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西遊異譚  作者: こいどり らく
第三章
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第四十六話 劉全

 唐と韃靼(だったん)の地の境にある瑞々しい山々の間に、兀山(こつざん)がひとつ幽棲していた。峰は青空を貫き、どの山よりも険しい。その山だけが周囲とまるで馴染んでいない。

「あの岩山が、両界山(りょうかいざん)といいます。唐と韃靼を別つ山です」

 これから進む道を指し示し、劉全(りゅうぜん)が説明してくれる。

 三蔵一行の一員として加わった劉全は、僧姿の三人の中にいるとよく目立った。紫釉(しゆ)より頭ひとつ分ほど大きく、よく日に焼けた体は泰然(たいらん)よりもがっしりとしている。前髪を余らせることなく後ろで一つに括る様は、いかにも武人といった風体だが、武人でありながら荒々しい言動がほとんどなかった。物腰穏やかで、すぐに旅の仲間として馴染んだ。さすが長安皇帝の人選と言うべきだろうか。

「ひとまずはあの山を目指しましょうか。三蔵様が仰っていた『五行山(ごぎょうざん)』という山の特徴とも一致しますし、きっと長い年月を経て人の世では呼び名が変わったのでしょう」

 およそ五百年前、釈迦如来は世界の歪みに囚われる直前に無秩序の権化の如き妖魔を『五行山』という岩山をその地に置いて封じたと、三蔵は観世音菩薩から聞いていた。金山寺から旅立つ前、寝起きの観世音菩薩が欠伸をしながら話していたことを、この景色を見て思い出したのだ。

『人間だけで西方天竺国に行くのはさすがに厳しかろうな。途中にある五行山で岩猿を従者とするがよい』

 五百年の歳月を経て改心しているはずだと観世音菩薩は半分眠りながら、むにゃむにゃ言っていた。ほぼ寝言だったので、さほど重要な事とも思えず、突然の異世界でいっぱいいっぱいだった三蔵は今の今まですっかり忘れていた。

 だが、遠目から見ても目立つ釈迦如来の置き土産は、半分聞き流していた話でも見てすぐにそれだと分かった。

(元はなかったはずのところに置かれた山、かぁ……)

 彼女が兀山を振り仰いだとき、頂を隠す雲に近き霧が晴れ、幾筋かの陽光が山頂を包み込んだ。そこに、かつての釈迦の御手を見た気がして、三蔵はため息を吐いた。

 人は、地形を変えるために山を崩すことはできる。けれど、地形を変えるほどの山を築くことはできはしまい。あるはずのなかった場所に置かれた岩山は、それこそ釈迦の御業と言えた。

「あの山が見えたということは、今日明日には河州衛に着けるでしょう」

 河州衛(かしゅうえい)は大唐国国境にあたる。太宗の声が届く場所であるから、休むのにも苦労しない。

「劉全様がいてくれて本当によかったぁ」

 ここまで三蔵とともに旅をしてきた紫釉と泰然だが、長安から先の道は、彼らもとんと明るくなかった。地図は読めはするから、それを頼りに進む予定ではあった。しかし、地図を見た劉全が当初通ろうと思っていた道を指して、ここは盗賊が出るから長安でも警戒に当たっているだとか、この道は虎が出たと報告があっただとか、それはもう頼りになった。三蔵たちは戦う手を持たない。ならば、できうる限り安全な道を選んで通っていくしか三蔵を守る術はない。それでもどうにもならないことがあるのは、長安までの道のりで身に染みていた。

「本当に劉全様がいて助かりました。私どもだけでしたら、こうも何もごともなく河州衛まで来られなかったでしょう」

「そんなことはないでしょう」

 二人の言葉に、劉全が軽く驚いた。

「業竜の一件はどうにもならないものだったとしても、金山寺から長安まで虎や賊が出なかったわけではありますまい」

 それでもここまで三蔵を守り通して来たのだから、紫釉と泰然は大したものだと劉全は思っていた。

「えっ、虎や盗賊ってそんな簡単に出るものなんですか?」

 三人の話を聞いていた三蔵が思わずといった風に口を挟んだ。

「簡単に出るというか、いないわけがないというか……」

 金山寺から長安への道は比較的穏やかと聞くが、出くわさないということはないだろう。かなり慎重に周囲の状況を見極めながら進んだとて、息を潜める場面は少なからずあったはずだ。

「?」

 三蔵が首を傾げている。心当たりがないのだ。獣の気配は感じたし、恐ろしく心細かったのは確かだが、身の危険を感じたのは竜の首が降ってきた時くらいのものだった。

 劉全は思わず紫釉と泰然の方を見る。

 泰然はごく自然に合掌すると「僕たちは観世音菩薩様の導を辿ってここまで来られたようなものなので」と言って困ったように微笑んだ。

「それは、神仏のお導きってやつですか?」

 玄奘三蔵は観世音菩薩に導かれて救世の旅をしている。ならば、自然と回避された危機もあることだろう。劉全が言えば、三蔵は渋柿でも囓ったかのような顔をした。

「……三蔵様、顔がすごいことになってますが」

「私は生まれたばかりの赤ちゃんなので納得がいかないことが多いんです」

 この異世界に落ちてまだ二ヶ月くらいしか経っていないはずだ。

「今の話で何がそんなに納得いかなかったんですか」

 三蔵の素直さに、劉全が思わず笑いながら聞く。

「別に、観世音菩薩さんの導き? 的なのを信じてないわけじゃないけど、私がここまで来れたのは、紫釉さんと泰然さんのおかげなので」

 心からそう思っていた。三蔵の中で観世音菩薩というのは、西へ進むしかなくなった原因でしかない。助けてくれると思っていたが、長安の事件を経て、直接的な何かを期待するものではなくなった。漠然と害意を為す存在ではないと思ってはいる。ただそれだけだ。紫釉と泰然が労力を掛けて三蔵を守り、導いてくれた今までを、観世音菩薩の導だと謙遜するなら、三蔵にとっての神仏の導きというのは彼らそのもののことだった。

「ははぁ、なるほど。それは確かにそうでしょうな」

 劉全は微笑ましそうに目を細めた。

「しかし、三蔵様たちはここまで来るのに、盗賊や虎に遭遇することがなかったのでしょう?」

「……うん」

 三蔵自身は話は聞いていたものの、虎や盗賊が出ない日常が普通だったので、危険のない旅が続く中で気に掛けることすら忘れてしまっていたが、紫釉も泰然も不自然なほど出くわさないことを訝しんでいた。否、出くわす前に回避できることが多すぎることに顔を見合わせていた。普通なら人とすれ違うことも珍しい道で、先を急ぐ旅人と出くわし忠告を貰ったり、通ろうと思っていた箇所が倒木で塞がれており、迂回をしたところで小さな集落に一晩の宿を請えば、そこは先日虎が出て食われた人間がいる。通れなくなっていたなら運が良かったと言われたり、ということが幾重にも重なっていた。紫釉と泰然の周囲を警戒する目が優秀であることは確かだったが、それだけでは回避しきれない危険を彼らは覚悟していたし、それに対処する準備もしていた。それでも、危険に息を潜めなければいけなかった場面は三本の指に収まる程度であり、まして逃げ出さなければいけない状況に追い込まれることはなかった。

 それがどれほどの奇跡か三蔵が理解できないくらいには、長閑な旅だった。

「ならば、紫釉殿や泰然殿が細心の注意を払って三蔵様を守られていたことはれっきとした事実として、それとは別に神仏の加護もあったのだろうと俺は思いますよ」

「…………」

 そうなのかな、と三蔵は、紫釉と泰然を見る。紫釉は軽く咳払いをしてそっぽを向き、泰然はいつもよりも増してにこにことしていた。

「なんですか、その笑顔は」

「孫を持つお祖父ちゃんの気持ちってこんな感じなんだと思って」

「泰然さん、十八歳でしょ!」

 今の会話でどこからそんな気分を味わったのか。

「そうですよ。泰然殿なら、弟を持つ兄の気持ちの方が近いでしょうに」

「そういう問題じゃなくてですね」

 三蔵は溜息を吐いた。

「神仏の加護があったとしても、泰然殿や紫釉殿の苦労をなかったことにされたくないと拗ねられれば、そりゃ嬉しくもなるでしょう」

「そっ……!」

 そういう意味で言ったのは確かだが、そうはっきりと言われると照れの方が勝ってくる。

(なんか、私が空気読まずにいいこと言ったみたいじゃん!)

 一人ぐぬぬと悶えている三蔵を、他三人は遠巻きにほのぼのと見守った。

「しかし、そういうことでしたら、俺の護衛などオマケのようなものですね」

 苦笑する劉全に、紫釉が、いいえ、と首を横に振る。

「そのようなことは決してないです。西へと近づくにつれ、加護は弱まります。私どもだけではどうにもならないことが多くなるでしょう。劉全様がいてくださるのは心強い」

「それこそ、どこまでお役に立てるか分かりませんが、三蔵様が無事に西方へと辿り着けるよう尽力致しましょう」

 空のように晴れ渡る笑顔で劉全は請け負った。

「玉瑛様からも三蔵様をよろしくと申し付けられておりますゆえ」

「玉瑛さん、またそんなお母さんみたいなことを」

 長安城で三蔵が紫釉たちを待っていたとき、玉瑛はよく三蔵を気遣い、茶に誘ってくれた。夏瀾も一緒のことが多かったので、あれを女子会と言っていいのか分からないが、二人でよく笑い合った。三蔵の旅の間の話を聞くと、栄養のあるものをやたら食べさせようとし、紫釉と泰然と再会できたとき三蔵はこの世界に来てから一番健康的になっていたくらいだ。唐突に二人がいなくなって、長安に取り残されても心細さで塞ぎ込まないでいられたのは、玉瑛の励ましがあったからだ。

「母君のようですか」

 おそよ玉瑛から遠いと思われる単語に、劉全が目を瞬かせた。

「えっと、長安にいたとき、やたらご飯の心配してくれたから、それで」

 思い出して笑う三蔵に、劉全の笑みがやわらかく滲んだ。

「そうなのですか。楽しく過ごされたのですね」

「うん」

「……もう会えないとなると寂しくなりますね」

 言われて三蔵は、進んでいた道を振り返った。初秋の風が吹き抜けて去って行く。

「そう、ですね……」

 玉瑛がたとえ生きていても、もう会うことがないのだと思った。河州衛まで来た今、三蔵が意思を持って戻ろうとしなければ、今まで会った人々とは会うことはきっとない。あるとすれば、三蔵が元の世界に戻ることを諦め、西へ行くことを止めたときだろう。

 三蔵にとってはそういう世界だった。

 離れがたいとは思わない。でも、寂しさは胸に積もった。

「そういえば、劉全さんは長安に戻ったら、玉瑛さんや太宗さんたちと会えるんですよね」

 もちろん、泰然さんや紫釉さんも、と三蔵が聞けば、三人は顔を見合わせた。

「いえ、僕と紫釉は会えませんよ」

 恐れ多い。身分が違いすぎる。

「俺も顔を合わせて頂けることはないと思いますね」

 三蔵が「!?」と目を見開けば、泰然が苦笑する。

「そもそも僕らはあの方達と会ってはいませんから」

 皇帝が化生寺にいたという事実がなかったことになっている。業竜の夢は、太宗や夏瀾、三蔵にとっては現のままであるものだったが、それ以外の人間にとっては夢となった。泰然の不敬もなかったことになったのは不幸中の幸いだった。

「そっか、そうなんだ」

 玉瑛のことをすっかり友人のように思っていたから、会おうと思えば会える人だと思ってしまっていたが、そもそも簡単に会える人ではないのだった。

「劉全さんも会えないのは意外です」

「俺は玉瑛様がいなければ、皇帝や夏瀾様と会えるような立場ではありませんので」

 太宗の提案ということになっていたが、劉全を旅の従者にと推したのは玉瑛である。

「劉全さんと玉瑛さんってどういう繋がりなんですか? 護衛とか?」

「言っていませんでしたか? 婚約者です」

「えっ」

 三蔵のみならず、紫釉と泰然までもが、あんぐりと口を開けた。

「婚っ約……!」

 三蔵は婚約者という事実に驚いたが、紫釉と泰然は、この青年が皇帝の妹と婚約できるほどの立場であることに慄いた。考えてみれば、玄奘三蔵の従者に選ばれるくらいである。普通であるはずがなかった。

「俺自身は運がよかっただけで、そう大それた立場の者ではないんですよ」

 紫釉と泰然の慄きを感じ取った劉全が、宥めるように言う。

「正確に言えば、候補者の一人ってだけですし」

「今も?」

「今はいろいろあって、俺だけが婚約者に残りました」

 それはもう誇らしげに劉全が笑みを湛えた。

「そ、え、それでなんで私の旅に?」

 実質夫に選ばれたと言っているようなものではないか。

「玉瑛様たっての望みでしたので」

「なんで!?」

 劉全を旅に出さなければすぐに結婚できるのに、なぜそんな試練染みたことを。三蔵には全く理解出来なかった。

「結婚はしないと言われてしまいまして」

「ど、どういうこと!?」

「さぁ、どういうことでしょうね」

 劉全はただ笑みを深めた。死人の夫になることを玉瑛は許さなかった。

「ただ、貴方と旅をする間は、玉瑛様の婚約者であり続けることを許してくださった」

 四十九日が終わっても。だから、劉全はここにいる。

「ぜんぜん分かんない。旅が終わったら結婚してくれるってこと?」

「そうですね。神仏の元までいけたなら、あるいは」

 劉全は三蔵に、玉瑛の死を知って欲しいわけではなかった。玉瑛が生きていると嘘偽りなく信じている三蔵が話す、まるで今も生きてるように語られる玉瑛を劉全は聞いていたかった。

「さ、雑談もここまでにしておきましょう。今日中にあの道まで出たいですからね」

 促されれば、三蔵は素直に口を閉じた。そして考える。

(それって私がちゃんと天竺まで行けたら、玉瑛さんも劉全さんも幸せになれるってことかな)

 どうせ行かなければいけないなら、そうであったらいいなと三蔵は、空に浮かぶ雲を見上げながら思った。

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― 新着の感想 ―
劉全が思ってたより大人なおにーさんで良きですね!! 戦闘力も高そうで心強い! それにしたって婚約者ですよ…こっちが泣くわ… 穏やかな笑顔取り戻すのにどれだけ… それはそれとしまして弟発言でまたまた性…
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