事案第二十八号「総和百八十度」(4)
スーパー銭湯の貧弱なドライヤーでは、わたしの長い髪など到底乾かしきれない。
だからサ飯代わりにソフトクリームを所望された輝美さんを説得して、家に連れ帰った。
時間がかかる自分のドライを後回しにして、輝美さんの髪をまず乾かしてあげる。
「いいなあ」
ぽつりと、輝美さんは呟いた。
「あいつの部屋、ドライヤーがなくってさ。えっちしたあとにシャワー借りて、無いって知ったときは驚いたよ」
「未成年になんてこと語り出してるんですか」
「あ、ごめん。配慮が足りなかったね」
鏡の向こう、にししと笑う顔は、白瀬先パイよりも幼く見える。眼鏡の有無とか、表情の作り方なのかな。
「まあ、ねえ。自然乾燥だとすごい時間かかるから、乾くまで居座ってやるって脅してさ。そのまま押し倒されて……」
「輝美さん?」
「ああ、ごめんごめん。他の女の話なんて、デリカシーに欠けた」
そういうことじゃないんだけどなあ、なんて思いながら、ドライヤーは冷風に切り替える。ちょっと頭を冷やしてほしい。
ばさばさと暴れる、毛先が鮮烈な赤い髪。
夜空に揺らめく篝火のようで、輝美さんの胸に煤をこびり付かせているみたいに見えた。
ひととおり乾かしたところで、コーヒーを出す。豆から挽く、いいやつだ。
「いっちゃんって、コーヒー淹れるのも上手なのね。喫茶店みたい」
「父がこだわってまして。紅茶の道具も一式あるんですけど、茶葉が切れてて」
「すごくおいしい。ありがとう」
微笑む輝美さんに、適当に雑誌を渡す。
その間に、自分の髪を乾かさなければ。ある程度やったら、髪には悪いけど切り上げよう。
なんて思っていながら、一時間も輝美さんを放置してしまった。
だってしょうがないじゃないか、なんて言い訳でしかないけれども、やっぱり母さんから叩き込まれた一連のルーティンがこなせないと気持ち悪いんだ。
けれども、まずいまずいと急いでみれば、輝美さんは誰かと電話中だった。
「そうは言ったって、信用の問題じゃん! えっ。そんなこと言うの……信じらんない!」
かなり激高して居られる。
あれだけ美味しいと喜んでくれていたコーヒーも、半分も残っている。
かなり荒れている様子だ。
「浮気くらい!? 浮気って認めたね、菊良!」
おお、名前が出てきた。きくらさんっていうのか。名字でも名前でも、個性的だ。
荒ぶる輝美さんの近くにコーヒーがあるのは危険だから、そっと下げてしまう。
『あたしだってさみしかったんだからっ』
電話の向こうの声が割れに割れた状態で聞こえてきた。
お腹から声が出ていそうで、よく通る声。宇和さんみたいだな、なんて思った。
まさか同一人物なわけはないし、きっと他人のそら似なんだろう。
……よもや、お姉さんとかだったら、笑えるんだか笑えないんだか。
「寂しかったら他の女に股開いていいっていうの? じゃあ、私だって――はあ? そもそも付き合ってるつもりない? マジ最低だね!」
激昂という言葉が相応しいほどの輝美さんの怒気を聞いているのもよろしくない。ちょっと怖い。
どうしようかなあ……リビングや隣の部屋にいると巻き添えを食いそうだし、かといって部屋に籠もっちゃうのも間違いだろう。
輝美さんのことを癒やすためなら道化にでもなる、なんて思ってたけど。これはなかなか大変なことが起きている気がする。
とりあえず。
白瀬先パイとりりちゃんにメールしておくことにした。
――輝美さんが、我が家にて彼女さんと痴話喧嘩中です。
『まずなんで姉ちゃんが綾街の家にいるの? なんでそんなことになってるの』
――美容室で偶然会って、お昼ご飯をごちそうしてもらって、一緒に銭湯に行きました。
『は? うらやましいんだけど』
『lol』
――どうしましょう。
『迎えに行きたいけど、私たちかあちゃんの買い物に付き合ってるんだよね』
『てるみ のれない』
さて、当てにしていた戦力は当てにならないことが判明した。
かといって、他に頼りになるひともいないし。
……まさか、宇和さんに連絡してみる?
それでもし相手が宇和さんの縁者だったとしたらどうしたらいいのかわからないし、違ったら違ったで何があったんだと勘ぐられるのも面倒だ。
ただでさえ、不純異性交遊疑惑の件で、宇和さんの噂話のネタにされそうだっていうのに。
じゃあ。
――年末の忙しいところで、連絡して申し訳ありません。クラスメートの綾街です。
送ったメールに、一分も経たずに返信が来た。
『かしこまっててあやまちさんらしい。クラスメートのささめだよ』
笹芽さんからのレスポンスだ。
『もし通話したいとかだったら、普段なら歓迎だけど』
『いま、ちょっと修羅場で』
――お忙しいところ、申し訳ないです。
『大丈夫。早月のお姉さんが電話で喧嘩してるだけだから』
……おやおや。
ひょっとして、ひょっとするのかもしれない。
――ご存じでしたら、お姉さんのお名前を伺いたいんです。
『たしか、きくらさん。早月に聞いてみる?』
――いえ、結構です。ご協力ありがとうございます。このことは宇和さんにはご内密に。
不味いことになった。
白瀬先パイのお姉さんである輝美さんと、宇和さんのお姉さんであるきくらさんが、浮気したしないで修羅場になるとは。
とんでもない年末になってしまった……。
◆
通話を終えた輝美さんに、淹れなおしたコーヒーを出すと、か細く枯れた声で「ありがと……」と呟いた。
「……疲れたよ、いっちゃん。お姉さんの抱き枕にならない?」
「いやですけど、とりあえず暖まってください」
けち、なんて言いながら、輝美さんはコーヒーに口を付ける。その様子を見てから、黒糖のポーションを溶かしてわたしも一口。
ちょっと癖のある、だけど甘いコーヒーだ。
「黒糖って、ブラックコーヒーに合うの?」
「うーん。コーヒー自体の良さは消えちゃうかもしれませんね」
「それなのに、入れるんだ?」
「ブラックの苦いのって、わたし、まだ苦手かもなんです」
「あははっ。お子様舌なんだね。かわいい」
む、ちょっと失礼なことを言われた気がする。
本当に子ども舌だったら、ミルクをたっぷり角砂糖ドバドバ、が正解なんじゃないだろうか。
「飲んでみますか? そんなにお子様向けな味じゃ無いと思います」
マグカップを差し出すと、輝美さんは躊躇無く飲んで、ふむ、とひとつ唸った。
「確かに。苦みの質が変わった気がする」
そして、「あっ」と声を上げて。
ちょっと、ニヒルに微笑んだ。
「間接キス、しちゃったね」
「そうですね」
輝美さんの手からマグカップを返してもらって、あえて、同じ飲み口で啜った。
「えっ」
「ふふっ。お互いに、キスしちゃった」
カップを置き、口元を手で隠してみせる。そして、目を細めて、輝美さんの口唇を見つめる。
「こんなのでわたしが照れると、思ったんですか?」
めっちゃくちゃ照れくさいし、ドキドキがすごいのはカフェインのせいじゃないけど、輝美さんには伝わらないだろう。
「ぐぬぬ……いっちゃんが照れてるところが見たいなあ……」
「どうでしょうね。わたしも普通に照れるし、ドギマギする性質だとは思いますけど。よく目撃されているのは、白瀬先パイじゃないでしょうか」
「しーちゃんが? いいなあ。ねえ、やっぱり私って、しーちゃんに似てるよね? 顔、一緒だよね?」
ぐいと身を乗り出してくる輝美さん。
本当に、眼鏡がなくて、髪の毛先にカラーを入れていて、大正ロマンとかけ離れた大人っぽい服装をしている白瀬先パイだ、って聞いたら、信じてしまいそうな顔立ち。
だからこそ、全然違う人なんだけど。
「コーヒーで落ち着いたんだったらいいんですけど、カフェインで興奮して見境なく誘惑しようとしているなら、叩き出しますよ」
「おっと。それはもったいない」
けらけらと笑って、輝美さんは自分の分のブラックコーヒーを飲み始めた。
くぴくぴとハイペースで、しかし、一口は小さく。
そして半分ほどを飲んで、細く緩やかな吐息をした。
「いっちゃん。本当に、しーちゃんと両思いだったら、早めに付き合おうって契約したほうがいいよ」
「そうですか。今の電話は、はっきりと言葉にしなかった関係が、後悔に繋がっているということでしょうか」
ぐ、と言葉を飲んだ。
「……言葉を選ぶと、だね。少なくとも、身体を触らせるのは、付き合ってからにしたほうがいいね。ずるずると流されてその先まで、ってなっちゃいそうだし」
「そんなに身持ちが軽い女に見えますか?」
「ううん。しーちゃんが」
小さく首を振った。毛先の赤が、はらはらと揺れる。
「私としーちゃんは、きっと女の子の好みが一緒だと思うんだ。しーちゃんが小学生の頃に初めて見たドラマの女優さんが、私の好みのど真ん中でさ。ふたりしてきゃいきゃい楽しく見て、グッズを買って、取り合いになったりして」
「微笑ましいですね」
「そうなの。微笑ましいよね……その女優さんの昔出したヘアヌード写真集とかも買ったよ。そしたらしーちゃん、こっそり読んでてさ」
小学生が、女優さんのそういった写真を見ていたというのは、なかなか衝撃だ。
「ちなみにその女優さん、愛嬌がある顔で、黒いロングヘアが素敵で、知的そうな人だったよ」
に、と笑ってこっちを見る輝美さんが言おうとしているのは、その特徴がわたしに似ているということだろう。
けれども残念ながら、ヘアヌードを出版できるような型とわたしでは、月とすっぽんほどの需要の差があることだろう。
……この例えだと、食べられるすっぽんを選ぶ人もいるだろうか。不適切だ。
まあ、そうね。
周囲から見て、わたしは見た目がよいのだろうことは認める。そうじゃなければ、クラスメートに孤高の撫子なんて呼ばれて孤立しないし、大人っぽくて綺麗なりりちゃんと白黒コンビみたいに並べられないだろうから。
それでもわたしは、髪が長くて黒い、背が低くて華奢なちんちくりんだという事実は変わらない。
「さっきの話ですけど。そんな女優さんを気に入る白瀬先パイが、わたしの身体に触りたくなると思いますか?」
「なると思うよ。好きな人だもん」
「輝美さんは?」
「あははっ! それを言ったら、いっちゃん引くじゃん!」
言ってるようなものではないだろうか。
そっと己が身体を抱いて、身体を見られないように身を捩っておく。
「警戒しないでよお」
「……輝美さんは今、失恋のショックで頭がおかしくなってるんだってことにしておきますね」
「あっ。そうだった。これ、失恋にカウントしていいのかな。ねえ慰めてよいっちゃん~」
しつこいなあ。
おちゃらけて言ってるようにも見えるけれども、相手がその気じゃないのに言い寄るのは、セクハラっていうんじゃないの?
「いいですか、輝美さん」
「はい」
「わたしのことを気に入っていただいたのは、人としてすごくうれしいし、名誉なことだと思います。けれども、蓬莱の玉の枝や竜の首の玉とまでは言いません、七つの星をあしらった宝剣を捧げるくらいの覚悟は、輝美さんにありますか?
む? と輝美さんは首を傾げた。
わかりにくい例えだっただろうか。
「悪逆非道を働く暴君を取り除かんと、家宝の剣を託したり、我が娘を傾国の美女として暴君の下に遣わしたり、なんていう覚悟があるのかと聞いているのです」
「うーん」
輝美さんは腕を組み、考え込んでしまった。
それでいい。冷静になってくれたら。
「いっちゃん。そんな剣があったとしたら、私は千本目だとして刀狩りをするだろうね」
「持っているのがわたしなら、八艘飛びでいなすでしょうけど」
「相手の頭が良いのが泣きどころだなあ」
苦笑。
そして、コーヒーを飲み、ほっと一息をつく輝美さん。
「まあ、今はいいか。だけどいっちゃん、覚えておいて。私、失恋のショックで変なことを言ってるだけじゃないからって」
真剣に言う輝美さんは、コーヒーカップを両手で包みながら、言う。
「好きだよ、いっちゃん」
「……はあ。そうですか。間に合ってます」
びっっっくりした!
今、言うの!
動揺を悟られないように、コーヒーを飲む。
黒糖の甘苦さが、口の中に残る。
「くっそう。しーちゃんが強すぎる……負けていらんないなあ」
頭をがしがしと掻いて悔しがる輝美さんの顔が、本当に白瀬先パイに似ていて、絆されそうにならないように気をつけなきゃいけないなって、思った。
◆
そろそろ夕食の時間だからと、輝美さんは帰り支度を始めた。
「この間のお礼も兼ねて、手料理をごちそうしますよ?」
そう提案したら、
「胃袋まで捕まれちゃったらさあ、後戻りできないじゃん。家事炊事完璧なクール美少女なんて、私を落とそうとしないでよ」
にひひ、と笑って車に飛び乗り、輝美さんはあっという間に去って行った。
嵐みたいな一日だった。
押しの強いところとか、パーソナルスペースの狭さとか相手への踏み込み方とか、さすが、姉妹だと思う。
それにしたって。
付き合うという契約、かあ。
その約束を交わしたことで、こじれかけた関係が修復して強固になった宇和さんと笹芽さん。
その約束を交わさなかったことで、関係がこじれて壊れた輝美さんと宇和さんのお姉さん。
わたしと、白瀬先パイは?
共同正犯と、白瀬先パイは言ってくれた。
確かにそうだと思う。一蓮托生の相手だとして隣にいさせてくれて、キスしてくれて、キスしても許してくれて、わたしのことを守ってくれて、わたしも白瀬先パイを守ろうと思っていて。
――この関係に、正しい名前を付けることは、誰の望みなのか。
吐息する。
すっかりと藍色になった空に溶けた白い吐息は、街灯の明かりをキラキラと受けて消えた。




