。外から見ればただの父子――意識の目が向くことはない。周囲に知り合いの姿もなく、その状況はむしろ好都合だった。
「僕とユイガ――僕と妹さんとの関係もあるか。実はただの友達じゃないんです。妹さんにも、その件については然るべき時が来るまで伏せておくよう約束していました」
糸哉はシェンからの合図を受け、静かに口を開いた。
「僕はこのチャンネルの運用に関わっています。ご兄妹も、割と初期からここの視聴者だったみたいで……」
山根父は、糸哉が置いたスマホに視線を落とす。そこに表示されていた『諸君!これがプロである!!』のチャンネルページを認めた瞬間、その目がはっきりと見開かれた。




