第192話『水面リレーションシップ』
『お願い……元いたところに帰して……』
流石に事態を察した少女が、朽ち果てた本殿で両手を合わせて祈ったその時。本殿が大きく揺れ、目の前に現れたのは――大口を開けた異形の化け物だった。
「いやぁぁぁぁっ!」
「……!」
ほんの瞬きの間に、少女はその大きな口の中へ丸ごと呑み込まれてしまった。
「…」
「はぁ、はぁ……」
人気のない公園に、カレンの荒い吐息が漏れる。僅か一瞬の演出だったにもかかわらず、その映像は二人の脳裏に強く焼き付いていた。
「こ、え、終わり……?」
「いや、タイトル画面に戻らない……まだ何かあるっぽいですよ!」
「ちょっと待って……ねぇいいから!やめてやめてやめて!もういいからぁ……!」
その後、何かが起こりそうな雰囲気だけを散々煽り――
「あぁ『ザザッ!』ってなった!これはこれは……」
「急に来ないで来ないで来ないで……!」
――結局、何も起こらない。そんなエンディング後のホラー演出まで、最後までカレンを怯えさせ続けた。
「本当に……はぁ……はぁ……嫌ぁ……何で、こんな……」
「何もないパターンだったかぁ……最後にジャンプスケア来ると思ったのに」
「もう無理……」
「……まぁ面白かったかな」
「どこがよ!?」
涙声で訴えるカレンを前に、糸哉はそれ以上の感想を口にするのを控えた。そしてゲームを終えると、糸哉はさっさと自転車に跨る。
「じゃ、帰りましょうか」
「…」
その背中に、ガシッとカレンが掴みかかった。
「先輩?」
「…」
しかしその手はすぐに離れた。二人は駅で別れを告げ、糸哉があの行動に隠された意味を理解したのは――
「……いやいやいやいや」
「貴方の所為よ……」
――それから小一時間が過ぎた頃だった。
熊本家のリビングにて。糸哉は仏頂面でダイニングテーブルに座るカレンの前に湯呑みをそっと置いた。彼女の脇には、何故かボストンバッグが鎮座している。
「お父様とお母様は今日から一泊二日で人間ドックに行っているから……」
「家に一人でいるのが寂しいと。よりにもよってそんな日にホラゲなんかやっちゃったから、怖くて耐えられないと」
「あ、あんなに恐ろしいと思わなかったもの!責任を取りなさいよ!」
「いやそれでも……何で僕の家なんですか!?クラスの友達にすら怯えているところを見られたくないんですか!」
「当たり前でしょう!?決してこ、怖いという訳ではないけれど……!私は由緒ある祐東家の長女よ!それにいくら友達とはいえ、事前の約束なしに宿泊を願い出るなんてあまりに非常識だと思わない?」
「だ、誰か……誰かツッコんで……!」
――ライアン早く帰ってきて……!
糸哉は頭を抱え、カレンには二度とホラーゲームをさせまいと固く決意した。
――今日は鯖の塩焼きだったけど……シチューにするか。
もはや諸々を諦めた糸哉は、来客用の献立へ変更しようと腰を上げる。ところが、カレンもランチバッグを手にしてキッチンまでついてきた。
「夕食ならハウスキーパーの方が用意してくださった作り置きがあるから。ご飯だけ頂けると嬉しいのだけど」
「おぉ……やっぱり事前に泊まる気満々だと違いますね」
ということで糸哉は献立を変更せず、カレンには五穀米と豆腐と人参の味噌汁を用意することになった。
「じゃあ先輩、先にお風呂どうぞ」
糸哉が客用のバスタオルを置くと、カレンはそれを見つめたまま神妙な面持ちで俯く。
「……貴方は何も分かっていないのね」
「え?」
「いいこと?そもそも浴室なんて死角だらけの空間なの。そのうえ入浴中というのは人間が最も無防備な状態にある……怖い経験をした直後なら、交感神経が過敏になるのは当然ではなくって?些細な気配さえ恐ろしく感じてしまうのは私の気が弱いからではなく、人間の本能よ」
「……要するに、一人でお風呂に入ると『よみち』のこと思い出しちゃって無理ってことですか?」
「何も、貴方に扉の前で待機しなさいと言っている訳ではないわ。その間の時間まで浪費させるのはあまりに勿体ないでしょう?」
「そうですね」
――そういうところはちゃんと配慮できるんだ……?
糸哉が想像していた展開をカレンは事前に否定する。少しだけ彼女を見直しかけたが――
「二人で一緒に入ったほうが効率的よね。複数の利点を同時に得られるもの」
「考えうる限り最悪の流れ!」
「今……最悪って言った?」
「瞳孔開かないでください!」
――とんでもない提案を聞いて、たちまち前言を翻すことになった。
「ていうかそうじゃん!自分の分のおかずまで持ってくるくらい準備してるのに何で事前に家でシャワー浴びてこな……あぁ一人が怖いからかぁ……」
「お互い水着で入れば問題ないわ。さぁ、お湯が冷める前に早く入りなさい」
「えっ僕」
――水着持ってない……ってそういう問題じゃないだろ!?
糸哉は当然のように抵抗を試みたが、カレンの態度はいたって平然としたままだった。そこでふと我に返る。
――一人で怯えながら入るくらいだったら僕を巻き込んででも風呂に入りたいってコト!?鬼かこの人!
カレンの瞳を見ても、そこに糸哉が想像していたような恥じらいは微塵もない。彼女の中では、これは純粋に『一人で風呂に入るのが怖い』というだけの話でしかなかった。
――ならここで僕が妙に意識しちゃうのも、向こうに余計な恥をかせるのも違うかぁ……。
「はぁ……」
そう悟った糸哉は重い溜息を吐く。せめてもの意地で、色の濃い入浴剤を二つ湯船に放り込んだ。
☆彡
――ふぅ……。
髪と体を洗い終えた糸哉は湯船に浸かると、張り詰めていた感情がゆっくりと緩んでいくのを感じた。
『ザァァァ……』
隣ではたった今入ってきたカレンが髪を洗っている。あまりの異常事態に、彼はどうにか平静を装おうと努めていた。
――罰だと思おう……纐纈先輩の醜態を引き出したのと、昨日リーサルドーズで四試合連続いの一番にホットを倒したのと、一昨日サトナでユイガを無言で囮にしてその隙に窮地を脱したことと、一昨昨日レゾクラの弓ゲームで笑いながらナキを蜂の巣にしたこと……あれ。僕結構やらかしてる?
しかし自分の行いを並べる程度では、中学二年生の脳はそう簡単に現実逃避を許してくれない。
――そもそも水着で風呂って何?どういう理屈でそれならオッケーだったんだ。隠してる部分はどうやって洗うんだよ。あと使用後の水着どうするんだ……。
「ねぇ」
「!!」
急に振って来た声に驚き、糸哉がキツく目を閉じていた目を開けると――全身びしょ濡れのカレンが覗き込んでいた。
「ガボッ!?」
――紫のビキニ……!?マジ何考えてんの!?
「何だ起きてるじゃない。ずっと目を閉じたまま動かないから寝ているのかと思った」
カレンの水着姿の破壊力に、糸哉が湯船に沈むほど動揺していることにも気づかないまま――彼女は無事を確認してすぐ顔を洗い始める。
「…」
――肉眼で三次元の女の人の水着見たのいつぶりだ……?こんな刺激強かったっけ。
とにかく余計なことを考えないよう、頭の中を実況活動のことだけで埋め尽くすことにした。
「…」
大胆に誘ったカレンも当初こそ緊張していたものの、しばらくすると不思議なほど落ち着いてきた。
――――全く怖さを感じない……やっぱり一緒に入ってもらうのは正解だったわね。
無防備な状況にあっても、信頼できる人間が傍にいる――ただそれだけのことで、あのホラーゲームの余韻は大きく薄れていく。
――後は出るだけだけど……。
カレンは何か考え込んでいる糸哉を横目にちらりと見やり、濡れた髪をクリップでまとめ上げた。
『ザプン……』
「へ!?」
糸哉が驚いて瞼を開けると、いつの間にかカレンも湯船の中にいた。急に水嵩が増したことで湯が大きく揺れ、彼は反射的に伸ばしていた足を折り曲げる。
「ちょっ……先輩!?」
「…」
なんとも奇妙な沈黙が二人の間に落ちた。狭い浴槽の中、視線だけがぎこちなく交わる。
「……狭いわ」
「あのタワマンと一緒にしないでください。これでも家族用の物件なんで一般家庭としては広い方です」
「そう」
「…」
「……呆れてる?」
「いや、そういうのじゃなくて……」
糸哉は赤くなった顔を隠すように手で覆い、そのまま浴槽の縁へ寄りかかった。
「先輩の所為でのぼせる……」
「す、すぐ出るわ!」
カレンは慌てて浴槽から上がる。その後ろ姿を見送った糸哉はほどなくして浴室を出ると、冷水を頭から浴びた。
「……あまり長く浸かれないの?」
「熱いのは苦手なんです。湯船も夏も……料理は別ですけど」
――まぁ普段ならもう少し我慢できるけど……。
「私の所為ってどういうことなの?」
「…」
ドアの向こうからそう問われた糸哉は、無言のまま眉間に深くシワを刻んだ。




