第93話『24時間のアフェクション』
やがてコースは進み、二人のテーブルには最後のデザートだけが残る。
『隣、全然進んでないですね』
『食べさせ合っているものね』
『熊本君の家ってこんな感じなんだ、、、』
『貴女は知らなかったの?』
『はい。敦斗君からも何も。そういえば参観日はお兄さんが来てた気が、、、』
――同居人の彼ね。
カレンは一人納得し、ルイボスティーが入ったグラスを傾け――
「さっきからその手錠の音うるさいんだけど」
「ゴフッ」
――思わず噴きかける。間一髪で飲み込み、テーブルクロスへの惨事は回避した。
翠羽が慌ててナプキンを差し出すが、カレンはそれを軽く制して自分のものを口元に当てる。
――手錠!?今ご両親、手錠で繋がれているの?正気!?どこまで突き抜ければそうなるのよ!
頭の中でツッコミが暴走する。叫びたい衝動を必死に押し殺しながら、カレンは視線をデザート『シャインマスカットとエルダーフラワーのジュレ』へ落とした。
シャインマスカットと巨峰が宝石のように並び、白ワインのジュレが淡く光を反射している。下にはなめらかなフロマージュブランが層を成していた。
――美味しい……。爽やかなエルダーフラワーの香りがシャインマスカットのすっきりとした甘みを引き立てているわ。ほのかに効いたレモンの酸味が、実に上品なアクセントになっているわね。シャインマスカットのプリッとした果実感と、ぷるんと揺れるジュレの食感が楽しませてくれる……。
思考がようやく落ち着きを取り戻していく。隣から聞こえる現実をひとまず切り離すように――カレンは静かにスプーンを動かし続けた。
『先に出た方がいいですよね?』
『ええ。あちらの会話が一段落したら出ましょう』
ちょうどその頃、隣では母が糸哉にプレゼントを渡していた。
「誕生日おめでと。私が選んで、パパが買ってきてくれたの」
「わーいありがとう。おーいいヤツだ」
新しいバケットハットを褒める声は柔らかい。それでもカレンには、どこか素直に受け取れない響きが残る。先ほどのやり取りが尾を引いているのか、その言葉はどこか空を切っていた。
「いっ君の試合見たよ。また来週もあるの?」
「うん。また……」
糸哉はそこで意図的に言葉を途切れさせ、母の罪悪感を少しだけ刺激するように振る舞う。
――やってもよくないことくらい分かってるけど……ついやっちゃうんだよなぁ。
「……動画送るから。家で見てよ」
それでも彼はあえて波風を立て、自分の存在を刻むことをやめられなかった。
☆彡
「何か、色々ヤバくてビックリしました……」
エレベーター内、翠羽の頬にはまだ熱が残っていた。その様子を見て、カレンは肩を落とす。
「ごめんなさいね。折角の夕食だったのに」
「いえっ!先輩の所為じゃないです!料理も凄く美味しくて……特にお肉!あんな柔らかいステーキ初めてだったかも……」
――誕生日でもないのに贅沢すぎ……最高だったなぁ。
翠羽は意外と肝が据わっており、隣を気にしながらも料理の味に感動する余裕はあった。
「今日見聞きしたことは、私たちだけの秘密にしましょう。この件は私に預けて」
「わ、分かりました」
カレンの真剣な声に、翠羽もすぐに頷く。
――いいことだけど、もし私の親がああだったらちょっと……クラスの人には知られるの嫌かも。熊本君のことはカレン先輩に任せて、私は見なかったことにしよ。
それが今の最善だと、彼女は無意識に理解していた。
外に出ると、夜の空気がひんやりと二人の長い髪を揺らす。カレンはタクシーを呼び、翠羽を先に乗せた。
「行き先指定と支払いは済ませているから。貴女はこれに乗って頂戴」
「あ、ありがとうございます……あの、今日は本当にありがとうございました!」
カレンは手を振る翠羽を見送り、車が見えなくなるまで動かずにいた――そして。
「……終わらせないから」
ラッピングされた袋を見て呟く。その瞳には、先ほどまでの冷静さとは違う光が宿っていた——糸哉の誕生日をあのままで終わらせないために。
カレンは短く息を整えると、すぐに通話ボタンを押した。コールは一度も鳴り切らないうちに繋がる。
「はいどうしました?」
「まだマイガーモールにいる?」
「え」
「一階の東出入り口前にいるから。すぐ来なさい」
「ちょ――」
言い終わる前に通話は切られる。糸哉はレストランの外で、急な命令に固まっていた。
――何で僕がここにいるの知って……外食先までは誰にも言ってないのに。
「母さん僕もう行くね!帽子ありがとう!」
「いっ君!?」
目を丸くする母を背に、糸哉は慌てて走り出した。不思議そうにこちらを見る父に、カレンの存在を悟られないためにも。
「――あら。早かったわね」
「……色んな意味で今一番先輩に会うの怖いんですけど」
誕生日当日とは思えない歓迎のなさだが、カレンは気に留めない。無言のまま彼の腕を掴む。
「ここじゃ落ち着かないわ。場所を変えましょう」
「長くなるなら電話でよくないですか?明日も学校ですし」
「今日じゃなきゃ意味がないの」
カレンは糸哉を逃がすまいと掴んだまま、迷いなくタワーマンションの方へ歩き出す。
――まぁいっか。どうせ今日は何もする気分じゃないし……。
糸哉は静かに溜息を吐き、大人しく流されることにした。
二人は十六階の共用ラウンジ、通称『塔ルーム』にて。珍しく他の住民の姿は見当たらず、辺りはしんと静まり返っていた。
ソファー席で無料の飲料水を手にしながら、糸哉はちらりとカレンへ視線を送る。
「……まず確認ですけど。今日先輩は部活サボってマイガーモールで遊んでたんですか?」
「……そうね」
「で、そこで僕の家族でも見たんですか?」
「話が早くて助かるわ。私、貴方が家族と食事しているとき隣にいたの」
「ブーッ!」
糸哉は口に含んでいた飲み物を盛大に噴き出した。
「ゲホゲホッ……はぁ!?」
「偶然、貴方のご家族が案内された席の隣にいたのよ。お母様がバケットハットを贈るところまで見たわ」
「ほぼ最初から最後までじゃないですか!」
――全然気づかなかった……ガチか。てことは……!
糸哉は濡れた唇を拭い、几帳面にテーブルの水滴をハンカチで拭き取る。その様子を、カレンは眉を寄せながら見つめていた。
「……ドン引きですよね。父さんは母さんが大好きなので、普段は家に閉じ込、家にいさせてるんですけど……母さんが外に出ると、だいたいああなるんです」
「……ご本人同士が納得しているのなら、よろしいのではなくて?暴力的なことは一切ないのよね?」
「……まぁ」
「何その間」
「ないですけど。父さんがちょっと極端に異常すぎて……もう少し父さんの執着が軽かったら、母さんがしっかり手懐けていたら――僕も一緒に暮らしたくないって思わなかったんですけど」
言葉を切る。胸の奥に残るものは、口にするほど重いものではない。順調に解決へ向かっているのだと、自分に言い聞かせるように。
「別に隠してたワケでもないんで。深刻に考えなくて大丈夫ですよ」
「それで本当にいいの?」
「はい」
糸哉はいつもの笑顔で即答する。カレンは納得のいかない表情のまま、それでも何と言えばいいのか分からず、ただ彼を見つめることしかできなかった。
――そうだよ。今更先輩が介入したってもう遅い。でもまぁ……。
糸哉は肩をすくめ、少しだけおどけた調子を混ぜた。
「そんな顔するなら慰めてくださいよ」
「は?」
「先輩がぎゅーって抱きしめてくれたら、今日のこと全部忘れられそうなんで」
このセクハラ変態オヤジ発言は軽口のつもりだった。少々気持ち悪いが、誕生日と糸哉の人柄、年齢がそれをどうにか許容範囲に収めている。
「……いいわ」
「え」
てっきり怜悧な眼差しで「気色悪い」と吐き捨て、そのまま帰られるものだと思っていたが――カレンは意外にも糸哉の隣に座り、両手を広げた。
「勘違いしないで。今日が誕生日なのに、家族とも触れ合えなかった可哀想な後輩が不憫で見ていられなかっただけ」
「…」
言い訳じみたその言葉に逆らう理由はなかった。糸哉はそっと距離を詰め、目を逸らしたままのカレンを抱き寄せる。
窓の外の月明かりが、二人の距離を曖昧にしたまま照らしていた。
――最後に誰かに抱きしめられたのは……家を出て、ライアンと暮らすことになったあの日以来か。
ふと過った記憶を振り払うように、糸哉は腕に力を込める。
身長は同じくらいのはずなのに、腕の中にあるその体は明らかに自分より細い。母のような包み込む大きさはないが、腕の中にあるのはサラサラの黒髪と、優美な甘さを含んだ香り。学校で嗅いだ時より、ホワイトローズの香りは淡く薄れていた。
それが妙にしっくりきて、言葉にしにくい満足感が胸の奥に広がる。
「……ありがとうございます」
「もう少しだけなら……いいわ。まだ貴方の顔が辛気臭いもの」
「……どうも」
本来なら高まるはずの鼓動さえ、二人の間では不思議と落ち着いた安堵へと変わっていた。
糸哉「いやー。まさか誕生日に『優等の切り札』として恐れられてる祐東先輩からハグしてもガッ!」
カレン「(チョップした手を払って)ところで貴方のそのハンカチ、随分と使い込んでいるように見えるけれど?」
糸哉「え嘘。今日のは去年母さんが送ってくれたヤツだと思うんですけど……」
カレン「……」
~後日~
翠羽「……それで、いっぱいいっぱいになって逃げちゃったんですか!?じゃあ次のチャンスはズバリ!クリスマスイブですね!!(おめめキラキラ)」
カレン「……………」




