第30話『翡翠色の真意所在』
夕食と入浴を終えた一同は、施設の一角にある会議室のような部屋へと集められた。長机が整然と並び、白い蛍光灯の明かりが部屋全体を均等に照らしている。壁際には時計が掛けられ、秒針の音がはっきりと聞こえるほど静かな空間だった。
「――では、今から学習時間です。私語をせず、それぞれの課題に集中しましょう」
鉛筆を走らせる音やページをめくるかすかな音だけが室内に響く。日中の活動で疲れた様子を見せながらも、全員が集中して取り組んでいた。
「…」
翠羽がふとテキストから視線を上げると、窓の外はすっかり暗くなっていた。
――あっという間だったな……。
学習時間の一時間は意外と短く、敦斗は幸樹と肩を並べて部屋に戻る。
「キャンプファイヤーとかナイトウォークとかあれよー」
「座って火を見るやつと夜の山道歩くやつのどこがいいんだ?」
「ちょ、今度キャンプ行かない?湖畔にテント貼って焚火囲ってジェイソンから逃げるごっこしよ」
「その設定だと初手で死人出るじゃねーか!」
二人が雑談を続けている間、糸哉と翠羽は居残りで委員長ミーティングに出席していた。
今日の反省点や明日の動きが淡々と確認され、短いながらも緊張感のある時間が流れる。
ミーティングが終わり、部屋を出ようとしたところで――一組の男子委員長が翠羽の方をちらりと見た。
「……小椿さん、ちょっといい?」
軽い調子だったが、その一言に翠羽はわずかに肩を強ばらせた。反射的に一歩引き、曖昧な笑みを浮かべる。
「え、あ……なに、かな」
笑おうとした口元が、ほんの少し引きつる。その空気を察したように、すぐ隣にいた糸哉が前に出た。
「はいストーップ。彼氏持ち誘うのはよろしくないなー」
それ以上踏み込ませない距離感で、さりげなく翠羽を背に庇う。糸哉が彼の耳元で「下心駄々洩れてるよ」と低く告げると、相手はそれ以上何も言わずに引き下がった。
その背中を見送ってから翠羽はほっと息を吐く。そして上目づかいに糸哉を見て、小さく頭を下げた。
「……ありがとう、熊本君」
「いえいえー。小椿さんもお疲れ様」
「うん……あ、あのね。消灯まで少しだけ話したくて。熊本君と二人で……」
その言葉に糸哉は一拍置き、頷いてから人影の少ない廊下へ移動した。
「じゃ、どうぞ?」
「……今日、一回も男子に呼び出されたり、しつこく言い寄られなかったの。実はね、こういう行事で告白されなかったことって今まで一度もなくて」
「え?前にしつこく告白されて、断りきれずに一回だけ付き合ったけど結局うまくいかなくて別れたって言ってなかったっけ」
「前は付き合ってても結局そういうことがあって……だから私は、彼氏を作らない方がいいのかなって思ってた」
廊下の窓から差し込む月明かりが、翠羽の整った顔立ちを斜めに照らす。まるで一枚の絵のようだった光景は――彼女の口元が動いた途端、鮮明な映像へと切り替わった。
「全部、熊本君のお陰だよ」
「感謝されるようなことじゃないけどな……敦斗のために動いただけで、君はそのついでだったから」
糸哉は複雑な表情で頬をかき、入学二日目の出来事へと思いを遡らせた。
☆彡(第17話の回想)
糸哉は女子を適当にいなしつつ、敦斗救出のため教室を飛び出した。しかし廊下に出た直後、彼は数歩進んだところで足を止める。
――あれは……。
視線を向けると、翠羽が一組の男子生徒に囲まれていた。
笑顔は浮かべているものの、目は助けを探すように揺れている。整った顔立ちが余計に目立ってしまうせいで、相手は距離感を間違えているようだった。
――これは困ってるなー。えーと名札の苗字は……。
美人だから、という理由も正直あったが、それ以上に――あの表情が目に留まった。
「小椿さーん!」
自然に名前を呼び、間に割って入る。
「先生に呼ばれてるよー。で、何してんの?」
糸哉が控えめに威圧すると、男子生徒たちは気まずげに散っていった。
「……!」
「あ、さっきのは嘘だから。鵜呑みにしないでね」
残された翠羽は、ほっとしたように息をつく。
「ありがとう……」
「小椿さんもこれから大変そうだね……」
その瞬間だった。糸哉の頭の中でひとつの考えが形になる。
――敦斗と小椿さん……形だけでいい。そうすれば彼女は無駄に絡まれずに済むし、敦斗だって……。
「え?小椿さん『も』?」
「あーうん。僕の友達も今、女子の先輩に絡まれてんだよね」
彼は小学生時代から異様に目立っていたこと。
同性からは嫉妬や反感で距離を置かれるようになり、結果として友達関係も広がらなかったこと。
付きまといや告白、持ち物を狙われるのが日常で、自分がトラブルの原因になることも少なくなかったこと。
必要最低限に抑えた話が一通り終わった頃には――翠羽の表情がどうしようもない同情で歪んでいた。
「そうだったんだ……」
――私の話してた?ってくらい分かる……。
「小椿さんはどう?近くの席の女子と話せた?」
「んっ。ま、まだ二日目だから……」
「同じ小学校出身の子はいないの?」
「うん。女子は私だけ……」
「そっか……」
――うん。ちょっと揺さぶればいけそう。
糸哉は一歩、距離を詰めて微笑んだ。
「ねえ。その苦悩、僕が解決してあげようか?」
「え……?」
「提案があるんだ」
糸哉は声を落とし、周囲を気にするように言う。
「同じクラスの出席番号三番。犬飼敦斗って知ってる?」
「あぁ。周りの子皆が超イケメンって言ってる人?」
「そう。さっき言ったイケメンの弊害を受けてる僕の友達と、カップル役を演じてほしい」
「……え?カップル役?恋人のフリ?偽装カップル?」
「国宝級に顔が良い小椿さんと敦斗が『付き合ってる』って事実ができた瞬間、周りはまず間違いなく納得するか諦める。嫉妬も噂も勝手に自己完結するし、下手に手を出そうなんて誰も思わなくなるよ。小椿さんも彼を認識してるなら猶更――抑止力としてこれ以上ない組み合わせだと思わない?」
「…」
――否定できない。
翠羽は思わず視線を逸らす。翠羽は自分が美人の中でも一目置かれる存在だと自覚していた。
顔がいい同士が付き合っている。それだけで余計な視線も下心も『どうせ無理だ』という諦めに変わるのは想像できた。
気持ち悪いくらい合理的で、だからこそ腹が立つほど説得力がある。
「で、でも向こうの気持ちは?」
それでも翠羽は、心の中の迷いを拭い去れなかった。
「敦斗にもこの話を振ったら間違いなく乗る。でもこういう話ってさ、男性側から持ちかけるより女性の君から言った方が良いと思うんだよね。そうすれば本来立場の弱い小椿さんが流された、なんて形にならないから」
「私から……」
「やるなら正直早い方がいい。人の気持ちって、時間が経つほど固まって大きくなるから」
身に覚えあるでしょ?と言った糸哉の視線の先で、翠羽の目がはっきりと動揺を映した。
「あ。これが今考えられる中で一番手っ取り早くて二人なら問題なくやれるって思っただけで、小椿さんにやれって言ってないからね。選択するのは小椿さんだよ」
それだけ言って、糸哉は踵を返す。
「だから僕が提案したことは内緒ね。明日僕と敦斗は『ヨリドリカレー』から幸樹と三人で登校するからー」
「ええっ!」
――これ明日の朝やれって言ってるってこと!?
そう言い残して糸哉は先に教室へ戻った――背中越しに、翠羽がその場に立ち尽くしている気配を感じながら。
☆彡
翠羽はそれでもこうして良かったと言い、かつての葛藤を打ち明ける。
「簡単に決められなかったんだよ?けどあの日の放課後……下校時間?に知らない三年生二人から告白されて。それが決定打になったかな……」
「そこからちょうど二週間くらい?敦斗は涙が出るくらい平和で、断るのも気が楽になったって言ってたけど」
「私も。敦斗君と付き合ってるお陰で、前より張り詰めなくなったというか……心に余裕ができた気がする」
――敦斗君が原因で、話したこともない女子から嫌われてるかもしれないけど……それはお互い様だよね。
「草重さんとも同じ部活だし。友達に……なってくれそうな気もしてて」
翠羽は窓越しに自分を見る。芸能人でもないのに必要以上に注目を浴び、少しずつ心が擦り切れていった自分を。
「顔で得してるだけじゃなくて、ちゃんと自分自身で自信を持てるようになりたい」
そして何より辛かったのは――幼い心でも、この悩みが救われることはないと理解してしまっていたことだった。
「だからこれからも同じ委員長として、友……クラスメイトとして、心の師匠として、熊本君の在り方を見習わせてください!」
「師匠って呼ばれるくらいだったら友達の方がマシかなー」
「あ、じゃあ……そんな感じで?」
大変ふわっとした会話だったが、その意図は糸哉にも十分伝わっており――彼は胸中で翠羽の今後にエールを送った。




