参考メモの四「しらせ」(3)
膝から崩れ落ちるという表現は、小説やマンガの中でしか有り得ないと思っていた。あるいは夜九時からのドラマか。
そんな光景が、目の前で繰り広げられたことを視認してから、秋穂白瀬は収納庫の扉を閉めた。
「刑事ドラマなら、もう一粘りあるのかな。パソコンは部共有で、ログインできるのは自分だけじゃないとか」
銀縁眼鏡の奥、暗い瞳を振り向けたのは、長身の女だった。
「私は今すぐに、多目的ホールで練習している演劇部に突撃して、裏をとるべきなんだろう。だけど、君はそこまでしなくて良いと考えている。そうだね、マキナ?」
両手を胸の前で合わせ、口元だけの笑みを貼り付けた神野マキナが、秋穂白瀬の問いに頷いた。
「彼女はもう終わりよ。黒撫子を追い詰め、白百合に追い詰められては、もう居場所はないでしょう」
一年普通科特進コースの白黒に挟まりたいなどと言っていた芝崎千結は、これで両者から嫌悪の感情を向けられるだろう。
「可哀想なもんだね。自業自得……いや、狐に化かされたっていうほうが正しいのかな?」
「うふふ。罰当たりね。お狐様の社の側で、後輩にキスされる色女さんは言うことが違うわ」
「茶化すな」
秋穂白瀬が、耳まで真っ赤に染めて言い捨てた。
ああ、とても甘美。
「それにしたって、好かれたいならするべき行動があるだろうに、なんだってあの子はこんなに簡単に足が着くようなことをしでかしたんだろうね」
「それは、綾街一香さんを助けたい思いが、女神様へと通じたからじゃないかしら? 偶然が重なりすぎているもの」
秋穂白瀬の瞳が、すっと切れ味を増した。
「必死な乙女の神頼みは、極上の甘露であるってやつか」
「あら」
「種生蒔菜が生前に、マキナ・ジョーンズに語ったとされる一節。それを、神野マキナ、君が口にしていたよね」
会わせた両手を口唇に当て、神野マキナは両目で弧を描いた。
それはまるで、強い地吹雪に枝垂れるポプラのように。
「綾街を貶めて、私との仲を進展させようとでもしたのか?」
「さあ。女神様が人を操れるなら、そうするかもしれないわね」
「ふざけるなってんだよ」
拳を握りしめ、上背のある神野マキナを、低い位置から睨みあげる秋穂白瀬。
「必死な乙女の神頼みは、極上の甘露? ――ふざけるなッ! 私たちは女神様のおもちゃじゃない!」
実際のところがどうであれ、怒りに震える秋穂白瀬の姿は、極上の甘露である。
やれやれといった顔で目を細める神野マキナもまた、妾が喜んでいることを知っているだろう。生徒たちに近い分、感情移入もあろうが。
「まあいい。神様が何したって構わない。私と綾街の絆を見くびるなって言っておけ、神野マキナ!」
踵を鳴らして、秋穂白瀬は多目的ホールへと入っていく。
その背を見送った神野マキナが、こちらに視線を送り、
『だ、そうですけれど。大神、どうされるおつもり?』
妾に振るな、揺貴蒔菜比売よ。
◇
「笹芽さんも宇和さんも、わたしに近づかないでください」
綾街一香は、ビラ作成の下手人が白状したことなど知らずに、彼女を守ろうとする笹芽紀子、そして宇和早月。
そして、綾街一香はいつもどおり、孤独の中で静かに過ごしていた。べつに、もともと友人がいたわけでもないし、これまでの高校生活とそう変わらない。
「いっちゃん! おはよ」
「おはよう、綾街」
そんな綾街一香も、友人であると不承不承認めたイトコ・リリーバーグと想い人である秋穂白瀬にだけは、距離を取るのも憚られている様子。
笹芽紀子や宇和早月と何が違い、そうさせるのかは、綾街一香の心の中にしか答えはない。
つまり。
綾街一香という受け身な少女は、吹き付ける風を受け止めるポプラのような人物なのだ。
風雪に耐えかねて折れることもあろうが。
そこは、メンテナンスを買って出る者、気高く立ち続ける姿を愛でる者らが、できる範囲で保護していくのだろうが。
ビラの内容には客観性があり、特待生として問題のある生徒だと認定されるのか。
綾街一香はそう心配しているが、下手人が内々に処されたせいで把握できていないから仕方がないというものだ。
「シラーセ、家でもずっとニヤニヤ考えてたよ。ホストファミリーじゃなかったら縁を切るくらい怖かった。Ach, shiver me timbers! Fair dinkum, that’s scary《おおっ! こわいこわい!》」
おどけながら言うイトコ・リリーバーグに「うっさい」などと言いながらも、秋穂白瀬は考えていた。
生徒指導部の幾杉教諭が、次なる標的だと。
秋穂白瀬自身の経験から、綾街一香への対応もまた、ひどいものであることは想像に難くない。思い出したくもないことだと、唾棄すべきことだとすら、秋穂白瀬は考えている。
いつかボロを出す。
今に見ていろよと、闘志を燃やしていることは、イトコ・リリーバーグにも、綾街一香にも知られないようにしなければならないと。
ひとりで抱え込もうとして。
◆
「ね、神野さん」
秋穂白瀬が、特待生の資格を喪失したことを綾街一香に打ち明けたその時。
女神の眷属、あるいは回し者のように思われていた神野マキナの姿を捉えた秋穂白瀬は、その瞬間に考えを変えた。
つまり。
手を汚すのは自分じゃ無くてもいいと。
「それで、わたくしは何を求められているのかしら? 秋穂白瀬さん」
「知っていることを教えてほしいんだけど」
「まあ。何かしら」
「幾杉先生の弱みは、知ってるでしょ?」
「悪いことを考えているわね」
「ん、悪いことかもね」
互いに言葉にしないのは、秋穂白瀬の心の内を神野マキナが読み取っているのだと、秋穂白瀬がそう信じているからだ。
互いに微笑で見つめ合うのを、綾街一香が複雑な表情で見ている。
それもそうだろう。自分が蚊帳の外でいるのだから。
自分のことなのに。
はてさて。
波乱はもう少し続くのだろうが――神頼みを拒否した乙女の必死な様は、もうしばらく観察させてもらうとしようかの。




