第188話『纐纈白雉のたくらみ』
※時期は四月下旬あたりです。
足元に落ちた鞄を胸に抱え、改めて隣の少年へ視線を向ける。
ブレザーの制服姿の少年は――落ちていたスミックマのエコバッグを拾い、悪びれる様子もなく差し出してきた。
「あ、どうも……」
「食パンとキャベツとミニトマト……はっ。常温保存の食材ばかりでよかった」
「……ですね」
――今の含み笑い……ちょっと待って何だその言い方。文句か!?
買い物の内容から庶民的だと侮られたように感じ、糸哉の顔がピクッと引きつる。しかしここで感情的になっても仕方がない。ひと呼吸置いて気持ちを整えると、糸哉は車内を見回してから隣の少年に声をかけた。
「大舞学園生……じゃないですよね。その制服は……」
「はい。僕は光徳学院中学校三年の、纐纈白雉と申します」
「こ、こうけつはくちさん……!?」
――リアルでこんな迫力のあるフルネーム初めて聞いた……!
「何か……何か凄いですね。今乗ってるこの高級セダンと運転手がいる状況も相まって、先輩が一気に凄い人に見えてきました」
「光栄です。偉大なる両親の薫陶を受けて育ちましたからね」
「お、おぉ……」
――いやそれよりこの車ヤバくない!?三千万はする高級車じゃ……!?
糸哉が萎縮しているのは、白雉から漂う気品や威圧感だけではない。むしろ目の前に広がる広々とした内装と、光沢のあるレザーシートの方が余程気になっていた。
「そして僕はカレンの婚約者です」
「え」
そんな糸哉をよそに、白雉はさらりと告げる。
「僕の婚約者がいつもお世話になっています。よろしければ、お礼に夕食でもいかがですか?」
「……じゃあ家族に連絡入れてもいいですか?僕のスマホ運転手さんに盗られたままなんですけど」
「その必要はありません」
「え?」
「君の後見人である十王徹は本日、取引先の接待でご帰宅は深夜になるとのこと。それまでにはお返ししますから、どうぞ安心してください」
「!?」
――ライアンの本名と今日の予定まで把握しているだと!?それに僕が両親と住んでないことまでバレてる!?
突如として始まったサスペンスフルな展開に、糸哉の背筋がぞっと粟立つ。
「……計画的」
「そうですね。あぁ……形勢がそちらにあると思わないでください。僕が君と夕食を食べることは既に決まっています。覆ることはありませんよ」
「…」
――まさか何の前触れもなく先輩の婚約者さんとエンカウントすることになるなんて……。
しかもそれが、よもや拉致という形で幕を開けるとは思いもしなかった。加えて白雉は笑顔でありながら、言葉の随所に敵意を滲ませている。
「――落ち着け。誘い方が拉致なだけで、向こうは穏便に済まそうとしとる」
「……!」
そんな状況に糸哉は激しく動揺したが――聞き覚えのある声を耳にしたことで、緊張の糸がふっと緩む。
――そうだ……僕には神がいるから。何の問題もない……。
常に隠し持っていた小型ワイヤレスイヤホンを左耳に装着したことで、糸哉にようやく安堵が訪れたのだった。
☆彡
光徳学院中学校――大舞賀でも屈指と称されるその名門校には、高い学費や寄付金を負担できる富裕層の子供たちが数多く通っている。
偏差値だけで比べれば、糸哉が通う大舞学園より少々上回る程度であり、決して地域内で最も高い水準という訳ではない。だがここ大舞賀で『お金持ちの学校』と言えば、真っ先に名前が挙がるのがこの光徳学院だった。
そんな学校の生徒である白雉に拉致され、半ば強引に食事へ連れ出された糸哉は――
「今年初うなぎ……!いただきます!」
「どうぞ。もう春の土用の丑の日の時期ですからね。スカッシュ部の練習も大変でしょう」
――うなぎの超有名店、その個室席で仲良くうな重を頬張っていた。
「えーなー。俺もうなぎうなぎうなぎうなぎ」
――うるさいなぁ。
耳元から流れ込んでくるシェンの欲望を無視し、糸哉はこんな状況でもタレの旨味が染み込んだ白米を堪能する。
「……栂崎さんも食べるんですね。御付きの人なのに……」
糸哉が向かいに座る白雉の護衛兼秘書、栂崎へ視線を向ける。彼女はちょうど口へ運んだばかりのご飯を必死に咀嚼していた。それゆえ白雉が代わりに答える。
「可能な限り相伴を許すようにしています。そうしないと、栂崎は完全栄養食だけで済ませてしまいかねませんので」
「へぇー。何か雑な付き人さんですね。命令も自己管理も」
――うなぎは美味しいけど、本当だったら今頃お風呂入ってご飯食べて編集してたのに……。
乱暴に連れ去られたことも、予定を丸ごと狂わされたことも、糸哉としては当然面白くない。
その鬱憤を込め、わざと棘のある言い方を選ぶ。栂崎は何も言わず、茶色の瞳だけが剣呑な光を帯びた。
感情が読み取りやすい護衛とは対照的に、主の白雉は真意の読めぬ笑みを浮かべたまま静かに箸を置く。
「手段は問わないと命じたのは僕の方です」
「!?」
――もう食べ終わってる……!?この人やるな。
「婚約者に近づく不届き者に対して、礼儀など不要でしょう?」
「不届き者……」
「カレンは僕のものだ。彼女に相応しい格も、想いの深さも……。彼女を渡す気など微塵もない。君が身を引くまで、僕は絶対に諦めないよ」
「……!」
糸哉は湧き上がってくる鬱陶しさを表情の下に沈める。彼はそれを紛らわすように、ふっくらと焼けた高級うなぎをご飯ごとひと口大に割った。
「なーんか恋敵に対する宣戦布告みたいなことされましたけど、別に僕カレン先輩と交際してるわけじゃないですよ」
「……なら僕とカレンの関係を応援してくれるかい?君の素性については、些か勝手ながら調べさせてもらった。定期的に同じ列車で下校を共にし、あまつさえ彼女から手作りのチョコレートまで賜っているとは……随分と不相応な寵愛を受けているようだね……!」
「義理ですよ?」
――確かにもらったっちゃあもらったけど。
「……そ」
「え、まさか先輩もらっ」
『パンッ!』
言い淀んだ白雉の反応から図星を察した糸哉だったが――続く言葉を、栂崎の合掌の音が乱暴にかき消した。
「……ご馳走様でした」
「…」
これで、まだ食事を続けているのは糸哉だけとなった。気まずい沈黙が流れる中、糸哉は落ち着かない様子で吸い物に口をつける。そんな彼をじっと見つめ、白雉が声を低くした。
「本来なら人身御供にしたいほど君が憎いが……今回は学府を去ることを勧める、という形で手を打とう」
有無を言わせない、冷え切った声だった。糸哉は思わず息を呑んだが――
「嫌です」
「……は?」
――その顔をまともに見られない、ということはもうなかった。
「君のような身の程知らずが、カレンの前で二度と気安く笑うなと言っているんだ。これ以上僕の耳を汚させるな」
「そうですか……確かに婚約者さんにとって僕は害虫ですよね」
最初にあった戸惑いも、鳴り続けていたはずの警鐘も、いつしか音を立てなくなっていた。
――でも主観的な格付けと威圧じゃ僕は動かないよ?
そんな気持ちを込めつつ、糸哉はいつもの人懐っこい笑顔を作った。
「僕を排除するために色々と調べてくれたんですよね? 一体どんな個人情報を丸裸にしてくれたんですか?」
「……君がなかなか凡庸とは呼べない生活を送っていることくらいは、こちらも把握しているつもりだ」
――店に入ってから余裕を取り戻している……癪だな。
白雉はお茶を含み、荒立ちそうになる感情を鎮める。それからゆっくりと言葉を継いだ。
「熊本糸哉。十月二十七日生まれ。大学講師を務める父と、専業主婦の母との間に生まれた一人息子。小学五年への進級時、クラス内での人間関係の軋轢に伴い神京から堀蔵小学校へ転校。実父母は現在も神京の持ち家に住んでいるそうだね。そして君は現在、実父名義のマンションにおいて、父の大学時代の後輩にあたる十王徹氏と同居関係にある……」
「…」
「転校の背景にあるのは世に言う『いじめ』というものかな?そこまでの詳細な調査は命じていないから、君が被害者か、はたまた加害者であるかまでは僕の与り知らぬところだが……」
「……それは」
「君は所詮、未だ庇護される側の存在に過ぎない。いくら声を荒らげて哀れな抗議をしたところで……君の盾になっている大人たちなんてね、奈落に突き落とせる弱みがいくらでも転がっているんだよ」
白雉の声には、明確な脅しが込められていた。
要するに『カレンから物理的に距離を置け。さもなければ君の周りの人間を社会的に排除する』と言っているのだ。
「……(もぐもぐもぐ)」
しかし糸哉は、箸を止めることなくその言葉を聞いていた。
――大事なところだけ綺麗に全部間違えてる……この人本当に『熊本糸哉』について調べたの?
「海鮮丼もアリじゃな……あ、オメーを守る人間は先輩……父ちゃんとライアンだけじゃねぇ。早くこんな無駄話終わらせて編集しろ」
「…」
真顔でピースをするシェンを脳裏に描くと、糸哉はつい笑みを零してしまった。




