揺貴の蒔菜、ジョンのマキナ(1)
ストーブの中で薪が爆ぜ、黒煙が煙突を抜けていく。
わずかな暖気は断熱効果の薄い壁を、屋根を抜け、分厚く積もった雪を解かす。
その雫は屋根を伝い落ちる途中で、氷点下のきらめく空気によってまた、凍れていく。
与えられた部屋の窓から、そんな景色を眺めているのは、まだ年若い女だった。
やせ細り、乱れた髪。
あかぎれと節くれ立った手指。
皮が鱗のように捲れた薄い口唇には、紅が。
ストーブが爆ぜるのにあわせて、女は身を折った。
咄嗟に抑えた飛沫。寝間着に滲んだ紅をじっと見つめ、嘆息。
窓の外には育ち始めたポプラの並木。
揺れる木枝に、女は思いを馳せる。
十代の多感な頃を共に過ごした、同じ名を持つ異国の少女を。
そして、震える手で、ペンを持つ。
帳面に連ねた文字は、
マキナ、余の半身よ。
◇
明治二十二年、屯田兵の入植としては最終期にあたるこの時期。
木滝常彦は食い扶持を求めて、北の大地へと足を踏み入れた。
氾濫を繰り返す河川の大排水として掘削された、人工河川は完成したばかり。
そこからさらに北、幕府が健在だった頃から切り開かれた港町からは東という立地で、無限に広がる湿地と原生林、そして暴れ川が残した三日月湖が幾つも。
「こんな所に、本当に田畑やら町並みやらを、創れるものか」
思わずぼやいた傍ら、幼子ふたりを連れた男が、「できるさ」と力強く宣う。
種生守。維新の頃には元服していたはずの男が、腰のあたりにしがみつく長男の頭を撫でた。
一方で、両の脚でしかりと大地を踏みしめる少女は、風に遊ばれる髪を押さえつけ、大人ふたりにくるりと向き直る。
「とってもワクワクしますね、父様、常彦さん! ここが、わたくしたちの街になるんでしょう?」
無邪気な娘の笑顔に、守は苦笑せざるを得なかったようだ。
「蒔菜、お前ももう十二になる。苦労をさせることになる。梅共々、な」
「母様だって百も承知で、付いてきたんでしょう! わたくし、たくさん学んで、きっと歴史に残る女傑になるわ」
額に手を当てる守の横、常彦はからからと笑い、そして蒔菜の頭を撫でた。
千歳緑と生成の組み紐で設えた髪飾りが揺れる。
「子供扱いしないでくださいませ、常彦さん!」
「おうおう、じゃじゃ馬だのう。イヤだというなら、少しは淑女の振る舞いを覚えねばな」
むう、とむくれる蒔菜の瞳には、厳しい環境を切り開くという期待感が、溢れ出していた。
◇
開拓自体は、他の地域と比べても遜色なく、むしろ順調といってよいくらいに進んでいった。
その一助を担ったのが、木滝常彦の隠れた才能にあったことは、入植から一年経った今は誰もが認めるところだった。
彼は、英語を習得するのにあまり苦労をしなかったのだ。
大規模な人工河川が完成し、多くの技師たちが引き揚げていくのと入れ替わるように入植した揺貴屯田兵村が、機械技師たちと交流しその技術をふんだんに吸収出来たのも、木滝常彦のコミュニケーション能力があってこそだった。
そしてもうひとり。
西洋風の生活様式を採り入れられたのも大きいが、その立役者が、十三歳を迎えた種生蒔菜の存在だった。
彼女は好奇心を発揮し、家のことをやらずにお雇い外国人たちの家族の輪に飛び込んでいった。
木滝常彦以上に英語を身に付け、通訳ができるほどにまで成長した彼女は、
『私の後任もよろしく頼むよ』
そう言って去っていく技師が大量の書き付けを残していき、それらを全て翻訳してしまったのだ。
開拓者達は、種生蒔菜という少女が途轍もないことを為したと、讃えた。
「うちの娘を甘やかさないでおくれ。家のことをひとつもしないで、嫁のもらい手が無くなってしまうわ」
母の梅がそう嘆くのを、木滝常彦はいつも宥めていた。
「御一新があり、もはや武士の時代ではない。俺だって、世が世なら腕っ節で成り上がろうとするもんだが、今やこの腕が握るのは斧と鍬……と思いきや、米国制の機械を直すための工具だ。昔ながらのままじゃ、この北国ではやっていけねえや」
「んなこと言ったって常彦さん、あんたらが外で流した汗を、誰がねぎらってやるってんだい? 女じゃなきゃできないこと山ほどあるのよ」
「蒔菜ちゃんは、蒔菜ちゃんにしかできない翻訳って仕事を、山ほどなしてしまったのだ」
「えらいことをしたもんだ」
夜、兵舎で母と木滝常彦が言い争っているのを聞きながら、それでも蒔菜は父にくっつき、その貪欲な好奇心を満たしていた。
「父様、わたくしはどうしてこのようなハイカラな名前なのですか」
「俺は種生の家を守る。長女のお前は、家名にかけて種をまくような子になってほしいと願った。弟は、巻いた種が芽吹くことを祈り、芽吹とした」
明治の御一新を境に、父はそれまで生き方を変えてきた。
名前すら捨て、新たな知識と技術を得て、政府からの招聘に応じて一家で移住を決意した学者である。
母の梅もそれを良しとしたわけでは無かったが、こうして付き従いながらも旧来の家を守らんとする姿勢は、案外バランスが取れていた。
だが、北国での一年に及ぶ開拓生活が、長女の父譲りな思い切りのよい学者肌精神に火をつけてしまった。
「へーんなの! でも、この名前のおかげで、お雇いさんのジョンさんっているでしょう? ジョンさんの娘さんと仲良くなれたわ。彼女もマキナちゃんっていうのですって」
「そうかい。入れ替わりでお見えになったジョンソン博士だね」
「家名はジョーンズ! ジョンソン・ジョーンズって、舌を噛みそうだわ」
「そうだねえ。米国の人は、難しい名前をしている。お嬢さんのマキナちゃんとは、英語で話しているのかい?」
問いに、蒔菜は目を輝かせる。
「そうよ! 今度、刺繍を教えてくれるの。わたくしより一年若いのに、大した技術を持っているわ」
「くれぐれも、ご迷惑のないようにね」
「まっ。わたくしが何かをしでかすかのように思っているのね?」
「常識がないからなあ」
彼女が語るように、新しく赴任した機械技師ジョンソン・ジョーンズは、ひとりの娘を伴って揺貴屯田兵村に住み始めた。
いわゆる、お雇い外国人と呼ばれる技術者たちは、政府が雇用したこともあって、開拓使あたりに住まうものが多かった。
しかしジョーンズ博士は、多少環境が厳しくとも、最前線に住むことを決意したのだ。
『僕は妻を亡くしたばかりでね。マキナを連れてやり直すには、とてもよい仕事だと思ったんだ』
木滝常彦にそう語りかけ、ジョーンズ博士は煙草を燻らせるのと見紛うほどの白い息を、立ち上らせた。
『僕のエゴだと思うかね?』
しかし、木滝常彦は、ただ英語が話せるようになっただけの、食い扶持にあぶれた程度の男だ。答えなど持ち合わせていない。
『俺、革命から逃げた。木を切り、畑を耕し、粥を飲む』
『常彦君。君や、守君のいるこの土地だからこそ、僕はここに来てよかったと思う。木を切り、畑を耕し、腹を満たせるようにする事が、使命なんだ』
凍れる指先に息を吹きかけ、ジョーンズ博士はにこりと微笑む。
『大志を抱くのは、少年たちの特権じゃない。未来を切り開く最前線に立つのは、そう、君たち大人だ』
『神に祈るしかないか』
『帰依するのかい?』
『馬鹿な。この国は別嬪の女神様がいつも見守ってる。お天道様、畑の神様、芸事の神様』
『アミニズムに似た考えだね』
そんな談義を大人たちが交わす中、子供世代もまた、交流を重ねていった。
ジョーンズ博士の一人娘であるマキナ・ジョーンズ、そして種生蒔菜のふたりだ。
『ねえマキナ。ジョーンズというのはそちらの言葉で、どういう意味なの?』
『ジョンの、と言う意味よ』
『日本風に直すと、神野、みたいに字を当てるのがいいかしら』
『あら、漢字ってアメージングね!』
そんな他愛のない話から、お互いの国の言葉をはじめ、宗教、食、算術、恋愛観、家族での立ち位置、昨日の夕食、なんでも教え合った。
母の梅などは「家のこともしないで!」などと憤ってもいたが、遠く開拓の地に同年代の娘などいない蒔菜の心情を慮って、あまり口うるさくは言わなかった。
むしろ妻を伴わぬジョーンズ博士の身の回りの世話をしてやり、マキナに火事炊事を仕込むなど、悪く言えば
「恩を売ってやってるのよ。お金持ちのお雇いさんに」
などと険しい顔をして周囲に嘯いて回った。
そんな開拓地の、屯田兵村の生活も、五年が過ぎた。
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