事案第二十六号「無断外泊」(1)
綾街家には、門限などない。
それもそのはずで、父は激務で帰宅は深夜。母は家族と離れ東京に単身赴任。
そんな中でわたしが守るべき門限なんて、存在するはずがなかった。
だけど、その一方で。
『一香、学校にいるのかい?』
父さんはたまにこうして、仕事の休憩時間に電話を掛けてくる。
『風の影響でJRが止まってしまったろう。父さん、早く帰るようにするから、朝日駅あたりで……』
「いいよ。父さん。バスはなんとか動いているんだから。それに父さんが来るのを待ってたら、いつになるかわからないもん」
わたしの拒否に、寂しそうな空気を感じた。
頼りにされていないと受け止めちゃっただろうか。そんなことはないんだけど。
『じゃあ、タクシーを使ってもいいし、なんならホテルに泊まったっていいんだからな。無理して家に帰ろうとするんじゃないよ』
「父さんこそ。会社で寝泊まりできるんでしょ? それか、それこそホテル。帰宅難民なんだから、わたしたち」
そう言うと、電話の向こうで小さく吹き出す声が聞こえた。
「ありがとう、父さん。お仕事頑張ってね」
そう締めくくって通話を切る。
職員会議のあとの、放課後。
カフェテリアから眺める外の景色は、銀世界と言えば聞こえはいいだろう。
白、白、隙間もない白。
本当にバスが走るのかって? 走るんだな。それが。
とりあえず徒歩三分のバス停まで、事故なく歩けさえすれば。
寒雁市三大ブリザードも何のその。歴戦のドライバーが、朝日駅か北二十条駅まで、送り届けてくれる。
「綾街、お待たせ」
トンビコートの上に黒いマフラーを合わせ、もっこもこの手袋を履いた白瀬先パイが現れるまで、十分を要した。
その後ろには、マフラーなしのりりちゃんも。寒く無いのかと聞きたくなる。
「とりあえず、バス停に行こうか」
促されて立ち上がる。
大判のストールを、まるでかさこ地蔵のように頭から巻いて、風で煽られないように首元で縛る。
「……行きましょう」
意を決し、生徒玄関から脚を踏み出す。
「うぼぁッ!」
第一声は、りりちゃんからだった。
プラチナブロンドが暴れに暴れて、微細な粒子となった雪の粒が頬に、首筋にと切り裂くように濡らし、風が凍らせ、毛先がその肌を貫くのだ。
「あははっ! だから対策しろって、朝に言ったじゃん!」
さすがホストファミリー。白瀬先パイはりりちゃんに的確な助言をしていたらしい。
ただ、オーストラリアの気候で育ったりりちゃんが、寒雁市の中でも最も風雪が強い地域を舐めていただけ。
しょうがない。
「一緒に入る?」
ストールを緩めて迎え入れようとすると、りりちゃんは蜘蛛の糸に縋ったカンダタみたいにいたく感動して、わたしに抱きつくように飛び込んできた。
……ただ。二十センチ近く身長が違うので巻き方に苦労するのと、うらやましそうな瞳がレンズに付着した雪で隠れる白瀬先パイの視線が気になるのと。まあ、その程度か。問題無い。
ストールの大半はりりちゃんに押し付けて、わたしはりりちゃんの風下に立つことで、暴風対策は完璧とした。
いつもならその体温や、白瀬先パイとお揃いで香るシトラスなんかに色々思うところがあるんだろうけれども、吐く息すら凶器に変わる今の状況はそんなことを気にする場面なんかではない。
片道一車線の横断歩道で灯る信号ですら見落としそうな風。そして雪。
「いやあ、すごい風だねえ!」
「揺貴町もなかなかやりますね。北藍はこんなものではないですけど」
「えっ! なんて言った!」
「北藍駅のあたり、体験しに来てくださいっ!」
やりとりもままならない。
車のヘッドライトと電柱の黒さを頼りに、這々の体でバス停に駆け込む。
アクリル板だけで作られたような小屋が、オアシスのようだ。
「あははっ! 見て、いっちゃん! シラーセ!」
「歌舞伎でもやってた?」
急に笑い出したりりちゃんの髪は、白瀬先パイの的確な例えで評された。
「違いますよ、先パイ。これは獅子舞です」
「年末だから一週間早いなあ」
「わるくち言われてるの、わかるよ!」
けらっけらと笑いながら、りりちゃんはわたしと白瀬先パイの頭を小突く。
いつもならバスが来る時間にバスが来るなんてことは当然なくて、とりあえずたったの三分の距離で付着した雪を払い、ストールをバサバサとやって水滴になりかけた粒を飛ばし、そしてりりちゃんの髪を梳いて、なんてやっていても、バスの気配なんか感じやしない。
「ねえ、念のため運行情報確認しとく?」
「そうですねえ」
「あっ、まってシラーセ。メッセージが入ってない?」
リリーバーグさんが携帯電話を覗き、声を上げた。
「テルミーから、お迎え行こうかって!」
「え、姉ちゃん、運転できるのかな……」
「ママが来てくれるって」
りりちゃんのいうママは、白瀬先パイのお母さんだ。
自営業の妻、というポジションは、こういうときに大きく役立つのだろう。
「この時間だと営業車だよなあ……」
「何か、悪いこと、ある?」
「いや、助かるからいいんだけどさ」
不満そうに言う白瀬先パイは、しかしすぐに顔を作り替えた。
「綾街も一回、うちに来なよ」
「えっ。でも」
「どうせここに置いてなんかいけないんだしさ。花を乗っける車だから匂いとか汚れだけ気にしないでもらえたら、十人くらい乗れるし」
「いっちゃん! なら、二十人かな」
失礼なことをいいのけたリリちゃんの首にきつくストールを巻いて顔を紫色にしたあと、わたしはお邪魔することを決めた。
◆
緑の車体に色とりどりの花が描かれたワンボックスがバス停に滑り込んできたのは、三十分経った頃だった。
「お姉ちゃんに連絡してって頼んだっけ、一香ちゃんもいてくれるなんて! こんなのママにサンタさんが来たみたいよ」
破顔して喜んでくれたお母様に、なんだか恥ずかしくなる。おまけに、
「助手席は一香ちゃんね。イトコちゃんは二列目。しーちゃんは……三列目でいっか」
「ちょっとママ! なんで私が」
「一番体幹が強そうなのあんたでしょうが! それとも、乗り心地の悪いところに一香ちゃんとイトコちゃんを座らせたいって?」
母強し。
白瀬先パイが一言で黙らされた。
ワンボックスは営業用らしくて、ザグザグになった雪道でちょこちょこギャップを拾う。
車体が流れそうになるとハンドルをこまめに切り返す姿は、いつか衛星放送でみたダカールに向かうラリードライバーのようだ。
がびがびとノイズを吐き出しながら平成中期のポップスを奏でるカーラジオ。
ワイパーがぼごごごと音を立てる。
ちょっとした穴で跳ねる車内。
白む赤信号。
「こっちは殊更にひどいわねえ。うちのあたりなんて信号二個向こうは見えてたのに」
「北藍のあたりに住んでいると当たり前に感じちゃいますけど、市内でも結構違うんですね」
「そうねえ。うちは造園もやってるから感じるけど、藍路駅より北側とか揺貴あたりは、雪対策と一段強化した風対策をするお家が多いわね」
プロの目線は、おもしろいと思う。
それこそ、揺貴屯田兵村で防風林の重要性が受け入れられた理由なのかもしれない。百年以上経っても変わらない自然の厳しさと、それを受け入れるための開拓民の知恵。
人間もそうなのかもしれない。
わたしと白瀬先パイの関係は、きっと端から見たら歪なもの。
白瀬先パイのお母様や輝美さん、りりちゃんのように応援してくれるなんて、種生蒔菜の時代には考えられないことだったろう。
……いや、付き合ってるわけじゃないから、だからこそ歪だとは思う。
そっと、口唇に触れる。
最近、キスしてないな、なんて思うことが、どれだけ贅沢なことか。
「一香ちゃん、寒くない? この車、暖房が弱いのよ」
「大丈夫です。ありがとうございます。暖かいですよ」
お母様の心遣いも。
最近ささくれていた心が、すこしだけ潤った気がするんだ。
気がつくと信号三つは見通せるくらいに風が弱まっていた。北の繁華街なんて言われるエリア。
秋穂家まで、もうすこし。




