第94話『余熱は高めに設定して』
十一月の朝。下駄箱へと続く道は、昨夜の雨で濡れた落ち葉がアスファルトに張り付いていた。冷たい空気が肌を刺し、制服越しでも冬の気配を感じ始める――そんな今日この頃。
「今日例のゲームやるけど。敦斗手ごたえどう?」
「もう最高!神ゲー!実況でもやるとかむっちゃ嬉しい!」
敦斗は最も好きなゲームシリーズの最新作が発売された直後、宿題を学校で片付けてまでプレイ時間を確保するほどやり込んでいた。
「負けてらんねぇな……」
「いやこのゲームだけは勝たせてよ!」
「僕もアレの実力はそこそこだからなー。ボロ負けして笑顔忘れたらどうしよう」
「テディいつもそんなこと言って顔崩れたことないだろ」
「そんなことないよー?僕だって引きつることくらい……」
軽口を交わしながら、糸哉が教室の扉に手をかける。
「……!」
「テディ……」
「来た……」
開いた瞬間、空気が変わった。教室にいたクラスメイトたちの視線が一斉にこちらへ向く。
「熊本君って……祐東カレン先輩の下僕だって本当!?」
「……え?」
クラスメイトからの意を決した問いに、糸哉の貼り付いたような笑顔がピキリと凍りついた。
「何その話!?急にキモいこと言わな……」
「黙れ!証拠は挙がってんだよ!」
「いっそ喋んな!」
「調子乗るな調子乗るな」
とんでもない噂が急に広がっていることに加え、クラスの男子が怒りに震えながらマーモットの被り物へ手をかけている光景に糸哉は一瞬たじろぐ。
――待てよ。付き合ってるとかのデマが流れるくらいなら、こっちの方がまだマシ説ない?
反射的に否定しかけた口がぴたりと閉じる。刹那の思考の末、彼は芝居がかった咳払いを一つ落とした。
「……僕は奴隷第一号で、どうやら他にも募集しようか検討中らしいよ」
『ガタガタガタッ!』
糸哉の発言に反応した二組――およそ十数名が、一斉に机を揺らしながら教室を飛び出していく。
――ま、怒られたら潔く謝ればいっか。
騒がしさだけを残して消えた背中を見送りながら、糸哉は内心でそう呟いた。
「……何で女子も混じってたの?」
「さぁ」
敦斗の若干引き気味の問いにも素っ気なく返し、何事もなかったかのように英単語帳を開く。そのまま、悠々と単語テストの勉強を始めた。
そして一時間目終わりの短い休み時間。我慢の限界を迎えた翠羽は、半ば強引に糸哉を捕まえる。その後ろには敦斗もいた。
幸樹はというと――そんな騒動には一切興味を示さず、社会の白地図に色を塗る宿題に没頭していた。
「あの噂のことなんだけど……カレン先輩が熊本君に『匹夫如きが……舐めてると潰すわよ』って言ってるとこを一組の人が目撃したのが発端らしいんだけど」
「ブッ……よりにもよってなシーンじゃん」
「へー。何年の誰?性別は?」
「…」
翠羽は答えず、じっと糸哉を見上げる。小首を傾げた上目遣い――それは答える代わりに、そっちも話してとでも言いたげな無言の圧だった。
「はぁ……多分、昨日のアレかなー?」
それを受け、糸哉は小さく息を吐く。結局、彼はその取引に乗ることにした。
☆彡
シェンの家を掃除する日。糸哉は人が多くなる時間帯を避け、少し急げば間に合う電車で大舞賀駅へ向かっていた。
「雨予報だったのに……外れたわね」
「僕もレインコート持っていき損になっちゃいましたよ」
ホームには当然のようにカレンが隣に立っている。二学期から彼女は塾の関係で糸哉と同じ曜日に部活を休むようになり、帰りの電車が重なることが増えた。
――奇遇だよねー。先輩が後期の学級委員長になって委員会で顔を合わせるようになったのも偶然。僕の親のことを知られたのも偶ぜ……そういうことにしてこう。
九月に入ってからというもの、カレンはどこか吹っ切れたように糸哉との接点を露骨に増やしてきていた。
――結局お父さんの浮気現場を目撃した幼馴染も転校したらしいし。きっと寂しいんだな。
スーパーに着くと糸哉はいつも通買い物を進める。その隣を、カレンが雛鳥のようについて回っていた。
――うんまぁ。別に先輩がそれでいいなら……僕の買い物に付き添うことに時間を使っても構わないんだけど……。
「……さつまいもは、真ん中が太いものが甘くて美味しいのよ」
「へぇー」
青果コーナーで徳用袋を選んでいると、カレンが指差して教えてくる。糸哉は素直に頷き、彼女の示した袋を手に取った。
「それで何作るの?」
「さつまいもご飯です。作ってって言われて……先輩もお好きなんですか?」
「好……職業体験先がここだったの。この知識はその一環よ」
――軽々しく好きとか聞いてくるんじゃないわよ!どうせ言ったら愚かしいほどに期待して思い違いするに決まってるわ。挙げ句の果てには、鼻息まで荒くして揚げ足を取るんでしょう?本当、男って……。
カレンは内心で毒づきながらも、視線はしっかり糸哉を追い続ける。
「うーん」
「何迷ってるの?」
「兄さんがスイートポテトもご所望みたいなんで材料買うんですけど……レシピ調べたら生クリームか牛乳か、有塩バターか無塩バターかで味が変わるらしくて」
「貴方スイーツも作れるの!?」
「まぁレシピ見れば」
――もう面倒くさいから全部買って食べ比べさせよ。
糸哉は全パターンを作り、シェンに一生分のスイートポテトを食わせる計画を立てる。その隣でカレンは、甘い誘惑と新たに発覚した糸哉の特技に思考が追いていなかった。
――私が好きな一個千円のスイートポテトってどれ使ってるのかしら……それ今日作るの?一体どうやって……。
「……食べたい」
「え?」
本音がぽろりと零れる。彼女がはっとして口をつぐむと、糸哉はいつもの笑みをいっそう濃くした。
「ごく普通の材料で作るんで、先輩の舌には合わないんじゃないですか?」
「匹夫如きが……黙って従いなさい!貴方もスイートポテトみたいになりたいの?」
「僕マッシャーで潰されるレベルの失言しました!?」
照れ隠しを脅しで塗り潰しつつ、カレンはしっかり予約を取り付けたのだった。
「――で、有塩バター×生クリームのスイポテが余ったってワケ。小椿さんいる?」
「えー!?食べたーい!」
「…」
――それ食ったら翠羽が知りたがってる先輩×テディのこと聞けなくなるんじゃ。
「翠」
「敦斗?」
甘味に揺るがない敦斗が忠告しようとするが、糸哉の無言の圧に押されて口を閉ざす。結局、彼女は誘惑に抗えず――自分の情報をあっさり明け渡すことになった。
☆彡
敦斗は撮影までに夕食と風呂を済ませ、ぼんやりと糸哉とカレンのことを考えていた。
――テディは先輩のこと特に何とも思ってなさそうだけど、先輩の方はあと一押しで恋に変わるって翠羽言ってたな……。もし告られたらテディどうするんだろ。
彼の中のテディはあっけらかんと笑って『貴重な経験ができる』と言いながら、恋愛感情抜きで交際を始めていた。勿論ゲーム実況のことは巧みに隠したまま。
――ヤバすぎ……サラッと付き合って円満に別れそう。怖っ。
勝手な想像に思わず身震いする。恋バナ自体は大好物だが、糸哉の件に関しては踏み込みすぎるとこちらが火傷を負いそうな予感があった。
「もしテディに好きな女子が出来たら……」
自室に入り、PCを立ち上げる。その間も、糸哉が恋愛脳に染まっていく姿を想像してしまい――
「……嫌だな」
――『テディ』には、ずっとゲーム実況を最優先にしていてほしいと思った。
ヘッドホンを装着し、敦斗も『ホット』へと切り替わる。スカイコードには既にユイガが待機していた。
「ユイガお疲れー」
「……おつ」
タンドリーほどではないが素っ気ない返事。しかしホットにとっては慣れた温度感である。
「今日テディがスイートポテト作ってきてさ。俺は甘いの無理なんだけど、ユイガってああいうの食う?」
「……食べるけど。じゃあそれ誰が食べたの?タンドリー?」
「いや。タンドリーも甘いの苦手。俺の彼女が食ってた」
「……彼女いるんだ」
「あー言ってなかったっけ。同じクラスの子」
――偽装ってとこまでは……ややこしいし黙っとくか。
「へぇ」
そこで会話は途切れる。ユイガの短い相槌に不快の波紋が広がったのを、ホットは敏感に拾った。
「ユイガは周りに気になる子とかいんの?」
空気を測るため、軽く話題を投げようとするが――
「……俺、ホットのこと認めてないから。これプロに相応しくないって自覚ある?」
――ユイガが返したのは、剃刀よりも鋭い本音だった。




