事案第二十四号「優先順位」(1)
一週間という時間は、ビラ騒動の評価を確定させるのには十分な時間だった。
つまり、わたしの性的指向は同性に向いて、芸能人の母の権力で誰かを脅しているらしい。
かつて、孤高の撫子だとか言われてクラスメートから遠巻きにされていた綾街一香は、クラスの鼻つまみ者として敬遠されるようになったというわけだ。
「笹芽さんも宇和さんも、わたしに近づかないでください」
お昼休みにひとり、カフェテリアで昼食を摂ろうとするわたしに寄り添おうとしてくるふたりにも、そう伝えた。
そうして迎える金曜日。
「いっちゃん! おはよ」
白瀬先パイと一緒に登校してくるリリーバーグさんだけは遠ざけにくい。これもまた噂の一因になってしまうのだろうけれど。
「おはよう、綾街」
野暮ったい銀縁眼鏡の奥を柔らかく細めて、一歩引いたところで声掛けをくれる白瀬先パイから離れるなんて、どうしてもできない。
「おはようございます。今日は放課後、久し振りに図書室に行こうかと」
「うん。待ってるよ。どんな沙汰が下されるのか」
わたしの処遇について、職員会議が開かれるらしいから。
悪質なデマの被害者なのか。
それとも、ビラ内容は客観性があり、特待生として問題のある生徒だと認定されるのか。
「綾街さ、私なりに考えたんだけどね」
白瀬先パイは、なにやら悪巧みをしている、良く言えばいたずらっ子のように無邪気な悪意を、銀縁眼鏡の上に張り付けた。
「なんですか? まさか職員会議の最中に換気口下で焼き肉でもして妨害を?」
「んなわけない」
ころころと笑う先パイに、心の余裕を得られる気がする。
「シラーセ、家でもずっとニヤニヤ考えてたよ。ホストファミリーじゃなかったら縁を切るくらい怖かった」
リリーバーグさんはホラー映画の感想を語るみたいに「Ach, shiver me timbers! Fair dinkum, that’s scary《おおっ! こわいこわい!》」とおどける。
「イトコ、そりゃ言い過ぎだよ。私は私なりに戦略と戦術を練ったんだから」
くいっと銀縁眼鏡を持ち上げたところで、生徒玄関をくぐり抜ける。
びしゃびしゃの玄関マットに靴底を擦り付けながら歩き、階段を上る。いつものように二階で白瀬先パイとは別れて、リリーバーグさんと三階へ。
「リリーバーグさん。貴女も、わたしから距離を置いたほうがいいですよ」
離れがたいとはいえ、あまり巻き込みたくもない。彼女の短い留学生活が、嫌な思い出になるのは忍びないのだ。
だけど、
「いっちゃん! と過ごすのが留学の目的を達成する最短の道なのです」
彼女は譲らないだろう。
そして、
「白百合と、黒カーネーションを分けたがるのは、粋じゃないってモンよ」
ふふんと見得を切る。いろいろ混ざっているなあ。
「撫子はカーネーションではありませんよ」
「Wow!」
「わおじゃなくて」
に、と満面の笑みのビスクドールみたいに、リリーバーグさんはわたしの横に立っている。
「友だちのつらそうな顔、ちょっと癒せた」
そんなふうに笑うのだ。
認めなきゃなのかな。
わたしが、リリーバーグさんと、友だちなんだと。
「……しりませんからね、なにがあっても覚悟しておいてください、りりちゃん」
うわーーー恥ずかしい!
今まで散々、ファミリーネーム呼びしていた相手を!
「いっちゃん!」
感動したみたいに抱きついてくるりりちゃんの、シトラスの香り。先パイと同じなのにドキドキしない不思議な圧力と、軋む背骨と、周囲の視線が痛かった。
◇
お白州となるのは、校長室だった。
理事長室の隣にあり、十人が輪になって打ち合わせができる広いテーブルがあって、ふかふかの絨毯の敷かれた部屋。
作り付けの棚にはトロフィーが溢れていて、そのどれもが昭和の日付。紅白のリボンはすでに日焼けしていて、薄まった赤に黄ばんだ白。もう少し整えたら、小豆色と生成っていう、制服のカラーリングににている気がする。
そんな現実逃避ができるのは、
「秋穂さん、関係のない生徒は……」
生徒指導の若い先生に、「お構いなく、関係者なんで」と言い放つ白瀬先パイの姿があるからだ。
滑稽なのに、心強い!
でも当然だけど、そんな言い分で居座れるわけがない。
だから。
「当事者ですよね、幾杉先生」
水を向ける。
「はい? なにを」
言いかけて、あ、という口で幾杉先生の言葉は止まった。
「この間、教えていただいたじゃないですか。秋穂先輩も関係しているって」
これ見よがしに、ブレザーのポケットからメモを取り出す。
幾杉先生は知らないだろうけど、それは理事長先生からいただいたメモだ。
「……確かに無関係ではありません。皆さんもよろしいですか?」
幾杉先生が折れた。
白瀬先パイと目が合う。もう、こんなことをするなら事前に言っておいてほしい。
「ええと、始めていいのかな?」
教頭が周囲を見渡して、同意を促した。
奥から、校長、教頭、一年の学年主任。主任の前に担任の谷先生と、副担任の福飯先生。教頭の側には、生徒指導の先生方。幾杉先生もここに並んでいる。
そこから入り口側に、わたしは立たされている。
本来なら、これは包囲をされているようなものだ。なのに、白瀬先パイの姿があるおかげで、四面楚歌感はない。
ああ、虞や――なんて嘆きたくなったって、むしろあれにいるは遼来、遼来! なんて心持ちになる。
余裕がある。素晴らしいこと。泣いたりしない、もう。
「では、この場は……懲罰会でもないし、なんだね。風紀会議?」
MCを務める校長先生すら困惑している。
こういう会議自体、あまり前例がないのかもしれない。だけど、漏れ出てきたキーワードの強さから、わたしが学院側にどう見られているのかが透けている。
「では。えー。綾街さん、一年の特進だね?」
「はい。よろしくお願いします」
「実に優等生な見目に、礼儀じゃないか。そんな君がいったい何を、というところだが……」
資料をめくり、校長は目を見開いた。そして、唸りながら瞳は右へ左へ。
「ああ、うん。あー……綾街さん。君は、その、レズなのかい?」
十万の大軍に数百騎が突っ込んでいくかのような、潔い質問が飛んできた。すぐさま教頭が「言い方が」と耳打ちしているのも、わたしの背後で吹き出しかけた白瀬先パイの狼狽も、聞こえてくる。
「ん? レズって言わないの?」
「学院生のパーソナリティの問題もありますので……」
「ああ、いわゆるアウティング行為というやつか」
校長は色々と勉強をされているんだろう。ああ、心強い体制だこと。
嘆息。
思わず零した吐息に、何人かの教員が反応を示した。
「綾街さん。貴女、その態度は?」
まず口を開いたのは、幾杉先生だ。
「すみません。おかしくて」
「おかしい? TPOはわかっているの?」
「はい、十分に」
言い返してしまっている。
でも、仕方がなくない? 幾杉先生は、白瀬先パイのプライバシーをおかしたんだから。
わたしは、巻き込んでしまった白瀬先パイを守る義務がある。……飛び込んできてるけど。
ともかく、わたしはわたしの主張を伝えておくべきだと思ったので、口を開く。裁定の後だと、こぼした水をお盆に戻すようなことになってしまうから。
「人のプライバシーをおかすのは、誰であれ糾弾されるべきかと思いますけど、ここにいる全員が、わたしのことをご存知という前提でよろしいですか? たとえば」
一息。
「特待生であること。夏休みの課題で、成績の要件がクリアされたら特待生資格は維持されると言われたこと。直近で学年二位だったこと全国模試で毎回、総合の偏差値が六十を超えていること」
担任、副担任に視線を向ける。
ふたりとも首肯。よし。
「次に、わたしの個人的なことですけど。母は料理研究家です。東京で事業をするために別居していますけど、連絡は付いています」
父さんに、だけど。
「確かにユリギノ女学院家政科の卒業生なので、一定程度の圧力を掛けることは可能かもしれません。だけどそれが、わたしの母であると公言したことは、ここにいる秋穂先輩以外にはしたことがありません」
それに、と付け加える。
「家政科なら、大御所がいらっしゃいます。この制服のデザイナーであるフクイモモノさんです。彼女を差し置いて、母程度の小者がなにか出来ましょうか?」
「綾街さん、今は貴女が話すタイミングではありません」
幾杉先生が止めようと口出ししたのを、つい、ふっと笑ってしまった。
「なんですか、その態度は!」
声を荒らげた幾杉先生に、隣の教頭が「落ち着いてください」と慌てる。
六秒、幾杉先生は深く呼吸をして、それから眼光鋭く睨んできた。
「そうやってお高くとまってるから、こんな下品なビラを作られるんです」
「わたしがお話ししている途中です、幾杉先生」
「だから、」
「幾杉先生、話をさせてあげましょう」
ここまで黙り込んでいた学年主任が、静かに言葉を差し込んだ。
「しかし」
「一方的に、我々教員が、押しつけて良いケースとは異なると思います。ビラの件については内容が正しくても間違っていても、綾街さんは被害者の立場。態度が悪いからっていう理由で正当化されてはいけませんよね」
立場のある先生の物言いだ。
落ち着いていて、とっさの反論などしたくならない。
息を吸う。そして、頭を下げる。
「勝手に話してしまって、すみませんでした」
もちろんこんなことは、計算だ。
素直で物わかりが良くて、だけど頭に血が上ってしまう。そんな相手だと思わせるための。
わたしは子どもだから、未熟だから。
「この前、幾杉先生とお話しした後、理事長先生に愚痴を聞いていただいたので、話すべきことはこれで全部です」
カードを切るべきタイミングが、わからないから。
ポケットにしまったままの、理事長先生からのメモ。
白瀬先パイの個人情報を漏らした件は調査すると書かれた、何の効果もないものだけど。
幾杉先生の顔を見る。
わかってますよね、という熱を込めて。
「わきまえず、すみませんでした」
じっと見つめるわたしの視線の先で、幾杉先生は居心地が悪そうに咳払いをした。
「ええと。ふむ」
なにやら手元の資料にチェックを入れて、校長がふんふんと唸っている。手元は見えないけど、マニュアルに沿った対応をしているのかな。
「結論を言うとだね。特待生要件停止っていうのは、しません。しかし」
もったいぶった、間の置き方。
「ビラにあった、君がレ、性的指向がどうのという点は、判断保留とするよ。理由はやっぱり、ビラの件が大きくてね。周囲への影響、学業への影響、特待生として残すべき功績、こういったところも含めて、総合的に判断したい」
分厚いレンズの眼鏡を外した。
きっと、読むものがなくなった。つまりここからが校長の言葉。
身構える。
「これまで特待生として素晴らしい生活を過ごしていたと、谷先生や福飯先生に聞いているよ。だけど、悪い友達の影響を受けたりしないよう、これからも品行方正を心がけてもらいたい」
違和感。
わたしを見ると言うよりは、後ろ?
その言葉を向けたのは、誰に?
確認よりも早く、
「はーい」
気の抜けた声を上げた、のは。白瀬先パイ。
「不真面目な私が綾街さんに悪い影響を与えないように、善処します」




