第65話『祐東カレンの萌えスキル』
カレンが着た寝間着は糸哉母のものでした。
自分でも驚くほど衝動的で、どこか子供じみた宣言をしたカレンは反射的にタクシーを拾い――
『……堀蔵小学校の方までお願いします』
――気づけば糸哉の住む街の方角へ向かおうとしていた。
胸の中で色んな感情が燻っている。
思考がぐちゃぐちゃに絡まり、整理がつかない。
あの父の態度で納得できるはずもなく、しかしどちらを否定すればいいのか分からない。
――父は本当に不倫していないかもしれない。でもあの子が嘘をついているなんて思いたくない……本当は疑いたくなんてないのに。
もし何かを確かめてしまったら――その先にある答えを、自分が受け止められるのか分からないから。ネオンに染まる車内で、カレンは窓の外を見つめたまま何も考えられずにいた。
ただ一つだけはっきりしていたのは――今はもう、父のいるあの家に帰りたくなかったということだった。
☆彡
午前七時三十分。
ぼんやりと覚醒したカレンは薄暗く、自分の部屋ではない空間に意識を巡らせた。次の瞬間、さっと顔色を変える。
――私はなんてことを……。これも全部お父様の所為だわ!
彼女は弾かれたように隣へ目を向ける。だがそこにいたのは、寝息を立てる糸哉の兄貴分だけ。昨夜、心の揺らぎに任せて甘えてしまった糸哉の姿はどこにもなかった。
――知らない家……しかも異性の後輩の家なんて。
その事実が遅れて身体に染み込んでくる。目覚めたばかりの彼女は、昨日よりもずっと硬い表情をしていた。
――頭が冷えたってことね……。
だからこそ昨夜の自分の行動が、はっきりと重みを伴って蘇る。
あれから母親に『友達の家に泊まる。お昼までに帰る』とだけメッセージを送り、スマートフォンの電源を落としたまま放置していた。
これまでも喧嘩のたびに家を飛び出したことはあったが、その行き先は常にマンション内に限られている。こうして他人の家に泊まるのは、これが初めてだった。
――どうしてあの時、真っ先に彼が浮かんだの……?まあ、動転した状態の自分を振り返っても分かるはずないわね。
彼女はひとまず、糸哉の姿を探すことにした。
――昨日から気になっていたのだけど、この部屋だけセキュリティが異常なのよね。
カレンの視線は、寝ていた部屋の斜め前にある一室で止まる。そこだけ場違いなほど厳重な鍵付きドアノブが取り付けられていた。
静脈認証で開くそれに惹かれ、無意識に手を伸ばすと――
「そこ兄さんの私室なんで立ち入り禁止ですよー」
「キャーッ!」
「ギャーッ!目潰しは勘弁してください!」
――いつの間にか彼女の背後に、エプロン姿の後輩が立っていた。
「やー驚かせちゃってすみません。朝ご飯食べます?」
「え?」
「ウチご飯派なんで、そこだけご了承ください。食欲なかったらフルーツだけにしますか?」
「……いえ。ご飯いただくわ」
彼は間一髪で両目を守り、軽い調子で謝る。カレンはまたしても糸哉のペースに乗せられたままリビングへ入り、出来立ての朝ご飯に目を丸くした。
――え……これ誰が作ったの?ご両親?
控えめによそわれたご飯と玉ねぎと豆腐の味噌汁を見つめ、きょろきょろとリビングを見渡す。
「多かったら残してくださいねー」
だが部屋にはカレンとエプロンを脱いだ糸哉しかいない。彼は向かいに腰を下ろすと、リモコンに手を伸ばして朝のニュース番組をつけた。
「い、いただきます……貴方のお兄様は?」
「予定あるらしいんですけど、ギリギリまで寝るみたいです」
「料理ってここでもやってたのね」
「まぁ。普通のものを普通の味でしか作れませんけど」
「中一でそれは十分凄いでしょう。誇っていいわ」
「いや先輩の方が大変そうですけどね。僕はパーティとか行ったことないんで」
「…」
カレンは塩を振った半熟の目玉焼きを口に運びながら、要点だけを淡々と伝える。朝に交わすには重い話だったが、糸哉はテレビを消し最後まで耳を傾けた。
「……先輩が信じたいことだけを信じたままでいればいいんじゃないですか?友達は嘘を吐いてない。本当にただ見間違えただけ。お父さんは女性とホテルになんて行ってない……あの、僕の足を踏んで訴えかけるのやめてください」
「一理はあるけれど。楽な幻想に逃げていられるほど、この世界は優しくできていないわ。もう少し相談者に寄り添った答えは出せないの?」
「だって先輩が納得するまでやったら、お父さんか友達どちらかの関係が破綻しかねませんよ。お父さんにいたっては不倫疑惑でしょ?良くて別居、悪くて家庭崩壊……」
「分かってる。だからお母様にも話せないのよ……」
ここで会話は途切れ、二人は静かに朝食を口に運ぶ。気を張る相手がいないせいか、カレンには自分の家よりもずっと狭いこの部屋がどこか落ち着く場所に思えた。
「どの道、今回で綻びが生じてるので……もう潮時だと思います。先輩がどう動くか迷っている間にも、お父さんサイドと幼馴染さんサイドで状況は変わってきますよ」
――そうした未来に待ってる出来事が、先輩にとっての『解決』になるかどうかは分かんないけど。
「ま、探偵ごっこくらいなら付き合いますんで」
糸哉はそれはカレンが背負うべき問題じゃない、悩まなくていいと自分なりに伝えて席を立つ。カレンでも着られそうな外着を見繕って戻ると、彼女は食べ終えた皿を片付けようとしていた。
「ご馳走様。お皿は……」
「僕がやるので、先に着替えてください。タクシーの手配もしときますから」
「……そう。そんなに帰らせたいわけ」
「いや。先輩がちゃんと着替え持参で来てたなら別に急かさなかったんですけど……」
カレンはクリーニング必須のパーティードレスのまま熊本家に泊まったため、当然ながら二日目の着替えはない。
「……!」
それは下着も含めて、である。
「う、五月蠅い五月蠅い!言っておくけどちゃんと穿いてるから!今何を想像したのか言ってみなさいよこの変態!それとも単純に不潔だと思ってるの!?」
「アホだなぁ。と……あ、いや。すいませんでした」
耳の先まで真っ赤にしたカレンは、部屋の隅に立てかけてあった糸哉のスカッシュラケットをケースごとひったくる。危険を察した彼はすぐ降参し、外出の仕度を促すのだった。
☆彡
「……何この服」
「僕の家にある夏服の中で一番可愛いヤツです。半ズボンの方はどうですか?」
「大丈夫よ……あら。貴方も出るの?」
「送るついでにもう一人の兄さんの世話してきます」
カレンは、国民の大多数から支持を集めていることで知られる大日本帝国のキャラクター『スミックマ』がプリントされた黒のTシャツにを見て露骨に怪訝そうな表情を浮かべる。とはいえ文句を言える立場でもなく、諦めたように糸哉と並んで家を出た。
――泊めてくれたお礼にランチをご馳走したいけれど……流石に今日は私も家を出られそうにないわね。
昨夜、眠る前に電源を入れたカレンのスマホには、朝になってもなお大量の通知が届いていた。しかもその大半が父からである。
――正直に話したら……ショックで倒れるかしら。
カレンはそっと糸哉の横顔を盗み見て――まだ親に介入されたくはない、と思うのだった。
おまけ『一方その頃』
地元の大型ショッピングモール『マイガーモール』にて。敦斗と翠羽は偽装カップルとしての役割をこなすべく、デートの最中にあった。
「お互いの服を選び合うの、またやってもいい?あれ結構楽しくて……」
「いいよ。じゃあ翠羽の方から行こ」
「――敦斗君。こっちのドロストリボントップスかこっちのシャーリングオフショルだとどっちが可愛い?」
「なんっ、ふぇ……?」
「どっちも一番可愛くて……どっちもこのフリルティアードミニスカートと合うから余計迷う……」
「……へそ出すか肩出すかってこと?」
「露出する部位で悩まないで……じゃあスカートの方はどう?二色あるんだけど」
「全部同じ色にしか見えない」
「アイボリーとオフホワイトって結構違わない?」
「今ので俺、美術の期末八点だったの思い出した……って何で俺にスカート当ててんの」
「ふふっ。敦斗君のTシャツ黒だから白系見やすくて……あと恋人ってよくお揃いのコーデしたりするよね。やっぱり私たちも……」
「ペアルックでもシミラールックでもいいけど……スカート見つめながらそんな提案しないで」
「シミラールックは知ってるんだ」
「子供の頃、母ちゃんがよく……ってよく分からん異界の呪文並べてたのやっぱワザとか!『意外……』って顔してんぞ!」
「ちゃんと日本語でファッション用語だよ!?ごめんね。敦斗君の反応が面白くて……」
「……スカートの色は分かんないけど、右の……がいいと思う」
「肩出してる方?」
「それ翠羽から見て左の服だろ。その…………」
「さ、さっきは普通に言ってたのに!急に顔真っ赤にならないでよ!」
カレン「ここのリビング、私の部屋と同じくらいの広さね……」
糸哉「それには引っかかりませんよ。先輩の家も兄さんの家と同じ広さでしょ?」
カレン「……そうね」
糸哉「びっくりした。そういうの本当に言う人っているんだって思っちゃった」
カレン「ふふふっ!冗談よ。同じマンションでも全然違うなんて……こういう家もいいわね。好きになれそう」
糸哉「(いつもこれくらい丸かったらいいのに)」




