第103話『青天のOMG』
長編『BRO・AD編』スタートします。(全22話)
季節は瞬く間に十二月へ移り変わり、街にも年末の空気が漂い始めた。そんな木曜日の夜。
「ただいまー」
シェンの家から帰宅した糸哉はすぐに違和感を覚える。リビングへ続くガラス扉の先には、静寂と暗闇だけが広がっていたからだ。いつもなら、そこにはソファーと一体化してだらけるライアンがいるはずだった。
――あれー?でも靴あるから中にはいるな……。
糸哉は手を洗い、人の気配がしないリビングの明かりを点ける。キッチンへ向かうと、ラップのかかった夕食は手つかずのまま残されていた。
――まだ食べてない?まさか体調不良……。
妙な胸騒ぎを覚えながら、彼は静かに寝室のドアを開けた。
「ライアン?」
「……おかえり」
返ってきた声に、糸哉は思わず目を見開く。ライアンはこちらに背を向けて横になったまま、掠れた涙声でそう返事をしたのだ。
「な、何かあった?」
「…」
返事はない。ただ肩だけが小さく震えている。
――え、泣いてる……?
糸哉の頭が一瞬真っ白になる。ライアンが落ち込む姿は見たことがあるが、ここまで感情を崩しているのは初めてだった。
――仕事で何かあった?彼女さんと喧嘩したとか……?ライアンって意外とお酒や映画とかですぐ泣くタイプだから……。
混乱しつつも、今は無理に聞き出すべきではないと判断する。
「……とりあえず水置いとくね」
糸哉は軽く濡らしたタオルと水の入ったコップをヘットボードに置き、そっと部屋を後にする。
それから約一時間後。実況部屋で編集作業をしていた糸哉は、ヘッドホン越しに微かなノック音を聞き取った。
「!」
すぐにヘッドホンを外し、椅子を蹴るように立ち上がる。ドアを開けると、そこには目元を赤くしたライアンが立っていた。
「……水とタオルありがと」
「大丈夫?」
「ん……」
「夕飯食べる?」
「もう食べた。ごちそうさま」
二人でリビングへ戻ると、シンクの食器は既に洗われ、水切りカゴへ整然と並べられていた。
――こんな状態でもちゃんとしてくれたんだ……。
糸哉は偉いと感心しながら、キッチンでカフェインレスのはちみつ紅茶を淹れる。
こたつへ入ったライアンの前にマグカップを置き、自分も向かいへ腰を下ろした。
ライアンはしばらく黙って湯気を眺めていたが、やがてぽつりと口を開く。
「……別れた。彼女と」
「え……何で」
糸哉は目を瞬かせる。ライアンは紅茶を一口飲み、苦し気に表情を歪めた。
「同じ会社の、デジタルマーケティング事業部長のこと好きになっちゃったんだって」
「部長って……かなり上の人じゃん。年齢も……」
「今年で四十」
「よんじゅう!?」
糸哉から素っ頓狂な声が出る。
――え、確か彼女さん二十三とか二十四じゃなかった……?
一回り以上離れた年齢差に、糸哉は理解が追いつかない。彼は色々と言いたいことをぐっと飲み込み、説明の続きを待った。
「事業部長、海外転勤決まってて……彼女も会社辞めてついて行くって……」
「はぁ」
「俺、結婚も考えてたのに……」
そこで言葉が途切れる。ライアンは俯いたまま口元を押さえ、今にも涙を零しそうになっていた。糸哉は慌てて立ち上がり、新しいタオルを掴んでライアンへ押し付ける。
「……事業部長めちゃくちゃ良い人なの。彼女もずっと尊敬してて『この人がいたからこの会社入った』って前から言ってたし……でもさぁ……」
ライアンは掠れた声のまま、ぐしゃぐしゃになったタオルを握り締める。
「じゃあ俺との時間って何だったんだよ……」
「え、えっと……その彼女さんはもう会社辞めたの?」
「今日辞表出したって……」
ライアンはぽつぽつと、定時後に突然呼び出されたことを話し始めた。
会社を辞めること。
海外転勤する事業部長について行くこと。
そして、その人と付き合うことになったこと。
「前から尊敬してたのは知ってたんだよ……。でも本人も『これは憧れみたいなもんだから』って言ってて……けど海外転勤が決まってもう会えなくなるってなった途端、自分の気持ちが恋だったって気づいたんだって」
「…」
「俺のことも好きだったって。結婚してもいいと思ってたって……でも、それでもその人を選びたいって……」
「え、その部長さんは独身?」
ライアンは黙って頷くと、また喉が詰まったように俯く。糸哉は彼の中であまりにも現実離れした恋愛事情に、返す言葉を失った。
――相手は四十歳で、しかも会社の上司……親子に見える年齢差で、ライアンと職を捨ててまで選ぶ……それが『恋』?
当然、彼女自身も葛藤はしたらしい。
それでも、ライアンとの安定した未来を手放してでも追い掛けたい相手が現れてしまったと語る。
「……これ全部今日の出来事なんでしょ?一回落ち着いてから、もう一回話すとか……」
「した方がいいんかなぁ……でも俺もう一回同じこと言われたら……話したいけど、怖ぇよ……」
ライアンは赤い目を伏せたまま呟く。その弱々しい声に、糸哉は胸が痛くなった。
――ライアン、まだ彼女さんのこと好きなんだ……。
突然別れを告げられ、しかも権力も立場もある相手へ心変わりされたというのに――それでもなお、完全には嫌いになれない。
糸哉は身内だからという理由を抜きにしても、同じ恋ならライアンの方を応援したいと思った。
――元カノさんとは二回くらい挨拶したことあるけど……人間って分かんないなぁ。
脳内に柔らかい雰囲気の、ごく普通の若い女性が浮かぶ。少なくとも、こんなドラマみたいな決断をするタイプには見えなかった。
「……嫌いで別れたワケじゃないなら、まだ望みはあると思う」
「…」
「絶対そのアラフォーのおっさんよりライアンの方がお似合いだって」
「いや……おっさんじゃない」
「え?顔が若いってこと?」
ライアンは冷め始めた紅茶を一口飲む。糸哉もつられるようにマグカップへ口を付けた。
「おっさんじゃなくて、おばさん」
「ブーーッ!?」
――おばっ……女!?!?
次の瞬間、糸哉は盛大に紅茶を吹き出した。
「ゲホッ……!?は!?ちょ、待っ……え!?」
慌てて台布巾でこたつを拭きながら聞き返す。
「え、女!?」
「……うん」
どうやら、元カノが恋に落ちた四十歳のデジタルマーケティング事業部長は女性らしい。
――オ、オーマイガーだ……。
十六歳差の同性同士の恋愛。ラブストーリーとしては刺激が強すぎる展開に、糸哉はしばらく口を閉じられなかった。
☆彡
そんな喪失感を抱えたまま、ライアンは翌日も会社へ向かった。玄関で靴を履く背中は普段通りを装っていたが、無理やり身体を動かしているようにも見える。
――大丈夫かな。
糸哉は腕を組み、ドアが閉まった後もしばらく玄関を見つめていた。
彼が両親と離れ、あの家で生活している理由には父の後輩であり社会人でもあるライアンの存在が大きい。
年上なのに変に偉ぶらず、糸哉を子供扱いしない。滅多なことでは怒らず、何を聞いてもちゃんと返してくれる。
本人には絶対言わないが――もし自分に兄がいるなら、ライアンみたいな人がいいと密かに思っていた。
――彼女さんとヨリ戻すのが一番丸いんだろうけど。
糸哉はマンションの駐輪場に向かい、指定のヘルメットを被る。
仕事を辞め、同性で四十歳の元上司と海外へ行く――そこまで腹を括った相手を説得するなんて、中学生の自分には到底無理な気がした。
――精々、感情論で押すくらいしか出来ない……もし父さんだったら絶対シェンをフル活用して自分の望み通りにするだろうな。
以前シェンが泣きながら父の命令に振り回されていたのを思い出し、糸哉は微妙な顔になった。
――せめて僕が出来ることだけでも……。
放課後。糸哉はスーパーで挽き肉と茄子を買い、ライアンの好物である餃子バーグと茄子の味噌汁を作る。
そして二十一時を回った頃、帰宅したライアンは幾分マシな顔をしていた。
「ただいま」
「おかえりー」
まだ疲労は濃いが、完全に沈み切っていた昨夜よりは目に光が戻っている。糸哉は内心ほっとしながら、何も言わず食卓へ料理を並べた。
――今日どうだったんだろ……土日ゆっくり休めば元気戻るかな……。
糸哉は配膳後すぐ実況部屋へ引っ込み、就寝時間まで編集を始める。
そして二十三時半。歯ブラシを咥えたままリビングを覗くと、ライアンはソファーに寝転がってテレビを見ていた。
――うわ僕の動画見てる……。
何とも言えないむず痒さに襲われ、糸哉は微妙に目を逸らしながら歯を磨く。こちらに気づいたライアンは動画を一時停止し、ゆっくり身体を起こした。
「来週の月曜まで有給取った」
「!」
――今日金曜だから……九連休!?
「俺の先輩、彼女の友達と付き合ってて……事情全部知ってて。凄い気遣ってくれた」
――先輩グッジョブ。
驚きつつ、口の泡を零さないよう慌てて洗面所へ向かう。糸哉は口をゆすぎながら、見知らぬ先輩社員に感謝の念を送った。




