揺貴の蒔菜、ジョンのマキナ(3)
母と弟の喪失から、三年が経った。
屯田兵村の入植からは十年を数え、種生蒔菜は二十二歳となった。
ポプラの防風林整備は細々と続き、研究データは農学校で分析されている。今のところ、有意な結果とは見なされていないが、
「蒔菜ちゃんのおかげで、すきま風が減ったわ」
「吹き溜まりの除雪も減った」
「ありがたいことだ」
村民たちが口々に言うのを、主導したひとりであるジョーンズ博士も我がことのように喜んでいた。
実際に汗をかき、人を動かしたのは彼女に違いない。
できれば、彼女を国へ連れて帰りたいとも思っていた。
そう。
国へ帰るときが迫っていた。
『マキナ、話がある』
ある夜、ジョーンズ博士は娘に切り出した。
『本国から、戻ってこないかと誘いを受けている。報酬は、今までの五倍だと』
『パパ、ずいぶん破格の条件じゃない!』
本人には何をそこまで評価されるべきポイントがあったのかはわからない。
だが、開拓に携わった機械技師という肩書きは、本国でも貴重な人材扱いをされるのかもしれないとは、想像ができた。
『ユリギノの皆は、これ以上ないと言うほど、頑張ってくれたと思う。もちろん、防風林の問題だってあるし、私がここにいれば本社だって、トラクターだのなんだのを売りやすいだろう』
『そうよパパ。新天地で、パパは成功を掴みつつあるわ』
『だが考えていることが一つある』
ジョーンズ博士は紫煙を燻らせ、深くため息を付いた。
それはまるで、視界を白く飛ばす暴風雪のように。
『お前の幸せだよ、マキナ』
『わたしは幸せよ、パパ。仕事も楽しいし、パパもいるし、……蒔菜だって』
ジョーンズ博士は言葉にしなかったが、最大の懸念が娘たちふたりのマキナの間柄だった。
姉妹ほど、いや、それ以上に睦まじいのは、神の思し召しに反するのではないか?
それとも、魂の半身とも言うのであれば、引き離すのが得策とも言い切れない。
いずれにしても、神の見えざる手によって、ふたりのマキナは踊らされているのではないだろうか。
『いっそ、蒔菜も連れて帰りたい。だが、そうすると守はどうなる。ユリギノの民はどうなる。そう思えばこそ、私はひとりで変えるべきかとすら悩んでいる』
でもなと、ジョーンズ博士は付け加えた。
『他でもない、種生家の悲劇が、お前を連れて帰るべきだと言っているように思えるのだ』
マキナは、自分を連れて帰るか否かは、父の中にある迷いではないと知った。こうは言っても、帰る気なのだろうと。
もちろんそう伝わるように、ジョーンズ博士も話したつもりだった。
その日から、マキナは刺繍を始めた。
農学校に隣接した桑園で作られ始めた絹糸を用いたリボンに一針一針、思いを込めて。
「マキナが刺繍なんて珍しいわね」
蒔菜がそう笑うのは、別れを伝えたからではなかった。
その証拠に、この瞬間だってマキナは揺貴村の将来を考えている。
「防風林の次は、学校かしら!」
「どんな学校?」
「わたくしみたいに通えない子がでないように。女らしく花嫁修業もできるといいわね」
「蒔菜らしくない」
マキナの眉尻がハの字になるのも、蒔菜は気にしなかった。
「じゃあ、経済と、国際交流も学べるといいわね」
「科学も大事よ」
「採用! 忙しくなるわよ、マキナ!」
意気込む蒔菜手を取り、指を絡める。
マキナの薄緑の瞳が蒔菜を見上げて、
「神頼みはするの?」
と、問う。
「わたしは、マキナいつまでも健やかにあってほしいと思っているわ。病めるときが来ませんようにって」
「そうね。まずそっちが先決だったわ。防風林整備計画、いよいよ大詰めだもの」
結局、蒔菜が何かを願ったのかは、マキナは知らない。
だが、その日からマキナは祠を訪れ、異国の神に捧げるロザリオを手に何やら願い事をしている姿が目撃されるようになっていた。
そして、季節が巡る。
ポプラの綿毛がまるで降り積もった雪のように、地面を白く染める。
しかしながら、初夏の訪れを告げる爽やかな日差しを背景に、ジョーンズ博士は種生守と木滝常彦に相対していた。
「国へ帰るんだな? ジョン」
「ああ。十年間世話になった。ユリギノの皆は、私のもうひとつの家族だと思っている。しかし、ここで発揮できる力はあまり多くない……」
しかしと、ジョーンズ博士は大きくひとつ、頷いて見せた。
「蒔菜を、留学させないか」
「馬鹿を言うな、ジョン」
間髪を入れずに否定したのは、父である守ではなかった。
「木滝……」
「ジョン、わかってるんだろう? この村に、蒔菜がもしいなければどうなるか……俺たち大人が、情けないことではあるが」
「彼女のためを思ったら、米国で学ぶことも重要だ」
「おい、ジョン。お前も待ってくれ」
常彦、そしてジョーンズ博士の間に割って入る守は、咳払いをひとつ。
「父親としては、残された唯一の家族のことを、切に願っている。だからこそ、良い嫁入り先を探してやりたいし、その相手が常彦、お前だったらいいとすら思ったことがある」
その発言は常彦には寝耳に水であったようで、親子ほど年が離れた相手のことを、そんなふうに考えたことも無かったのだ。
「何を言っている!」
「ああ、馬鹿なことを言っている。だからその考えはもう捨てた。そしてもうひとつ、ジョン、お前の後妻にとも思ったさ。だが、その考えも間違いだと今は確信している」
一息。
「ジョン。マキナと蒔菜は、引き離すべきではないか?」
それは、明治の男である常彦や、敬虔なクリスチャンであるジョーンズ博士の間に、緊張を滾らせる一言でもあった。
誰も口にしたことは無かったが、マキナと蒔菜の異常と言える親密さは、男達の、親からの目線で見ても、親愛ではないように映っていた。
「まだ、嫁の行き先も決まっていないだろう。マキナは特に、価値観の違う男と引き合わせるわけにも行くまい」
「……守、それでいいと思っているのか?」
ジョーンズ博士の確認に、守るは「ああ」と短く答えた。
「いいに、決まってる」
ふたりの少女にしてみれば、神の見えざる手に運命を掻き乱されているかのような結論が下されていた。
◇
「マキナ」
吐息が白くなり、たなびく朝。
種生蒔菜は、指先を擦りながら空を見上げていたマキナ・ジョーンズに、声をかけた。
この十年の交流の中で、もっとも重く。
「蒔菜」
互いの名を呼び合い、ただそれだけで。
村の入り口に建立された例の祠の前で、ただ肩を寄せ合う。
最早ふたりは、周囲の目を気にしなくなっていた。
ジョンソン・ジョーンズ博士が、本国からの召還に応じることとなった。
当然ながら、娘であるマキナも。
「似合っているわ、蒔菜」
帰国することを伝えたマキナは、刺繍を施したリボンを、蒔菜に贈った。
それは今、蒔菜の髪を束ねる髪紐に重ねて、結わえられている。
「もらいっぱなしは、癪じゃない?」
そう言って蒔菜は、マキナの胸に握りこぶしを落ち着けた。
「もらってよ」
手のひらを開く。そこには、千歳緑と生成りの糸で編み込んだ、組紐だ。
「わあ、綺麗ね」
「これを見たら、思い出してほしいの。ポプラを植えた日々と、雪に覆われるこの村を」
遠く、遠くに視線を向けて。
蒔菜は、呟いた。
「女学校を作ったら、英語の教師は貴女に任せようと思ってたのに」
「蒔菜ったら。冗談はよして。もう十年も使っていないのよ、英語なんて」
「国に帰ったら困っちゃうじゃない。今からわたくしを相手に、練習する?」
冗談めかして言った蒔菜に、しかし、薄緑の瞳を向けたまま、マキナは瞳を潤ませる。
そして。
「神様に祈るわ。貴女が健やかであることを」
「ふふっ。必死な乙女の神頼みは、きっと極上の甘露よ」
「ええ。わかってる。神様にはたくさん、味わってもらわないとね」
組紐のように、ふたりの指先が絡まり合う。
永遠の誓いは、交わされぬまま。
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