第92話『記憶と感情はリンクする』
プレゼント選びに区切りがついた頃には、すでに時計は十七時半を回っていた。窓の外は夕焼けに染まり、部活もとうに終わっている時間帯である。
「……思ったより長引いたわね。タクシーを呼ぶから、家まで送るわ」
「え!」
――普通に電車で帰るつもりだったのに。ここでタクシー乗っちゃうなんてやっぱりカレン先輩って凄い……。
さらりと告げられた一言に、翠羽は思わず声を裏返す。戸惑いが消えないまま固まっていると、タイミングを見計らったかのようにスマホが震えた。
「……ママ?うん……え、そうなの……分かった」
通話を終えた翠羽の様子を見て、カレンが静かに口を開く。
「部活を休んでここにいること、もし何か言われたのなら私が説明するけれど……」
「あっいえ。そういうのじゃなくて――」
翠羽の母は今、妹を連れて予防接種に行っていること。その帰りが遅くなりそうなこと。そして昨夜の残りのシチューを温めて食べておくよう言われたことを説明し終え、翠羽はバツが悪そうに肩をすくめる。
「でも量があまり残ってなくて……私が食べると、お父さんの分がなくなっちゃうんですよね。だから晩御飯はこっそりカップラーメン食べよっかな……」
――私だけ内緒で朝シチューご飯にしちゃったから……。
「なら夕食一緒にどうかしら?」
「へ」
「ウチも共働きで、基本は作り置きを温めるだけなの。だから外で食べても特に問題ないし……今日は付き合ってくれたお礼もしたいから」
柔らかな口調ながら、断る隙を与えない言い回しだった。
「え、は……はい」
――え!今から私カレン先輩と晩御飯食べるの!?お礼って……まさかご馳走してくれるとかじゃないよね……まさかまさか。
そうして話はするするとまとまり、気づけば翠羽はカレンに連れられて九階のレストランフロアへと足を運んでいた。
「――祐東様でご予約いただいておりますね。本日はプレミアムコースでご用意しておりますが、お間違いないでしょうか」
――あれ。あれあれあれ。ココココース料理……!?
内装がホテルビュッフェのような雰囲気だったため、翠羽はすっかり気を抜いていた。そんな彼女に対し、カレンは驚くほど平然としている。
「フレンチといっても、こちらは気軽に楽しめるお店なの。そこまで構えなくても大丈夫よ」
「カ、カジュアルゥ……!?」
――ここが!?どう背伸びしたらそんな感覚でいられるの!?
翠羽にとってこの店は、記念日か何かでようやく足を踏み入れるような場所という認識である。気軽に来るという発想自体がまず存在しない。
「あの私、手持ちがちょっと……」
「優待券があるから気にしないで」
「ゅっ……?」
――ゆうたいけんって何?
奢られることが確定した事実に加え、手伝いに対しては重すぎる返礼への引け目、さらには聞き慣れない単語の応酬に思考を乱され――翠羽はカレンに促されるままドリンクメニューを開いた。
――ルイボスティー六百円!?オレンジジュース七百円!?これ一杯の値段!?
脳内で価格が反芻されるたびに、じわじわと現実味が消えていく。ようやく我に返った翠羽は、逃げるように一番端を指さした。
「ぅ、ウーロン茶で」
それでも五百円である。だが最早それが安いという認識になりかけている自分が怖かった。
「緊張するなら個室に変える?」
「い、いえいえいえ!」
――むしろ無理……!密室とか余計に緊張する……!
さらりと提案され、翠羽は勢いよく首を振る。冷や汗をかきながらも、なんとかこの場の空気に慣れようと呼吸を整えていたその時。
「――こちらのお席へどうぞ」
仕切りの向こうで、椅子を引く音とともに新たな客が案内される気配がする。どうやら家族連れのようだ。
「このレストラン個室もあるんだ。そっちがよかったら言ってね」
「う、うん……」
「絶っ対やだ。個室だと父さんすぐ調子乗って酷いことになるから」
「!?」
その三人目の声が耳に届いた瞬間、カレンと翠羽はぴたりと動きを止めて顔を見合わせる。
――普段よりトーンが低くて抑揚も薄いけれど……。
――この声……熊本君!?
翠羽が思わず視線を向ける前に、カレンがすっと人差し指を唇に当てた。そして無言のままスマホを差し出す。表示されているのは、トークアプリ『RICH』のQRコードだった。
「……!」
数秒後、二人の会話は完全に無言へと移行する。
『隣は見ないで。会話は控えましょう』
『了解です。隣って本当に熊本君?誕生日だからですか?』
『おそらくね』
二人は緊迫した面持ちのまま、そっと意識を隣へ向ける。
「いっ君。本当にサプライズ頼まなくてよかったの?」
「正気?去年僕がどんだけ店員さんの気を逸らすのに苦労したと思ってんの」
吐き捨てるような声音に微かな疲れが混じる。糸哉の脳裏に浮かんだのは、できれば封じておきたかった光景だった。
確実に乱れている母の息遣いと、熱を帯びた頬。
周りの人間に悟られないよう必死に取り繕って耐える母と、それを愉しむように見つめる父。
音に紛れてもなお耳に残る、不快な振動音――だからこそ糸哉が要求したのは、人目のあるこの席だった。
――まぁ……ここでも父さんが大人しくなる保証はないけど。
今年こそは穏やかに食事を楽しみたいと思った矢先。
「……あ、首のここ。痕が薄くなってる」
「ちょ、んっ……」
「「…」」
仕切り越しに熊本夫妻の気配が変わる。姿は見えなくとも、何が起きているのかだけは嫌でも伝わってきた。カレンと翠羽はスマホを強く握り、慌ただしく指を走らせる。
『いま痕って言いました?』
『キス……よね?』
『だと思います』
『つかぬ事を聞くけれど、小椿さんのご家庭は外で』
『そんなことしません!家の中でも一回も見たことないです!』
『ウチもせいぜい頬までね』
『仲よし、ですね?熊本君のパパママ、、、』
『そうね』
――けれど、お母様は嫌々受け入れているように見えるわ……所謂ラブラブ夫婦という訳ではないのかしら。
それが仲が良いで済むのかはさておき。糸哉にとっては見慣れた光景だった。
妻である彼女も夫を愛しているが、人前で夢中になるほどではない。今もやんわりと距離を取ろうとしている。
――『母さんも嫌がってんだから外でそういうことすんのやめなよ』って言っても父さんは聞かないからな……今までずっと我慢してたけど、もういい加減……。
今日は『糸哉』が主役の日だ。彼はこれまで押し込めてきた望みを、初めて表に出すことを選ぶ。
「……母さん父さん。もう僕の誕生日にわざわざ三人で会うの、今年で終わりにしよう」
「え……!」
「…」
その一言は、確実に流れを断ち切る楔だった。気まずさを含んだ沈黙のあと、糸哉の母が遠慮がちに口を開く。
「なら来年からお、お家でお祝いするのはどう?お母さん、いっ君のためにガチョウ焼くから。パパにシュトレンもお願いして……」
「それほぼクリスマスだよ。ガチョウなんて食べたことないし……」
『天然?これは素で言っているのかしら』
『この状況でボケれるなんて……熊本君のお母さんヤバい!』
中学生三人からツッコミが入る中、糸哉は予定を確認する。
「来年も平日ど真ん中だし帰省は無理。再来年は進級試験で忙しいし趣味も忙しくなる予定だから余裕ない」
「でも」
「失礼いたします。本日の前菜でございます」
最初の料理が運ばれてくる音が重なり、張り詰めた空気に区切りを与える。カレンと翠羽はとりあえず食事を進めつつ、しっかり耳だけは隣へ向けていた。
「ねぇ、あなたからも何か言って」
「はい和花。あーん」
「……っ」
『『……ゴクリ』』
カレンと翠羽ははほぼ同時に目の前の冷製スープを一気に流し込んだ。熊本父の一言で、何が行われているかは十分すぎるほど伝わる。
「……あぁ、少し零れたね」
「ね、ねぇ……今日くらいは自分で――っ!?」
熊本母の言葉が不意に途切れ、吐息ごと奪われたような気配がする。
『え?????』
翠羽は顔を真っ赤にしたまま、震える手でスマホを打つ。
『これ熊本君、地獄じゃないですか?』
カレンも同意しようと視線を落としかけたその時。表示された次のメッセージに小さく目を見張る。
『でも、熊本君のパパママすごく仲良くて、、、なんかいいですね』
「…」
純粋な羨望。翠羽の目には一切の嫌悪も違和感もなく、ただ仲の良い家族として映っていた。カレンは小さく息を吐き、静かに頷く。
――この子はそう受け取るのね……。
カレンは両親だけでなく、糸哉にも目を配っていた。さきほどまでの自我が嘘のように、彼は無言で機械的に食事を続けている。父は妻だけを見つめ、糸哉とは未だ一言も言葉も交わしていない。
熊本夫妻の濃密なやり取りに気を取られ、翠羽はその不自然さにまだ気づいていないようだった。
――貴女はそれでいいわ。
カレンは余計なことは言わず、料理へと意識を戻した。




