第193話『アン・ボーイ・ミーツ・ガール』
つい漏れてしまった心の内をカレンに掘り返され、糸哉は苛立ち紛れに腰のタオルを絞る。
「美人の先輩がビキニ着て同じ風呂に入ってたら興奮してのぼせるに決まってんだろがい!」
「……!ふ、ふぅん?」
――っ……えぇ……ちゃんと興奮、じゃなくて意識していたのね……。
カレンは裸の上半身を拭いつつ、赤らんだ頬をタオルの中に埋めるようにして隠した。
その後、カレンが髪を乾かしている間に、糸哉は夕食の準備に取りかかった。時計の針は間もなく十九時を指そうとしている。
――ライアンは……まだ帰ってこないか。今日も残業で21時過ぎかな。
そう判断した糸哉はライアンの分を別に用意し、二人で食卓を囲んだ。
「お兄さんと一緒に食べないの?」
「僕は大体十九時までには夕ご飯を食べるって決めてるんで。それまでに帰ってこなかったらそうなりますね」
「そう」
カレンは自前の七分丈にハーフパンツのルームウェアに着替えていた。無防備さと女子力が同居したその可愛らしい装いに、糸哉はつい視線を揺らがせてしまう。
――雑念が無いワケじゃないけど……水着の刺激と比べると今の服の方がマシに思えるの怖。
先程まで共に湯船に浸かっていたことが嘘のように、場の空気はすっかりいつも通りに落ち着いていた。
「そういえば纐纈先輩とは仲良くないんですか?向こうは先輩にベタ惚れみたいでしたけど」
「はぁ?」
カレンの眉が露骨に寄る。糸哉は白雉が『よみち』をギブアップしかけた際『続きはカレンにやらせる』と言われた途端に奮起し、最後までやり遂げたことを話した。
「…」
聞き終えたカレンは、まるで『何を勝手に私を利用しているの』と言わんばかりの目を向ける。そしてうんざりしたように口を開いた。
「婚約者という間柄になったのも……彼が一方的に私を気に入って、少々強引に話を進めたものよ。当然そのことも含めて彼に対して思うところはあるわ……いちいち挙げていてはキリがないくらいにね」
「ほぉ」
「結局のところ、彼とは根本的に反りが合わない。好意的に思えない理由はその一言で十分よ」
「ふーん」
――同族嫌悪……?
「今……何か無礼なことを考えたでしょう」
言い終えるや否や、カレンは行儀作法などお構いなしに糸哉の足を踏みつけた。
「いやー。そんなことあるワケないじゃないですか。嫌だなぁ」
糸哉は逃げるように食べ終えた食器を運んで洗うと、カレンの方へ向き直った。
「僕これから敦斗たちと二時間くらいネットゲームするんで隣の部屋いますね」
「!」
リビングは自由に使っていい――そう告げられたカレンは、いかにも不服気な表情を浮かべる。
「あら、客人を一人にするっていうの?」
「勉強してたら二時間なんてあっという間ですよ。途中で兄さんも帰ってきますし」
糸哉はウォーターボトルを持って実況部屋に入ると、すぐに大きなスミックマのぬいぐるみを抱えて戻ってきた。
それは触るともちもちとしたクマのぬいぐるみで、大きさはカレンの体に比べてひと回りほど小さい。
「じゃ、これを僕だと思って!」
「あっ!もう……!」
返事も聞かずにさっさと出ていく糸哉に、カレンは眉根を寄せて腕に力を込める。先週洗ったばかりのぬいぐるみからは、甘く清潔な香りが漂っていた。
――タオルと同じ柔軟剤……。
「……っ」
名状しがたい感情が、胸の奥から不意に湧き上がってくる。それを振り払うように、カレンはぬいぐるみを膝に抱えたまま勉強道具を広げた。
そして一時間後。ライアンから帰宅の連絡を受けた糸哉は撮影を中断し、彼の夕食の準備を始める。
「先輩も何か飲みます?今なら温かいルイボスティー淹れますけど」
「えぇ……いただくわ」
糸哉が同じ空間に戻った途端、カレンは落ち着かなくなった。ぬいぐるみを抱いたままキッチンの入口へ向かうと、糸哉は切れ目を入れた塩鯖の水分をキッチンペーパーで丁寧に拭き取っている。
――料理も洗濯もできるなら、私は……。
『おかえりなさい。今日は先輩のリクエスト通りブイヤベースですよー』
脳内で大人の糸哉が、エプロン姿で仕事から戻った自分を出迎える様子を思い描いてみる。
カレンは将来、父や母のように責任ある立場で働きたいと思っていた。
『外で働く必要なんてどこにある?僕の財産もこれから築く地位も、全て君に捧げるためにあるんだ。君は家で僕の帰りを待つだけでいい』と語る白雉と反りが合わないのも、その価値観の違いが理由の一つだった。
「ネットゲームっていつもどれくらいしているの?」
「平日は二、三時間で、部活がない休日は……一日の半分くらい?」
「は?」
――やりすぎじゃない!?だから目も悪くなるのよ!どうりで電話をすると大抵マウスのクリック音やタイピング音が聞こえていた気が……!
「そんな『うわぁ』って顔しないでください。勉強はちゃんとやってますよ?家事がいい感じに小休憩になるし……って、別にいいじゃないですか。趣味なんだし」
ドン引きと呆れが入り混じった視線から逃れるように、糸哉は冷蔵庫からサラダを取り出して箸と並べる。
「趣味……ね。確かに私には一日を費やせるような趣味を持っていないわ。けれど仮に恋人ができた場合、その分の時間は一体どのように変わるものなのかしら?」
「僕に恋人ねぇ……」
純花に同じことを聞かれた時『実況の方が大事』と答えたことを思い出す。
『ピッ』と味噌汁の火を止め、糸哉はぽつりと呟いた。
「先輩には本当の理由を言いますけど……あんな独占欲と執着に塗れた父親みたいになるのが怖いんです。だから恋愛とかそういうの、まだ考えたくなくて」
「……!」
「あんな父がいなければ……父さんがあんなに異常じゃなかったら……」
『――君がなかなか凡庸とは呼べない生活を送っていることくらいは、こちらも把握しているつもりだ』
白雉の言葉が頭の中をよぎり、自然と声音に闇めいたものが混ざっていく。
「……僕はもう少し凡庸な中学二年生になれたのに」
「……貴方」
――本当は、自分のことをあまり好きではないの?
彼女が言葉を発しかけたところで、玄関のドアが開く音が響く。
そして数秒後――
「いっ君!?何で玄関に女の子の靴が……どぅぇーー!?」
「……お、お邪魔してます」
――異変に即座に気づいたライアンが、駆け足でリビングに飛び込んできた。
「兄さん。これにはのっぴきならない事情がね……」
糸哉から事情を聞いたライアンは、同じくホラーが苦手な人間として深く同情する。
「それは……まぁ、家に一人じゃキツいかも……。俺も推しの実況で『よみち』見たけどマジで無理だった。最後まで見れなかったもん」
「先輩は最後まで見てたよ」
「怖がってる女の子に意地張らせるな!っていうかお嬢って普通にホラー駄目なんだ。ちょっと意外」
「べ、別に駄目というわけでは……最後まで視聴しましたし」
『貴方とは違って』という視線を送ると、ライアンは笑いながら席に着いた。
「相変わらずプライド高くて可愛いなぁ。どう?今日でいっ君、靡きそう?」
「はぁ!?」
慌てて糸哉の姿を探すが、彼はいつの間にか実況部屋へ戻っていた。
――お兄さんの夕食も用意されている……いつの間に!?
「ここ壁厚いし、いっ君もしばらく出てこないから話聞くよ?そんな感じじゃお母さんとか友達にも相談できてないでしょ」
「っ」
図星を突かれ、カレンはルイボスティーを手にライアンの向かいへ座った。
「一応言っておきますけれど、私は熊本君を異性としてお慕いしている訳では」
「うんうん」
――絶対信じてないわね!?
カレンは攻撃モードに入りたい気持ちを押し殺し、ルイボスティーで心を静める。
「ご覧の通り私の両親は多忙で、兄弟姉妹もいません。ですから彼のように打算も見返りも求めず、下心や偽善めいたところさえ感じさせない態度にはどこか新鮮なものを覚えまして……」
「メッチャ分かる」
――気遣い上手なとこは先輩譲りっぽいけど、いっ君の親切からはその先まで見越して利用しようとする気配が感じられないんだよな……そこは奥さんに似たのか。
「まぁ時折こちらの調子まで狂わされてしまいますけれど……近頃は、以前より心にゆとりが持てるようになった気がします」
懐の深い糸哉に甘え続けるうちに――カレンは冷えて空虚だった心の中に、温かさが灯っていることに気づいていく。
「決して彼に恋慕しているからホラーゲームを口実に泊まろうとしたのではなく……」
カレンはこれまで抱えてきた葛藤と、先程聞いた糸哉の本音を思い返す。
――いつもヘラヘラしているから分かりにくいけれど……彼にだって人には見せない一面がある。私はこれからも、純花さんよりずっと近くで……。
「ただ……彼の隣にいることが心地良いだけです」
「そっか……」
ライアンにはその言葉が、片想いに悩む少女のものとは少し違って聞こえた。




