第26話『事前の準備こそ勝敗を分ける』
昼休み。糸哉が何気なくスカッシュ場を覗くと、そこでは一人の女子生徒が黙々と練習に打ち込んでいた。
「…」
気配を殺して中に入り、指先が鍵にかかる。だが逡巡の末、今後の関係を思って扉は開けたままにすることを選んだ。
「――お疲れ様です」
「っ!?」
ボールが壁を打つ音が止んだのを見計らって声をかける。すると女子生徒――祐東カレンはびくりと肩を震わせた。
「昨日は急に話しかけてすみませんでした。次は気をつけます」
「……!そ、そんなこと、わざわざ時間を割いてまですることじゃないわ」
――次……って言った?もう二度と話しかけてこないと思ってたのに。
人を簡単に信用するな――高貴な生い立ちの中で刷り込まれた教えが、人見知りの彼女を更に緊張させる。けれどその実、胸の内はきつい言葉をぶつけた後悔で酷く脆かった。
「人の視線って案外重たいですよね。こんな環境で先輩みたいな立場の人は特に。僕は平気なので、先輩もそんな顔しないでください」
「そんな顔ってなによ」
「アイス食べた時のこと思い出してってことですよー」
糸哉がいつもの微笑を少しだけ深めると、カレンはアイガードを外してツンと顔を背けた。
「昨日……用件は何だったの」
「宿泊研修のことでちょっと。二組の先輩は全員微妙な顔するし、一組の先輩は皮肉めいたことしか言ってこないんですけど」
「……呆れた。下調べなんて事前説明としおりで十分でしょう?中学の宿泊研修を何だと思ってるの」
「僕二組の学級委員長なんですよ。中学生になって初めての行事だからこそ、大層に考えなきゃ……皆の思い出が壊れちゃうんで」
その質問にカレンが渋ることを、糸哉は最初から読んでいた。だからこそ彼は遠回しな言葉を捨て、剥き出しの本心をぶつける。
「…」
――代表もやってたのね……もしかして断ち切る気なの?あの歪んだセオリーを……。
数秒の沈黙のあと、カレンは視線を伏せて気持ちを整えた。そして何事もなかったかのように顔を上げ、冷静さを装って口を開く。
「皆同じ条件で行くのが『研修』でしょう?抜け駆け前提で動く人がいる時点で、趣旨を履き違えてるわ。クラス対抗のレクリエーションがある可能性は高いけど、私の時は二日目だけだったし……」
「じゃあ二組……外部生にとって宿泊研修があまり良い思い出になってないっぽい感じだったのは一組の所為じゃないってことですか?」
「……そうよ。私はただ宿泊研修の内容に従って行動しただけ。中には余計な企みをしたクラスメイトもいたんでしょうけど、私は貴方ほどお人好しで暇じゃないの」
「……昼練の邪魔してすみませんでした。失礼します」
――最初から最後まで競い合うワケじゃないってことか……やっぱ要注意なのは一日目……。
「え!?ちょっ……!」
糸哉があっさりと見切りをつけ、スカッシュ場を出ようとしたその時。焦ったカレンは、考えるより先にボールを掴んでいた。
『――バシッ!』
「待ちなさい」
「はい……」
糸哉の真横の壁にボールが跳ね返る。鋭く乾いた衝撃音と振動が彼の感覚を揺さぶり、無意識に息を呑んだ。
――こわ……流石『優等の切り札』。
「貴方どうして自転車通学なの?」
「え?」
「節約という点は評価できるけれど、効率は悪いわね。あのマンションに住んでるのなら電車通学に変えた方が賢明ではなくて?」
「あーいや、あそこ兄(的な存在)が一人で住んでて。僕は実家から自転車で通ってるんですよ。だからあそこはよく行く遊び場みたいな感じです」
今日も事情があって部活を休むと伝えると、カレンは何も言わずにラケットをケースへ収めた。
「……十八時半。エントランスで待ってて」
「は……」
――足音……!
糸哉が本能に従って出入口へ寄った直後、扉が勢いよく開く。彼の視線の先には驚いたようにこちらを見る先輩が。そしてカレンの視線の先には――
「カレンさん。もう五分前ですよ……ってまだ片付けてもないの!?」
「あら珍しい……今日は調子が良かったのかしら?お疲れ様」
――自分を迎えに来たクラスメイト兼部活仲間と、扉一枚隔てた向こうで息を潜める後輩の姿があった。
☆彡
――見つかって終わるかと思った……危ない危ない。
どうにか気づかれずにスカッシュ場を抜け出した糸哉は、残る安堵を抑えて教室へ戻る。その後はシェンの家に寄ってタンドリー加入について話し合い、部活を終えたカレンとエントランスで落ち合った。
「――以上が宿泊研修の全貌よ。これでアイスの借りは返したから」
「ありがとうございます。やー本当……オーマイガーなだけありますね」
「私が最初に言ったこと復唱して」
「先輩から聞いたって言わないことと、一組に悟られないよう立ち回れ――ですよね?任せてくださいよ。これで一日目は皆不幸にしなくて済みそうです」
糸哉が笑って肩の力を抜くと、カレンは言葉を探すように視線を揺らし……やがて険しい表情へと変えた。
――こんな美人とタワマンのエントランスで二人っきりなのに……どうして連絡先の一つも聞かないのよ!
一人の人間として向けられる視線。下心を感じさせない距離感。人の為に行動し、思いを汲み取る静かな優しさ。
これまで出会ったことのないタイプの年下男子に、カレンは確かな興味を抱いていた。それもメッセージアプリの連絡先を交換したいと思うくらいに。
「神竜断破を喰らわせるしかないのかしら……」
「大技出す前提!?えっ何か僕やっちゃいました?」
糸哉が遠慮なく物申せと言っても、カレンのプライドが邪魔をして『連絡先交換』の五文字が舌に張りついたまま動かない。彼女の内側でせめぎ合う迷いをよそに、彼の関心は――
「というか先輩、神竜断破知ってるんですね。格闘ゲーム好きなんですか?それとも好きな配信者が」
「神竜断破ァ!」
「ぐはあっ!」
――すでに自分の好きな分野へと逸れしまった。
☆彡
糸哉がカレンにKOされた一方、ホットとタンドリーはTPSゲーム『サートナイト』をしながら他愛ない話を交わしていた。
「俺の時は家に父ちゃんのノーパソしかなかったから。経費で用意してもらった」
「マジか。全部?」
「そう。もう一切合切」
「へー。なら俺のも経費で落ちっかな……」
――今使ってるPC貰いもんだから変えれるなら新しいの欲しい。
「俺が今使ってるやつは全部テディチョイスで、合わなくて変えたかったら一回だけ経費で落としてあげるって言われた。椅子やデスクは個人負担だって」
「むずっ。一旦俺もホットと同じのでいいか……」
――それでも全部世界的メーカーの高性能製品……。経費パネェ。
ホットはまだPC環境に詳しくなく、機材へのこだわりもこれからという段階だった。現在そろっている機材は全てテディの選定によるもので、メーカーも価格帯も信頼できるものに統一されている。タンドリーもまた、立ち位置としてはホットと大差なかった。
「仮に調子悪くなったらどうなる?」
「えーと待って。それ全部、保護者同意書に書いてあるんだけど……第三者開示禁止って言われてて……あれ。でもタンドリーは身内……」
「……厳密に言えばまだ俺は部外者だな」
「え、違うよ」
「いいよ。どうせ今度会ったとき親と一緒に……」
「――『購入から一年未満の機材において、撮影または配信中に自然発生した不具合。かつメーカーの想定内と判断される故障については、修理費用または買い替え費用を全額経費で負担する』だ」
「!?」
「タンドリー!?」
突然耳に流れ込んできた見知らぬ男性――シェンの返答に驚いたタンドリーは手元を狂わせ、そのまま敵に撃たれてしまった。
「まだ終わらせねーよ!」
「俺より先に高台!敵いる!」
――クソ。ランク中に油断し過ぎた。てか誰だよ!
ホットが気絶したタンドリーを担ぎ上げ、安全な場所へ退こうとしたその瞬間。距離を詰めてきた敵が一人、銃口をこちらに向ける。
「おい恰好の的だぞ!」
「分かってらぁー!」
「うおーーっ!?」
ホットはそれより早くタンドリーを前方へ投げ出し、正確なヘッドショットで返り討ちにした。
「ホットてめえぇ……」
「ごめん思ったより遠くまで飛んだ。これテディにも撮影でやられたことあって……」
安全な場所で蘇生と回復をした直後、タンドリーが仕返しにホットをぶっ飛ばしたのは――言うまでもないお約束である。
「シェン。急に話すからタンドリーがしょぼ死しちゃったじゃん」
「聞きたいことに答えてやっただけじゃろ」
「空気読め……『シェン』?」
――その名前、これプロのチャンネル主の……。
「タンドリー。この人がこれプロで一番偉いモデレーターのシェンで、ネットの神とか呼ばれてる凄い人です」
ホットが二人の間に入って紹介役を引き受ける。タンドリーは相手が偉い大人の関係者だと知ると、ほんの少しだけ姿勢を正した。




