第186話『害虫駆除はお早めに』
「「…」」
彼女の言葉に糸哉、幸樹、カレンは絶句する。三人の脳裏に、近くの裏庭で孵化した大量の衛生害虫が、驚異的な帰巣本能で再び校舎へと戻ってくる光景が浮かんだ。
「貴女ね、それは……」
「知るか馬鹿」
「はぁっ!?」
「コラッ幸樹!すみません先輩……でも」
糸哉は慌てて謝罪するも、その表情にはどこか相手の反応を窺うような笑みが浮かんでいた。
「……何かしら」
「そんなに虫の生命を大切に思っているなら……どうして僕たちが再捜索している時に手伝ってくれなかったんですか?」
「っ……」
「先輩が言ってくれたら、僕たちも潰さずに外へ返してましたよ」
「それは……」
先輩女子は返答に窮し、気まずそうに視線を逸らした。対する糸哉は『図星か』と言いたげに頷く。
「先輩の気持ち、僕分かりますよ。周りの反応を見て『私が殺さずに外へ返してくる』って言えなかったんですよね?友達にドン引きされるのが怖かったから」
「…」
「結局、自分のことしか考えてねーのな。虫かよ」
「っ!」
「だから幸樹は言い過ぎ!じゃあ祐東先輩!僕たちこれで失礼します!」
「はぁ……お疲れ様」
完全にトドメを刺された先輩女子は瞳に涙を滲ませて俯く。糸哉は幸樹を連れ、その場をそそくさと後にした。
「……確かに、虫呼ばわりは言い過ぎね」
「…」
「……気の毒に思うことと、衛生害虫の卵を生かしておくことは別の話よ。私は断固として反対させてもらうわ」
「で、でも……」
「衛生害虫による危険性くらい、きちんとお調べになってはいかがかしら。一般常識として押さえておくべき事柄よ」
「……分かりましたわ」
その後、カレンの提案のもと――スカッシュ部の女子部員たちは駆除だけで終わらせず、今後の再発防止に備えて例の虫に関する最低限の知識を身につけることになった。
☆彡
「うわ。孵化してなくてよかったね……」
数日後。糸哉はシェンの家へ向かう途中、駅で純花と鉢合わせていた。
先日の悲惨な事件について話していると、当然のように話題は例の虫へと移る。
「怖いよねー。山根家ではアレが出た時どうしてるの?」
「え?普通に見つけた人が新聞紙で叩き潰してる」
「普通……叫ぶ人とかいないんだ?」
「聞いたことない。何匹もいたらちょっと怖いけど、一匹くらいだったら純花もバシッと一発で……」
「虫耐性高ぁ……」
――多分コバエ潰すのと同じ感覚でイケちゃうんだろうな……。
糸哉は眉一つ動かさずに例の虫を仕留める山根家の面々を想像し、心の中で静かに尊敬した。
「逆に家族で苦手なのって……あ」
「あ!お疲れ様です、カレン先輩」
「……お疲れ様」
糸哉がふと声を上げる。純花が振り返ると、いつの間にか後ろにカレンが並んでいた。
「今、二分ほど遅延しているみたいですよー」
そう言いながら、糸哉は何気なくカレンが持っている紙袋に片手を差し出す。
「……!」
――持ってくれるってこと?別にこれくらい自分で……。ま、まぁ今日くらいだったら……。
意図を察したカレンは、張り付けたような笑みを一瞬で崩した。何とも言えない複雑な表情を浮かべながらも、素直に紙袋を手渡す。
「……!」
――ス、スマート……!流石テディ!カッコいい!純花もいつか絶対……!
その光景を一部始終目撃していた純花は、思わず瞳孔をバチッと見開いて悶絶していた。
「そういえば先輩って裸眼でしたっけ」
「……えぇ」
「いいなー。もうすぐ眼科検診だから……僕去年引っかかって眼鏡作ったんですよ」
「「貴方(糸哉先輩)眼鏡だったの!?」」
「アレ。言ってませんでした?」
カレンと純花の反応が綺麗に重なった。実は糸哉は近視で、検査用の眼鏡を持っている。
もっとも普段の授業では前の席に座ることで乗り切り、遠くを見る必要がある時は目を細めて誤魔化していた。
「ゲームしてる時も?」
「ゲームや読書は普通にやれるよ。まだギリギリ近視のラインだから」
「C判定は立派な近視だと思うけれど……だったら毎日着けなさいよ。さもないと大切なスカッシュのプレイに障りが生じるわよ」
カレンは呆れ顔で咎めるが、糸哉はそっぽを向いて取り合おうとしない。
「いーやまだ耐えれます。裸眼やれます」
「貴方ねぇ……視界をクリアに保つのはプレイヤーの嗜みであって」
「純花ちゃんは視力どう?」
「ちょっと!」
「わ、私は授業中だけ眼鏡かけてるよ。でもこの前ママに『そろそろ毎日つけた方がいいんじゃない?』って言われた……」
――でもいつもは嫌だ……お兄ちゃんみたいな地味陰キャになりたくない!
山根兄妹は二人とも視力が悪く、それぞれ眼鏡を所有している。
孝太は中学校に入学してから毎日眼鏡をかけているが――純花はそんな兄の姿を見て、密かにコンタクトレンズを検討し始めていた。
「眼鏡もコンタクトもめんどくさいよねー」
ちなみに敦斗、幸樹、満士も近視で、三人ともコンタクトレンズを愛用している。
そんな純花とカレンも参加できる話題で時間を潰しながら、三人は目的地であるタワーマンションへ向かった。
「……あら。純花さんの自宅もこっち方向なの?」
「いや真反対なんですけど……」
「純花ちゃん、僕と一緒に家の掃除を手伝ってくれるんですよー」
「……は!?」
――家……一緒……何で!?
あまりにもサラッと明かされた衝撃の事実に、カレンは激しく取り乱した。
「そ、そんな……駄目よ!一年生の貴重な時間を家事手伝いに奪うなんて!」
「いいえっ!私がしたくて頼んだんです!少しでも糸哉先輩の力になりたくて……!」
――二人でシェンの家を片付けた方が早く終わるし、その分テディの時間も取れるから!
純花にとっては、あくまで『テディの実況活動時間を確保する』ための行為である。
カレンが想像しているような、露骨な異性へのアピールではなかったが――もっとも、彼女がそんな事情を知る由もない。
「純花ちゃんありがとう……!この前も思ったけど、やっぱり二人でやると全然違ったよ!」
「何ちゃっかり継続させてるのよ!」
「痛い痛い痛い!先輩!僕今両手塞がってます!」
両手が荷物で塞がっている彼糸哉は抵抗することもできず、無性に腹が立ったカレンによってほっぺを容赦なく抓られる。
「わ、私が言い出したことで……」
横から純花が弁明するが、カレンにとって重要なのはそこではなかった。
――ようやく合点がいったわ……『部活の後輩以上に近い関係』ってそういう……!
カレンの脳みそが猛烈な勢いで回転する。そして彼女は、理詰めで糸哉と純花が二人きりになる状況を阻止しようと考え始めた。
「純花さんは帰宅部でしょう?寄り道の件、ご両親の許可は得ているのかしら」
「得、てはないですけど……共働きで、早くても十九時にならないと帰って来ないし。手伝いって言っても小一時間くらいなので……」
「熊本君も、甘えた分だけ彼女の勉強時間が疎かになるのはいただけないわよね?」
「別に毎日じゃないんで大丈夫だと思いますけど……まぁそうなったら無論、そっちを優先させます」
「べ、勉強はちゃんとやるよ!?」
「それに、これが一番の理由よ……」
カレンは眉間に深い皺を寄せたまま、一度言葉を切る。そして険しい表情で二人を睨みつけた。
「いくら家主が在宅しているといっても……中学生の男女が家に二人でいるのは不純よ!」
「……っ」
――確かに。異性交遊を突かれると何も言えない……。
急所を突かれた純花は、それ以上何も言えなくなってしまった。しかし糸哉だけは、白けた表情でカレンを見る。
「いや……それ先輩が言いますか」
「……うるさい」
「去年のアレ(第63話)は百歩譲って議題に上げないとして……先々月ウチに来た時、もし孝太と純花ちゃんがいなかったらどうなってたか分かってます?」
「あ……」
純花の脳裏に、二月の出来事(第150話)がフラッシュバックする。
――そうじゃん!純花たちが家に行かないで、そのまま買い物して別れてたら……その後テディはカレン先輩と……って『去年のアレ』って何?
糸哉がわざわざぼかしたことが、かえって純花の疑念を強めた。いつか絶対に聞き出そうと彼女は心の中で固く誓う。
「先輩が抱いてるようなリスクは起きませんって。第一、兄さんの家で純花ちゃんにそんなことしたら僕の命は……」
「本当ね?なら……手を出さないというその言葉、信じることにするわ」
ゴキブリ駆除の時以上に怯えた表情を浮かべる糸哉を見て、彼女はようやく少しだけ溜飲を下げる。
――それでも……早いうちに手を打たないといけないわね。私が彼女に嫌悪を抱く前に。
糸哉と二人きりで帰る時間は、いつの間にかカレンの日常に欠かせないものになっていた。誰かが加わればその特別さが崩れてしまう気がして――彼女はそれを、歓迎できないと思ってしまったのだ。




