事案第二十八号「総和百八十度」(1)
年の瀬はなかなかに忙しくて、課題をやる時間を捻出するのもやっと。
クリスマス以降、白瀬先パイとはぽつぽつとメッセージのやりとりが続いているけれども、年内に会おうというのは、なんだか実現しなさそうな感じだった。
十二月二十八日。
御用納めということで、父さんも忘年会で遅くなるということだった。いや、毎日仕事で遅くなるんだけど。
白瀬先パイのお父様とは、明日、朝日駅の焼鳥屋で顔を合わせるらしい。娘ふたりを伴わずに、男同士でとのこと。
一体何を話すつもりなのかわたしには想像も付かないけれども、先パイに届いていたメッセージ的には、どうやらわたしと白瀬先パイの関係について話をしたいんだろうなって。
……まあ、共通の話題としても、お互いの娘のことをとっかかりにしなきゃならないんだろうし。
そんなことを思いながら窓硝子を磨いている。キッチンの換気扇は父さんに外して貰わないと届かないから、ひとりでできるところを……脚立って便利だなあ。
部屋の中は暖かく、自分は身軽な格好で。
お気楽で、やりがいのあるお掃除は楽しい。
三人家族で暮らすのにも広い、5LDKの家。本当はあとふたりは、弟か妹がいたはずの予定だったとか。わたしが生まれる前に建てるからこんなに部屋が多いんだよね。
まったく、両親の計画性と、窺い知れる資産には呆れる。庶民的じゃないことはよーくわかる。
普段使っていない一室は、防音室仕様になっている。これもすごいことだ。
ひんやりとした空気。
狭い空間に置かれた電子ピアノと、オレンジのギターアンプ。木目のきれいなFenderのギターには、解散してしまったロックバンドのストラップ。
ギターを手に取り、ストラップに肩を掛ける。ずしっとした重みがある。アンプには繋がずに爪弾いてみると、意外や意外、チューニングがずれていない。ひょっとしたら、父さんが弾いているのかも。
簡単なコードで一節弾いてみた。すぐに左手の指先が真っ赤になる。弦が食い込んだ痛み。
すぐギターを戻して、ピアノの前に座る。
スイッチを入れて、小学生の頃に死ぬ気で練習した発表会の課題曲を奏でる。王子様に出会った白鳥のシーンらしい。
簡単アレンジとはいえ、三年のブランクがあっても結構弾けた。
ピアノ自体が半年ぶり。音を奏でるのは楽しくはあるけど、やっぱり人前で演奏するのは好きになれないな。
サボリを終えて、簡単に埃を掃除した。
ふと、時計を見るとそろそろお昼になる時間。
予約を入れていたことを思い出したので、さっと着替えて家を出る。
キリッと冷えた空気。
広がる青空。うっすらと浮いた汗が、肌を一気に冷やす。心地よさすら感じる。
そんな寒空の中、向かったのは、美容室だ。
腰まで届くロングヘアを維持するのは面倒が多い。日々のケアもそうだけど、定期的に美容室に通って、たまにトリートメントしてもらって……なんて、髪は女の命だと幼い頃から母に叩き込まれたせいで、そうしなきゃいけないという信仰心みたいな強迫観念みたいな、そんな気持ち。
おかげで、小学生の頃には髪が綺麗な子と誉められたし、里奈ちゃんや礼ちゃんにも「いっちゃんの髪がうらやましい」と言ってもらえていた。
……白瀬先パイにも、きっと気に入ってもらってる。
そんなわけで、例え冬休みに入ったから髪を染めてみるなんてことは考えず、むしろ年の瀬、一年の垢を落とすという意味でも、トリートメントしてもらうんだ。
大丈夫。成金な母が、髪にはいくらでもお金をかけていいと言ってくれているから。
北藍駅のすぐ近くにある美容室は、この地に引っ越してきてからずっと通っている個人経営のお店。
店長さんが母と顔見知りらしく、ひょっとしたらユリギノ女学院のOGかも? 聞いたことはないけど。
どこにでもあるような雑居ビルの一階、黒くシックな外装。オーク材っぽい扉を開けると、薬品の刺激臭がうっすらと混ざる独特な香りが、鼻先をくすぐった。
先客がいる。
店長さんがカラーの薬液を塗る手を止めてこちらを見て、
「あ、一香ちゃん。いらっしゃい」
いつものハスキーボイスで出迎えてくれた店長さんに遅れて、お客さんがこちらを見て目を丸くした。
「いっちゃん!」
「えっ。輝美さん……?」
思いがけない人と、会った。
◆
輝美さんのカラー入れの準備が終わるまでを待たされて、そこから、席に通された。
髪を洗い、伸びた分をカットしてもらう間。隣に座って薬品の浸透を待つ輝美さんが、雑誌に落とすはずの視線を鏡越しに向けてくる。
「気になりますか、わたしのこと」
話しかけると、雑誌を畳んで破顔。
「そりゃ気になるよ! いや、いっちゃんの家が近いのは知ってたんだけどさ、私の大学も近いし、駐車場があるし、安いし、店長さんがイケジョだから来ちゃうよね!」
年末の高揚感、みたいなテンションで語る。
その早口は、わたしを誉めるときの白瀬先パイみたいだ。
「ふたりは知り合いだったんだね」
店長さんが鋏を入れながら茶々を入れてくる。
「妹の、いい人なのよ」
「え? いっちゃん、彼氏できたの? あ、妹って言ったか。じゃあ、彼女?」
「輝美さん。それはアウティングっていうんですよ。付き合ってないし」
「付き合ってないのっ?」
輝美さんが大げさに驚くほど、わたしと白瀬先パイは親密なんだろうか。いや、確かにクリスマスイブに同衾したけど、輝美さんは知らないはずだし、何度かキスしてるけど、輝美さんは知らないはずだし。
「女はセックスすると上半身が近づくって言うものね」
店長さんがとんでもないことを言う。女しかいない空間だからって、わたし、未成年なんだけど。この話題は大丈夫?
「秋穂さんはどうなの、彼氏だか彼女だかはできてないの?」
「私は最近日照り続きですよ。だからいっちゃんがうらやましい」
「付き合ってないですけどね」
話を変えておかないと、なんだかひどい爆弾が投下されそうだったから、
「そういえば、輝美さん。うちの父と、お父様が、焼き鳥屋デートするらしいですね」
と、ぶっこんでおいた。
「まあっ。既婚者の男性同士で、密会?」
店長さんが食いついた。
「貴女たちって、家ぐるみの付き合いだったのね」
「いや、私は初耳なんだけど……いっちゃん、どうしてそうなったの?」
「わたしが輝美さんのお家にお泊まりしたのを、父がちゃんとご挨拶しなきゃと電話したら、そうなったみたいです」
はあ、と脱力した声を転がして、輝美さんは天井を仰いだ。
「秋穂家と綾街家が、ついに繋がるのか……もともといっちゃんはうちの子だと思ってたけど、お父さんまでうちの子に……」
「それはおかしいわよ」
「冗談よ、店長~」
けらけら。
頭にラップを巻いたまま笑うのは、なんだか滑稽だ。
トリートメントをしてもらう間も、店長さんと輝美さんが談笑している。枯れオジの秋穂父と、アウトドア系綾街父のどちらが主導権を握るんだ、みたいな。あんまり娘としては聞きたくない話なんだけど、もう一方の娘である輝美さんが喜んじゃってる。
話を変えたのは失敗だったのだろうか。
「いっちゃんはあんまり、BLに食いつかないのね」
トリートメントを塗り終えて、頭にラップを巻きながら、店長さんが聞いてくる。
「知識としてはあるし、他に読むものがなければ読む、くらいでしょうか。森蘭丸のエピソードとか、武田晴信の言い訳の書状とか」
「無骨なところ行くのねえ」
「ひとつのジャンルに絞るのがもったいないかなって思うんですよね。なんて言いながら、三国志演義とかは読み返してしまうんですけど」
そもそも面白ければ理科の副教材だっていいし、小学生の頃は父さんが持っていた舗装工学の漫画だって読んでいた。
最悪、中濃ソースの成分表で一時間潰せるかもしれない。
だから、
「成人向けの描写があるものを読んでいるとは、言っちゃいけない気がしてますね」
「あははっ。確かに、高校一年生として正しいね!」
輝美さんが笑うのを、店長さんが渋い顔で受け止めている。
「ちょっとぐらいよくない?」
「店長、良くないですって。いっちゃんの純粋さが穢れちゃう」
「別に純粋ってこともないと思いますけど。曹操が美姫を抱き殺したとか、愛憎の果てに武蔵への嫉妬に狂う女だとか、割と刺激的ですよね」
「結構ハードなの読んでるんだねえ」
成人向け指定されていないなら、普通だと思うけど。
「入ってくる知識はあるけれども、自ら取りに行かないって、そんな感じです」
「ふうん。なかなかエキセントリックな子だと思ってたけど」
店長さんがそんな失礼な、母さんに向けて言うべき評価を、娘のわたしに向けてきた。
反論しようにも、輝美さんの頭に巻かれたラップをびぇりゃびぇりゃ剥がし始めて、そのままざんぶと頭を洗い始めてしまったので、会話は中断。
仕方なく、少しぬるくなった梅昆布茶を飲む。
時間的にも、輝美さんの髪が乾いたら、次はわたしの仕上げになるんだろう。
もっとも、わたしの毛量だと乾かすだけでとんでもない時間が掛かるわけで。
「そういえば、いっちゃん、お昼ご飯は食べたの? もしまだだったら、一緒しようよ!」
シャンプー終わりの輝美さんに、そんなお誘いを受けるとは思ってもいなかった。




