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事案第四号「譜」(1)

 ユリギノ女学院の文化祭は、中間考査が終わってからの二週間が本格的な準備期間となる。

 毎年七月、最初の木曜日が前夜祭。金曜日がステージ展示。そして土曜日が一般公開日。


 英文科は公開英語討論会をやったり、商業科はキーボード早打ち大会の模擬店を出したり、家政科は……まあ、とにかく色々とすごい。

 その一方で、わたしの普通科は――


「綾街のクラスは朗読劇か」

 なんだかうれしそうな先パイが、わたしの手元を覗き込んできた。

 いつもの図書室。

 文化祭準備でいつも以上に閑散としている図書室には、わたしと、常連の先輩――神野先輩だったかな? と、図書委員のしらせ先パイの三人だけ。


「見ないでください、先パイ。本番で、先の展開が分かっちゃうじゃないですか」

「私が見に行くのは確定なんだ?」


 それもそうだけど。

「来てくれないなら、今見てもいいです。あと、暑いです」


 いつもどおり、先パイはわたしの座る椅子にお尻をねじ込んできて。

 マーキングするみたいに、シトラスの香りが鼻をくすぐってくる。


「注文の多い料理店でしょ? さすがの私だって、あらすじは知ってるよ」

「そうですか。先パイはどんな味付けをされて、ここにいるんですか?」

「ボディクリームと、ゆずのリップだね」

「ゆず……」


 台本から顔を上げて、先パイを見つめてみる。

 割と至近距離。

 吐息が、確かにゆずの香りのような。


「あら、綾街。私の唇なんか見つめちゃって……照れるぜ」

「良い匂いだなって思っただけです」


 たーん!

 ちょっと強くキーボードを叩く音が聞こえた。


 静かにしなくちゃ。台本に視線を戻す。

 なんだか隣で先パイが、しょぼくれてるような気がした。


「どうしたんですか」

 小声で聞いてみると。

「いや……ちょっと照れて」


 照れてるだけらしい。

 どこに照れる要素があるのかはわからないけれども。

「そろそろ真面目に、台本を覚えたいので。いいですか?」

「ちぇ。しょうがないなあ」


 本当は、台本なんて覚える必要はないんだけど。

 音響係は台本を見ながらぽちぽちするだけだから。


 だけど。

 柔らかくて爽やかな先パイの感触に触れていると、頭に血が上っちゃいそうだったから。



 下校時刻のチャイムが鳴った。


「はーい、帰ってくださいね」


 図書カウンターの向こうから気怠げに声を上げた先パイ。

 ひっそりとキーボードを叩いていた神野先輩もパソコンを閉じて、立ち上がった。颯爽と、小豆色のロングスカートを翻して、そのまま退室。


「綾街。生徒玄関で待っててよ。一緒帰ろ?」

「構いませんけど」

「じゃあ、鍵閉めたらマッハで行くから! 待ってて!」


 言われたとおりに待つあたり、わたしも従順な後輩だと思う。

 ポプラのベンチに腰掛けて、鞄から文庫本を取り出す。

 先パイがすぐに行くと言ったときは、結構時間が掛かることが多い。


 その点、小説はいい。

 わたしが読みたいと思えばそこにあるし、逃げることもない。

 大一番で大敗して逃げる先逃げる先に待ち伏せされる奸雄みたいな悪運もいらないし、見逃す豪傑の義理堅さもなく、その人生を追体験できる。


 ああ。本って、いいなあ。


「綾街さん」


 声を掛けられた。

 文庫から顔を上げると、クラスメートの姿。笹芽さんだ。


「どこに行ってたの?」

「図書室で、台本を」

「そっか」


 会話が続かない。

 居心地が悪そうにしている笹芽さんが気の毒で、でもわたしもどうしたらいいかわからなくて。


「……あ、そうだ。早月、来てなかった?」

「宇和さんは、見てないです」

「そっか」


 距離にして五メートル。

 パーソナルスペースが広めのわたしには、ちょうどいい距離だけれども。

 でも、笹芽さんには居心地が悪いのかもしれない。


「……変なこと言うかもだけど」

 笹芽さんが、遠慮がちに言った。

「綾街さん、クラスに居づらいとか、ない?」


 考えたこともないけど、考えてみる。

 たしかに、笹芽さんはいつも宇和さんとなにやらお話をしているし、ほかの子も思い思いに過ごしている。

 そんな中で、わざわざわたしに構ってくる人もいないわけで。


「大丈夫ですよ」

「そっか」


 廊下の遠くから、ぱたぱたと足音が響いてくる。

 お互いの呼吸の音。

 風。

 笹芽さんのプリーツスカートが、ふわっと舞った。


「おまたせー!」

 振り返らなくても分かる、しらせ先パイの声。

 文庫を鞄にしまって、立ち上がる。


「笹芽さん」

「あ、はい!」

「待ち合わせ相手が来たので、失礼しますね」

「はい! また明日!」


 ぶんぶぶんぶと手を振る笹芽さんに会釈で返す。と、先パイがわたしに突撃してきて、

「おまたせー。あ、ごめんね。綾街のクラスの子? 話し中だった?」

「いえ。特に」

「ごめんねクラスメートちゃん! 綾街、もらっていくね!」

「はい! すみません!」


 笹芽さんは何に謝ってるんだろう?

 予測外のことが起きると、混乱しがちなのかな。


 先パイに着いて歩く。

 ユリギノさんのお社の前を通りかかったから、いつものとおり足を止める。すると先パイも、自然と足を止めた。


「お参りしていく?」

「はい。いつものことなので」


 手を合わせる。

 どこかで見ているであろう、女神様に。

――今日は悪いことをしていないはずです。


 ざわ、とポプラの葉がこすれる音。

 遅れて吹く風。

 夏色に染まった空気が、少しだけ汗ばむ肌を撫でていった。


「ユリギノさんが返事してるみたいだよね」

 先パイが、ピンク掛かったレンズの奥を、ちょっとだけ遠くを見るように細めていた。

「先パイは何か、お願いをしたんですか」

「うーん。まあ、ね」

「そうですか。ユリギノの生徒は、みんな一度は、手を合わせるらしいですね」

「こんなに目立つ場所にお社があったら、するだろうね」


 確かに、良く通る場所にお社があるから、足を止めるのが日課になってるかもしれない。

 だけど、それ以上に、女神様に見守られているのかなと思うと、自然と背筋が伸びるというものじゃないかな。

 それなら日頃の感謝の一言や、二言。あったっていいと思う。


 また、風。

 ざわめく木の葉。

 本当に、ユリギノさんが返事してるみたいだ。


「今のは否定かな?」

「先パイ、わたしもそう思いました」


 ざわ。

 優しい風。


「今度は、肯定?」

「きっと、そうですね」

 ふたり目を見合わせて、くすりと笑い合う。

 目に見えない神様のことを想像して笑い合う。なんていう、罰当たり。


 あ、ユリギノさん。

 勝手にアテレコしちゃってごめんなさい。

 でも、もし気を悪くされていないんだったら、なにかわかりやすく意思表示してくれるとうれしいです。


「わっ」

 突風。

 髪の毛が乱れて、スカートが捲れて。


「……見ました?」

「ううん」

 顔を背ける先パイに詰め寄って、睨み上げる。

「本当に?」

「うん」


 目は口ほどにものを言うし、先パイは雄弁だ。

 スカートのひだを直して、髪を簡単にまとめて、それから先パイに肩から当たりに行った。



 帰りのバスの中は、下校時刻まで文化祭準備に掛かっていた生徒たちがそこそこいたから、わたしと先パイは隣に並んで座る。

 いつも密着してくる先パイだから、二枚のタータンチェック越しに感じる太腿の熱と柔らかさは、いつもどおりだなあ、なんて思ってしまう。


「懐かしいなあ。注文の多い料理店。綾街は、レストランでご飯とか食べに行く家?」

 唐突な質問に、一瞬疑問符が浮かぶ。

「そうですねえ。母がいた頃は、豪華なご飯はおうちで、という感じでしたけど。最近は回転寿司か、しゃぶしゃぶ食べ放題でしょうか」


 あっ。

 気付くな。


「食べ放題? 綾街って、そんな食べるの?」

 よし。

「別に、小食っていうわけじゃないですよ?」

「でも森食ってるじゃん」


 森?

 なんのことだろう。


「綾街のお弁当、九割ブロッコリーじゃん?」

「一割はシウマイとか、入れてます。それにイタリアンパセリも」

「より緑化政策じゃん」

「身体に良いんですよ?」

「私はブロッコリー苦手だからさあ」


 苦笑する先パイ。

「だから、綾街が、偉いなって意味」

「そうは思えないですね。ねえ先パイ、どっちですか? わたしが料理を作れなさそうだからからかってるんですか。それとも、献立のお話ですか」

「いや、どっちかっていうと、OGにいるじゃん。料理研究家のミスまちこ。あの人の料理みたいだっていう笑い」


 むっ。


「あんな奇抜な言動の、エキセントリック料理作るひとと、同列……?」

「この間の番組でさ、平成のギャルかって感じのモリモリな料理をしてて。思わず笑っちゃったんだよねえ」

「あれって食べにくいけど、意外と美味しいんですよね」


「え?」

「え?」


 何か変なことを言っただろうか。

 言っちゃったかもしれない。

「作ったことあるの?」

 なるほど。そういうことか。

 なら、きっと、ごまかせる。


「ミスまちこの料理本なら、うちにもありますよ」

「そうなの? まあ、フクイモモノと並んで、うちのOGトップ層だしねえ」

「それもありますけど、意外と作るのが簡単なレシピも載ってますから」


 吐息。

 話を逸らすために、だけど。ちょっと攻め込んでみる。

「……ねえ、先パイ。いつも菓子パンですよね? 今度、お弁当でも作ってきましょうか」

「綾街が? 私に? 森を?」

「お望みなら」


 ピンクのレンズの向こうが、丸くなっていた。

「……いつ?」

「お望みなら、明日にでも」

「マジ?」

「はい。帰りに材料さえ買って帰れば、出来ますよ?」

「ザンギは?」

「今夜揚げて、しっかり冷まして入れます」


 うーんと唸り始める先パイ。

 わたしの申し出が、予想外過ぎたんだと思う。

 それもそうか。先パイの前で、料理ができる話なんか、したことなかったから。


 でも。

 何を隠そう。わたしは小学生の頃から料理を叩き込まれたから。


 ミスまちこに。

 ……母に。

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