第208話『中学校生活も楽じゃない!! 午前編』
世間では梅雨入りが報じられたというのに、空は皮肉なほど澄み渡っていた。容赦なく照りつける日差しは、夏がすぐそこまで迫っていることを否応なく感じさせる。
――し、死ぬ……暑い……。
そんな晴天の下、糸哉は長距離走という苦行に身を投じていた。
その日の体育は、学校の外周を三周するという簡単な課題である。だが体力も無く暑さにも弱い糸哉にとって、炎天下の長距離走は拷問そのものだった。
「あぁ日陰ないし……焼ける……」
「やっぱ絶対帽子OKにするべきでしょ」
「あぁ……ウルト部の女子がみんな被ってるアレ?」
「アルティメット部ね。ウルト部って略すのやめて?」
「ウチらFPSゲームやってるんじゃないから。略すならアルティ部って言って」
糸哉はクラスメイトの女子二人と雑談を交わしながら、少しでも苦痛を紛らわせていた。
「コラ熊本ォォォ!女子に混じって走るなーー!」
「げ。吠木先生……」
もっとも、それが体育教師の目に留まってしまったのだが。
男子校出身の吠木は、女子生徒たちに交じってのんびり走る糸哉を見つけるなり腹の底から檄を飛ばした。
「五十鈴と柄崎も運動部だろうが!何で最後尾をノロノロ走ってる!一生懸命走ってる人もいるんだから外周で怠けるんじゃない!」
「うざ」
「部活もあるから調整してるんですー」
「五十鈴さん。ここは素直に謝った方がいいよ。吠木先生が怒りに吠える時間が長くなっちゃう」
「聞こえてるぞ熊本ォ……!時間までもう一周追加するか?」
「そんなことになったら全然死ねるけどな僕……」
春に赴任してきた吠木は、二年生の体育を担当していた。
フランクで熱血な指導を好意的に受け止める生徒もいれば、暑苦しいと敬遠する生徒もいる。どうやら、五十鈴と柄崎は後者らしい。
――まぁ僕は好きでも嫌いでもないけど。
「ハァ……ハァ……」
「あ、テディ来た」
「遅」
「うえっ……もう嫌だ……シャトルランと長距離走は嫌だ……」
ようやくゴールにたどり着いた糸哉は、既に先頭集団で走り終えていた敦斗と幸樹の元へフラフラと歩み寄った。
――二人共わざわざ待ってくれたの優しい……。
「敦斗……おんぶ……」
「はいはい。いつものね」
敦斗は慣れた様子で糸哉を背におぶり、そのまま校舎へ戻ろうとする。
「コラ熊本!自分で歩きなさい!」
「そうだよ熊本君!犬飼君におんぶなんて羨ま……迷惑でしょ!」
「けしからん、じゃなくてズルい……あ、何か私も眩暈が……」
ところが二人の前に、真っ向から反対する者たちが立ちはだかった。
「テディが敦斗頼るから女子が突っかかってきたじゃねーか」
「だってこういうときにお願いすると敦斗嬉しそうだから……」
「吠木先生すみません!俺こういうときくらいしかテディの助けになれないんです!いつもお世話されてる身だからー!」
「あっ待て!」
敦斗は糸哉を背負ったまま、長距離走の疲れなど微塵も感じさせない勢いで駆け出した。
「うぅ……死ぬる……」
「テディ死なないで!」
「ハッ……たかが外周三周で溶けるなよ」
――俺もこういうテディ見るのは嫌いじゃないけど。
その隣を並走する幸樹は、今にも意識が遠のきそうな糸哉を見て小さく笑った。
☆彡
次の授業は、担任の菱川が受け持つ数学だった。
「――えー、例題2は右辺の6xと-4yを左辺に移項して、右辺には数字だけを残すようにすると……」
生徒たちは教室で、菱川が板書した連立方程式の解法を一斉に写していた――
「zzz……」
――ただ一人、体育で体力を使い果たして絶賛爆睡中である敦斗を除いて。
「はぁ……」
――いつもなら放置してるけど、今日当たる日だからな……。
席替えで隣同士になった糸哉は、ケースに入ったリコーダーで敦斗の肩をつつく。
「!」
すると敦斗の肩が小さく跳ね、ゆっくりと蕩けた目が開いた。
――ホラこれ写して!
「…」
糸哉は、そろそろ敦斗が指名されるであろう例題2の解答を書いたノートを差し出す。敦斗は半分閉じた目のままそれを受け取り、シャープペンシルを握りしめたが――
「zzz……」
――まぶたの重さに抗えず、またもや眠りに落ちていった。
「僕のノートーー!」
自分のノートを下敷きに眠る敦斗を見て、糸哉は声を殺して叫ぶ。その間にも授業は進み、菱川は手元の名簿を確認した。
「――じゃあ……犬飼君!このx=5を式②に代入すると、yの答えはいくらになりますか?」
「zzz……」
「……あれ?犬飼く……あっ」
菱川は夢の世界から帰ってこない敦斗と、その隣で必死に起こそうとしている糸哉を交互に見た。
事情を察したらしい生徒たちも次々と後ろを振り返り、口元に笑みを浮かべている。
「……すみません。代わりに僕が答えていいですか」
「あ、うん……じゃあ熊本君」
「y=2です」
「はい、そうですね」
「敦斗は後ほどコレで半殺しにしておきますので」
「それは過剰かも」
笑顔でリコーダーを握りしめる糸哉に、教室のあちこちから笑いが起こった。
当の本人である敦斗は、そんな騒ぎにはまるで気づくことなく――授業の後半になっても起きる気配がなかった
☆彡
眠気を誘う数学の授業が終わり、四時間目は習字だった。
生徒たちが習字道具を机の上に並べると、国語教師は今回の課題である『三顧之礼』の書き方について解説を始めた。
「――それでは、今回も楷書と行書の両方で書いてみましょう」
「はぁ……」
クラスメイトたちが一斉に筆を動かし始める中、幸樹は憂鬱な気分のまま毛筆を墨汁につけた。
――楷書はもう無理だからな……行書の方がまだそれっぽく書けるか?
幸樹にとって、習字は小学生の頃から苦手科目の筆頭である。
一画一画の角をきちんと立てながら、整った字形で書く楷書――幸樹はその上達をとうの昔に諦めていた。
「…」
――もう全体的に終わってんな。やっと『顧』の『雇』の部分が墨で潰れなかったのに名前の『樹』が潰れた……何で小筆なのに潰れるんだよ!いや俺の名前が習字に向いてねぇ!
心の中で悪態をつきながら、幸樹は深い溜息を吐く。
嫌いな授業だからと、筆の手入れまで適当だったのだろう。手元の小筆は毛先がややパサついていた。
――もう楷書はコレでいいわ……早く行書やろ。
とはいえ、幸樹にも僅かな希望はあった。それは中学二年生になってから、本格的に習い始めた行書である。
点画を適度に省略し、次の線へと滑らかに繋げていく書体――その特徴を知った時、幸樹は初めて自分でもワンチャン書けるのではないかと思ったのだ。
――特に『之』とか……崩れててもいい感じに見えるだろ。
線のブレや歪みがそのまま悪目立ちしやすい楷書に比べ、行書ならばそうした不揃いも『味』として受け入れられるかもしれない――幸樹はそこに一縷の望みを見出していた。
――先生が変わってからガチで隠しながら書いてたけど……行書なら大丈夫か?
進級を機に国語の担当が変わり、現在の教師は書道の公的資格を持つ女性教員となった。
彼女は習字の授業にとても熱心で、教室内を回りながら、生徒一人ひとりの作品に目を通していく。
「――『礼』の二画目は、斜めに下ろしてから一度しっかり止まって……」
気になった箇所があれば朱墨で直接書き込み、細かなところまで指導するというスタイルだった。
――見つからないのが一番いいんだけどな。
幸樹は、なるべく先生に口出しされずにこの授業をやり過ごしたかった。そのため、教師が近くを通る気配を察知しては半紙を取り替えたり墨汁を足したりと、あれこれ理由をつけて作品を見られないようにしてきたのだ。
誤解のないよう言っておくと、教師の指導そのものは決して理不尽なものではない。
ただ幸樹はどの教科であっても、授業中に教師からじっと見下ろされたり個別に声をかけられたりすることが苦手だった。
――いつも通りに書いた方がいいか……?いや時間あるし一回それっぽく寄せてみるか。
幸樹は教科書の手本を横目で確認しながら、普段よりも意識して行書らしく描き進めていった。
少しはマシに見えるかもしれない――そんな淡い期待を抱きながら、最後の一画を書き終えた直後。
「ちょっといい?あのね、この『三』はもっとこう……」
「!?」
教師が、幸樹の机の横に立っていた。
「……はい。こんな感じで次も書いてみて」
「…」
幸樹は、名前以外の文字が朱墨で全修正された半紙を見つめた。
――他の奴等、大体一部か一文字なんだが……?
分かっていたこととはいえ、勢いで誤魔化す作戦はまるで通用しなかった。
それだけならまだしも、幸樹なりに少しでも上手く書こうとした心意気まで――朱墨にあっさり塗り潰された気がした。




