第四十七話 河州衛
暮れては宿り明けては発ち、河州衛に着けば、警備の副提督や土地の僧が総出で出迎えに来た。
「よくぞここまでいらっしゃいました、玄奘三蔵一行様」
「さぁさ、どうぞこちらへ」
「お疲れでしょう。ここより近い場所と言えば、鞏州の町ですから大変でしたでしょう。お腹は減ってはいませんか? 今、皆様の斎を用意させています。それまでお休みになっていてください」
数人の僧侶を従えた住職が三蔵たちを寺へ案内する。玄関口には足の泥を落とすための桶や布巾がすでに用意されており、「使ったものはそのまま置いておいてください。あとで片付けますれば」と三蔵たちを休ませるためか挨拶もそこそこに彼らはすぐに去って行った。
宛がわれた部屋に辿り着くと三蔵は、そのままどべっと床に倒れ伏し心の底から安堵の溜息を吐き出した。
「お、おもてなしされなくてよかったぁぁぁぁぁ」
やすめる~~! と大の字になって天井を仰いだ。
長安を発って初めて宿泊した法雲寺では、五百名を超える僧侶を従えた住職に出迎えられ、もてなされるうちに日が暮れた。対応にどっと疲れながらも翌朝には寺を発つしかない。寺院に立ち寄る度に似たようなことが起こるのなら野宿の方がマシでないかと内心戦々恐々していたが、ここ福原寺ではそんなことはなかった。
「またあのようなことがあったら、私どもで対応すると言ったじゃないですか」
心配されなくて大丈夫ですよと紫釉が言えば、三蔵は仰向けからうつ伏せに寝転がり肘を付いて上体を起こした。
「もしかして先に手回しした?」
きらきらとした目で三蔵に見上げられ、紫釉は一拍、言葉に詰まった。三蔵はたまに紫釉と泰然を何でも出来る万能人間のように思っているところがある。
「三蔵様、僕たちのこと買い被り過ぎですよ。法雲寺で学んだので、同じことがあれば間に入ることくらいは引き受けられるという意味です」
泰然が笑って答えれば、三蔵は、そっかーと起こした上体をへたりと沈め、足をぱたぱたとさせた。
「唐を越えたら、さすがに僕たちも今まで通りとはいきません。あまり不便になることがないよう気を付けたいとは思っているんですが」
「いや、そこまで気を使わなくていいです、よ!」
三蔵は慌てて、オットセイのように腕をついてがばりと上体を起こした。
「あの時も私がもう疲れました眠たいですって言えばいい話といえば、いい話でしたし」
そうだ、自分で物を申せるのだから、物申せばよかった。紫釉や泰然に甘えるのが癖になっている。これはよくないと三蔵は、そのまま起き上がって正座した。
「この荷物ここに置いとけばいいですか? ……って、何やってんですか、三蔵様は」
荷物を運んでいて遅れて部屋に入ってきた劉全は、部屋の真ん中で一人無駄に正座している三蔵を見て片眉を上げた。いや、あの、と先ほどの三人のやりとりと三蔵自身の反省をたどたどしく聞かされると、劉全は若干呆れ気味に笑う。
「そうなんですね、がんばってください。で、それよりも、飯の前に旅の垢を落としませんか。用意してくれているみたいですよ」
「え、あっ、はい。そうですね、綺麗にしたいです」
「じゃあ、先にどうぞ。紫釉殿、三蔵様に付いていってあげてください」
流れるように劉全に促され、三蔵と紫釉は促されるまま部屋を出ていった。二人を見送って襖を閉めた劉全は、荷物を整理していた泰然を手伝う。
「三蔵様は、いい意味でも悪い意味でも真面目ですね」
「そこがいいところなんですよ」
劉全がふと笑った。
「少し紫釉殿と似ている」
「あ、劉全様もそう思いますか?」
「根が似ている感じがしますね。兄弟でも見ているようです」
劉全の言葉に、泰然は一度瞬きをし、それから、柔らかく目を細めた。
「そう見えたなら、紫釉も嬉しいと思いますよ」
「紫釉殿が?」
「意外ですか?」
堅物の紫釉が喜ぶということに驚く反応はよくあることだったので、泰然は思わず笑ったが、続く言葉にぴしりと固まった。
「ええ。だって紫釉殿は、三蔵様に懸想しているでしょう。兄弟のように見られるのはあまりいい気分ではないのでは?」
紫釉の名誉に賭けて言うが、彼が三蔵に対して変わった行動をしていたことはない。ぎくしゃくもしていなかったし、接し方にぎこちなさもなかった。
「えっと……」
付き合いの長い泰然からすると応援したい気持ちもあり複雑ではあったが、長安を発ってからの紫釉は、三蔵への思いにも整理を付けたらしいことが感じ取れたので、そっと見守るに留めていた。
のだが。
「そう見えましたか…?」
一緒にいすぎるからこそ分からなくなることもある。泰然は恐る恐る聞いた。
「泰然殿にはそう見えませんでしたか」
「……整理を付けたように見受けられました、かね」
当人のいないところであまり踏み込んだ話をするのもなと思いながら、泰然は慎重に答えた。わずか間を置いて劉全が「ああー、なるほど?」と腑に落ちる溜息とともに納得を吐き出した。
「そうか、そうだったのなら、俺の早合点です」
今ではなく、思っていた時期があったというのなら、よりそちらの方が納得がいった。
紫釉の三蔵に対する接し方は、敬愛にしては慈しみすぎており、慈愛にしては温度が高い。だが、恋慕とするには私欲がなかった。
「すみません。あまり詮索はしないようにとは思っていたのですが……」
「劉全様は人の機微に敏くていらっしゃるんですね」
「ああ、いや、色恋沙汰は長旅で一番面倒な問題なので把握だけはしておきたくて」
男だけの旅なのだから無縁だと思っていた。己に類が及ばないのなら好きにしてくれていいのだが。それにしても、と劉全がぽつりとこぼす。
「一時でも三蔵様に懸想できるなんて、紫釉殿は豪胆な方ですね」
こぼす相手が相手であったなら失言と取られる紙一重な言葉に、泰然は目を瞬かせた。
「というと?」
「世界を異にする存在に、俗世人へと同じ感情を向けるのは畏れ多くはないですか」
言ってから、はと口を噤んで劉全は気まずそうに付け足す。
「批判しているわけではなく」
「いえ、言いたいことは分かるつもりです」
泰然もどちらかといえば劉全と同じ側に立っている。初めからそういう対象として己の中に存在し得ない。
「でも、そうですね」
けれど、泰然は思う。
「三蔵様は自らそうなりたかったわけではありませんでした」
紫釉と泰然、そして神仏もそれを知っている。
「畏れ多い存在ではないと感じてくれる人がいるということは、三蔵様の助けになるだろうと見越して引き合わされたように思います」
紫釉がいたことは、三蔵にとって僥倖だったことだろう。その僥倖こそが導きでもあると泰然は当然と思う。抗えない。抗う気も泰然にはなかった。委ねた先にあるものこそが答えとなる。
「ふぅん、そういうものですか。俺にはよく分からないことです」
顎を撫でながら劉全が首を傾げる。
「まぁ、でも、これを言うと、どの口が畏れ多いだなんて言うんだという話になるんですが」
気まずそうに頬を掻いて、劉全は苦笑した。
「三蔵様が玉瑛様のことを母のようだと言うのを聞くまでは、俺は三蔵様にささやかながら嫉妬心を抱いていたんですよ」
「えっ」
「長安で、玉瑛様が年の近い少年と親しくしていると聞かされていた俺の身にもなってみてください」
劉全は、言葉を切って悩ましげに溜息を吐いた。
「玄奘三蔵がそういう存在ではないと分かっていても、割り切れるかは別問題ですから。でも、三蔵様は玉瑛様ほどの方を『母』と例えた」
だから劉全は思ったのだ。それ以前の問題だったのだと。彼の人は稚いのだと。
「そういう意味でも紫釉殿はよく三蔵様を好きになれたなと」
三蔵様に必要であったのなら、そういうものなのかもしれませんがと劉全が付け足す。
「…………」
泰然はいろんな意味で答えに窮した。
そもそも紫釉は、三蔵を好きになろうと思ってなったわけでは当然ない。出会いからの今までが積み重なっての今なのだ。けれど、劉全の言っていることはなかなか紫釉に対しての当たりが強い。紫釉の名誉のためにもここは泰然が誤解を解かねばなるまい。いや、しかしこの場合、三蔵が男であっても女であっても、紫釉への当たりの強さは変わらないのではないか?
「あの、えーと、三蔵様は、その、そもそも少年ではないので……」
思わず泰然は、あのときの三蔵と似たような答え方をしてしまった。劉全の反応は言わずもがなである。
普通なら三蔵自身が思い悩まなくてはならないことで、代わりに泰然が思い悩むはめになっていた頃、沐浴のために紫釉と廊下を歩く三蔵は上機嫌だった。
「ここに早めに来れてよかったね。明日の朝までのんびりできそう」
「そうですね」
「ご飯なにでるかな」
「今の季節ならば芋粥でしょうね」
「前のとこでも出たよね。お寺ではスタンダードなの?」
「次の秋までもう食べなくてもいいかと思うほどには」
いいか悪いか分からなくなる言い回しだ。
「うーん、芋粥おいしいから悪くないかも」
「前向きでけっこうなことです」
己の思いが三蔵以外には筒抜けになっているとは夢にも思わず、己の性別がまたも波紋を呼んでいるとは露とも知らず、二人は、それこそ兄妹のようにまったりと並んで歩いた。




