第209話『中学校生活も楽じゃない!!午後編』
幸樹は、近くの席の生徒に見られる前に半紙を素早く隠す。
だが一度目に焼きついた朱色は、いつまでも頭から離れない。胸の奥でじわじわと黒い感情が煮え立っていった。
やがて片付けの時間になり、幸樹はどす黒い憎悪を抱えたまま手洗い場で硯を洗う。
「……あれ?幸樹」
背後に並んでいた糸哉が、怨念こもった幸樹の表情に気づいて声をかけた。
「どうしたのそんな顔して」
「は?」
「敦斗を半殺しにするだけじゃ飽き足りなかった?」
「ええっ!?違うよね腹減ってるだけだよね!」
「…」
幸樹は斜め上の推測をする糸哉と、その後ろで顔を引きつらせておろおろし始める敦斗を見比べる。
「……そうだな」
「それどっちの意味!?」
幸樹は、手洗い場に力いっぱい押しつけていた大筆を持ち上げる。
硯に溜まっていた水も、最初こそ真っ黒に染まっていたものの――いつのまにか薄い灰色へと変わっていた。
「そりゃー幸樹は僕の味方だから」
「やめてよ!明後日の数学は寝ないから!」
「いや明後日じゃなくて。来週の数学で言質取りたいなー」
「ら、来週?」
「敦斗って体育の後の授業ほぼ毎回寝てんだから無理だろ」
「うっ!お、終わった……」
墨を落とし終えた幸樹は、いつもの二人のやり取りに目を細める。
行き場のない鬱憤は、未だ腹の底に居座っている。それでも幸樹の胸に燻っていた嫌悪感は、どうにか収まりがついたのだった。
☆彡
給食の時間。孝太は本日の献立であるひじきご飯、筑前煮、ししゃも、オレンジを見つめ、この世の終わりみたいな顔をした。
――終わってるんだけど……。
食わず嫌いの多い孝太は、小学生の頃から給食に苦戦し続けている生徒だった。
――筑前煮は鶏肉とごぼうと椎茸とレンコンいらない。ししゃもは骨が多いから無理。オレンジも嫌い……。
「……佐川」
「んー?」
自分の給食を受け取った孝太は、自分の席へ戻ることなく――その足でクラスメイトの佐川の席へ向かった。
「今日英語のプリント見せた」
「あーはいはい。いつものね。今日はどれが無理なん?」
「…」
「え、まさか全部?」
「勇気出して言うとそう」
「それマジで言ってる?」
明らかに口数の減った孝太を見て、佐川は思わず笑った。
「お前いつか死ぬぞ」
「ご飯は食べれるし」
課題や予習の忘れ物常習犯である佐川は、ほぼ毎日のように孝太に助けを求めていた。そしてほぼ毎日のように給食で嫌いな食べ物と対峙する孝太は、見返りとして彼に給食を食べてもらうようになった。
一見すると奇妙な関係だが、当人たちにとっては実に合理的な取引と言える。
「俺からしたら毒食べてるそっちの方が狂ってるから。もう滅んだらいい……」
「あっはっは怖っ!そのお前からたまに出るアルティメット思考好き」
孝太は手慣れた箸捌きで、自分の給食から佐川の皿へとおかずを正確に移していく。
「オイ俺の筑前煮!茶色で超マズそうに見える!」
「あ、椎茸まだあった」
「いやちょびっと!欠片くらい食え!」
「無理しぬ」
「あとお前の筑前煮……!人参と里芋ときぬさやばっかで超彩りいいじゃん!何だこの不公平な感じ!」
「はい。あざーす」
佐川の抗議を軽く受け流し、孝太は自分の皿から脅威を完全に排除した。
――よし。脅威は去った……。
そう確信した孝太は、朗らかな顔で自分の席へ戻ろうとしたが――
「待てや」
「……何」
――佐川に肩をガシッと掴まれた。どうやら今日は、そう簡単には解放してもらえないらしい。
「今日出た課題もやれって?」
「いや流石にそれはしないけど……ほぼ二人前のおかず食う代わりに聞きたいことがあって」
佐川は孝太の席まで移動すると、周囲を気にするように一度視線を巡らせた。そしてやけに真剣な顔つきになり、ぐっと声を落とす。
「……山根さんって家でどんな感じ?」
「は?」
「超気になってんだよ皆!お前と山根さんが年子だって発覚した時から!」
孝太と純花が兄妹であることを、二人はしばらくクラスの皆に隠していた。
同じ小学校出身の生徒がいなかったこともあり、二人はあえて公表しない方針を取っていたのだ。
顔立ちもそこまで似ておらず、教室内で積極的に干渉し合うこともない。そのためクラスメイトたちも当初は、二人を単に同じ苗字の別人として認識していた。
ところが五月の連休明け。家庭訪問の日程が記されたプリントが配られた際、目ざといクラスメイトが、孝太と純花の訪問日時が同日同時刻に設定されていることに気づいた。
そこから話が広がり、二人が兄妹であることが周囲に知れ渡ってしまったのである。
とはいえ、単に実の兄妹が同じ学校に通っているだけの話だ。ちょっとした騒ぎにはなったが、普通ならすぐに収束する程度の出来事だった。
――アイツが男子ウケいいのは中学生になっても同じか……。
ただし、純花がクラスでも可愛い部類に入る女子だったことが少々厄介だった。
「あー俺はまだ全然?ちょっと可愛いなーって思ってるだけだけど。他の連中が超盛り上がっててさー」
「俺の妹が可愛いワケがない」
「世間から見たらあるんだなコレが!俺がしてるのは外見の話!」
純花を密かに狙っていた男子たちは、彼女が孝太の妹だと分かった途端、兄の彼に関心を向け始めたのである。
可愛い女子とお近づきになりたい――そんな浅ましくも本能に忠実な欲求から、純花の情報を得ようと孝太との距離を詰める男子がわんさか増え始めたのだ。
――女子サイドは『あ、そうなんだふーん』って感じでそんな騒がなかったんだけど!?何で俺の方はこういう奴らが寄って来るんだよ……!
「アイツが家で何してるかなんて興味ない」
「何をそんな嫌うことがある!?お前がそんな無関心さ出すから山根さんが家でどんな感じなのか気になんのよ!」
「分かった待って……今うるさいウザいしつこい以外のところ考えてる」
「あー。家でも学級委員長っぽさ出てる感じ?」
「それ」
孝太は適当に相槌を打って佐川の追求から逃れ、質素になった給食を残さず平らげた。
――今日は厳しい戦いだった……アレルギーとかだったらまだ楽だったのに。口には出せないけど。
「お兄ちゃん給食!佐川君にあげすぎ!今日特に酷くなかった!?」
「うるさいウザいしつこい」
「まだちょっとしか言ってない!」
ところが昼休み――見ていられなくなった純花がズカズカと孝太のところへやってきて、堂々と説教を始めたのだった。
☆彡
昼休み。席替えがあったところで、満士の過ごし方は変わらない。
「zzz……」
自分の席で机に突っ伏して惰眠を貪る。それが友達もいない彼にとって、昼休みを最も平和に過ごす方法だった。
「――ねぇ!ちょうど今これプロのSNSに告知出た!今度の土曜日にこれプロとロクラメンで人狼やるって!生配信!」
「エグ!誰が出んの!?」
「……!」
数日前。席替えをきっかけに、満士は隣の席の女子とその友人がこれプロのファンだと偶然知るまでは。
――あーアレか。ホットとタンドリーとユイガとロクラメン全員でこれプロ村人狼やるって言ってたヤツ……。
満士は机に伏せたまま、ぴくりとも動かずに聞き耳を立てる。
二人の名前は禄に覚えていない。それなのに何度か耳にした会話の所為で、片方がホット推し、もう片方がタンドリー推しだということだけは嫌でも頭に入っていた。
「ホットいる……!?え、楽しみすぎる!」
「このメンバーでコラボ配信って何気に初じゃない?」
――知らねぇ……けど、今日の話題は俺に関係ねぇな。
満士は自分が出演した動画や生配信が話題が出るたび、ツッコミたい気持ちを抑えるのに必死だった。
――耳栓でもつけるか?イヤホンは見つかったら没収されるしな……かといって昼寝する場所をわざわざ探すのもダリィ……。
そもそもこれプロの存在を知らぬふりで通すなら、話し声が聞こえた時点で席を立って離れるべきである。
だがそんな理由で安息の地を手放すなど、満士のプライドが許さなかった――その意地が、早くも自分を追い込むとは夢にも思わずに。
「ナキもいてよかったのにね。人狼下手枠で(笑)」
――ハァ?
満士の額にピキッと青筋が浮かんだ。
「やっぱナキって心理戦より拳で戦う方が向いてるよね。あ、だから今回いないのかな?」
――その時間は俺とテディとルゥーアで撮影すんだよ!!
満士は、喉元までせり上がった反論をどうにか飲み込んで狸寝入りを貫く。
――心理戦だァ?やろうと思えばいつでも潰せんだよ。つーかいつ俺が人狼下手って言った?お前ら俺の何を知ってんだよ……!
声にならない不満を胸の内で女子二人にぶつけながら、満士は辛うじて平静を保っていた。
――コイツ等、休み時間も結構な頻度でこれプロの話してんだよな……。クソッあと一ヶ月もこれとか無理すぎんだろ……!
結局、満士はAIならぬメトロに極めて切実な相談を持ちかけることになった。
佐川君は孝太と同じ軽音部です。




