事案第十七号「キャパシティ」(1)
生活が一変したと感じられるのは、ほんの些細なきっかけなのかもしれない。
まず、お弁当が華やかになった。
涼しい季節がやってきたことと、ご飯をそもそも冷ますのが面倒ならパンにしたらいいじゃないかと気付いたこと。
毎日野菜をたっぷり挟んだサンドウィッチと、作り置きのザンギを持つようになった。
お昼休みは、ユリギノさんのお社に逃げ込む。
こっそりと、逃げ込ませてもらっている。
クラスから。
留学生から。
そう。
留学生ことイトコ・リリーバーグさんは、ことあるごとに話しかけてくる。
それを面白がった笹芽さんから聞いた話だと、どうやらわたしを「孤高の撫子」などと呼んでいたひとたちは、わたしを「黒撫子」、リリーバーグさんを「白百合」と言っているらしい。
なんだそれ? と思ったけど、どうやら誉め言葉らしい。
「ふたりともハシバミの瞳で、ミステリアスだから。みんな推しちゃうんだよ」
とまあ、笹芽さんが興奮気味に言うので調べたら、どうやら榛色というのがあるらしい。
くすんだ黄色。あるいは緑。
それなら今のわたしは、緑色の瞳の怪物ではないか。
二年生が修学旅行に行く前、最後の日。
白瀬先パイとの時間はほとんどなかった。
リリーバーグさんが白瀬先パイのそばを離れなかったのは、彼女がホームステイをしているからで。
わたしが連絡できないのも、そのせいだったって。
そしていま。
わたしと先パイとの時間を奪う相手が、わたしの周囲を彷徨いている。
彷徨いているだのと表現してしまう自分が、気持ち悪い。賤しい。浅ましい。
わたしは筵売りに身をやつしても高潔でいられるタイプじゃない。
老婆の着物をはいで闇夜に消えるタイプでもない。
ただただ嫉妬する、小さい女だ。なにが撫子か。
最近、鏡を見ても、笑ってない笑顔の自分がいる。
髪の毛くらい真っ黒な感情が、顔面に染み出しているみたい。
顔色くらいに白くなれたらいいのに。
顔を洗うときですら、あまり鏡を見られない。
きっと薄汚れた顔をしているんだろうな。
「いやな女ですよね、わたしって」
ユリギノさんに聞こえるように呟いて、
「そうかしら」
「ぎゃっ!」
社殿の中からの思わぬ声に、悲鳴が上がってしまった。
「じっ……神野先輩」
「うふふ。驚かせてしまったかしら?」
社殿から出てきたその人は、わたしの隣に立って、小豆色のロングスカートをはためかせる。
気付けば、風が強い。
黄金色のポプラ並木がざわわとざわめき、まるで世界に、わたししかいないかのような喧噪に包まれる。
「綾街一香さん。貴女の悲鳴が、聞こえてきた気がしたわ」
実際に上がった悲鳴だ。
聞かれていて不自然なんかない。
「まだ、心臓がバクバクしてます」
「そうではなくて」
すと、と。
軽い足取りで、神野先輩はわたしの正面に回り込んできた。
「貴女って、考え込むとぐるぐるぐるぐると、デフレスパイラルみたいに沈んでいくのね」
指摘。
たしかに、わたしの株価は下がり続けているんだろう。
だけど、それってわたしが悪いのかな。
「神野先輩は、違うんですか?」
「さあ、どうかしら。チャンスはあっても、一歩を踏み出さなかったおかげで重ねた後悔というものは、あったかもしれないけれど」
そう言って微笑む神野先輩は、どこか寂しそうで、色素の薄い瞳をどこか遠く、寂寥の中に向けているみたいだ。
「ねえ、綾街一香さん。夏休みからこっち、この揺貴町の歴史を調べてくれているようだけれど、どう思ったかしら?」
その問いが、わたしの嘆きとつながりがあるのか、それとも気分転換を促してくれているのか、どちらなのかはわからない。
けれども、サンドウィッチをかじりながら考えつくのは、
「先人の努力と、知恵の結晶なんだなと思った――というのは、神野先輩が求める答えではないんでしょうね」
そんなずるい答え方になった。
やっぱりわたしは、性格が悪い。
「最初に疑問に思ったのは、どうして神野先輩が、わたしにこのテーマを与えたのか、っていうところだったんです。本当にわたしが知るべきことは、一体なんだろうか? 三ヶ月くらいかけて色々と知ったことは多いですけど、見落としていることはなんなのか……こういうところにきっと、神野先輩は、興味を持ってないですよね」
わたしの答えに、神野先輩は唇の端を持ち上げた。
「よくぞそこまで辿り着いたわ」
お眼鏡に適ったらしい。
「メタな推測も込み、ですけどね」
「そこまで推測、推察できる一年生は、とても貴重よ。貴女、勉強も出来るでしょう?」
こう見えても一応、特待生。
上位五パーセントの成績か、全国模試で偏差値六十以上を取ること、という学校側の求めに答えられる程度の学力はある。あろうとしている。
だけど、神野先輩が言いたいのは、そういうところじゃないんだろう。
「帝大に行くくらいには」
だから適当に答える。と、
「いいわね。農学校で、郷土史の知見でも深める?」
上機嫌に、そんなことを言われた。
農学校。帝大の設立当初の名前だ。
「きっと神野先輩のことだから、そっち方面に行って欲しくないと思って、言ってますよね。わたしに調べさせたいのは、農業や開拓の歴史そのものではない、と」
「うふっ。本当に、好ましい女の子だわ」
うれしそうに言って、神野先輩は両手を広げた。
「知ってほしいのは、このお社。このポプラ並木。どんな思いを、どんな思いで、どんな人が綴ってきたのか――その一端には触れているだろうし、解き明かす日も近いのではないかしら」
大仰に、芝居がかった仕草で大見得を切る。
そんな神野先輩を見て、ようやくその真意がわかった気がする。
このユリギノ女学院がタブーとしていることを、暴けと言いたいんだ。
「知っていたらでいいんですけど、先輩」
「何かな?」
「ユリギノさんがおかした禁忌とは、ユリギノの日に生徒会長たちが読み上げた宣誓に関係があるんですか?」
校是である、ポプラ並木の如くあれ。
そして、ふたりの生徒が読み上げる宣誓文。
伝統は、きっと何かを覆い隠している。
「知りたい?」
神野先輩が素直に答えるとは思っていなかった。
足音も無くお社の階段を上がり、遠慮無く社殿の扉を開ける神野先輩。
慌てて残ったザンギを口に放り込んで、立ち上がる。遅れないように。
ふと、犬の鳴き声のような音を聴いた。
神野先輩も足を止めて、苦笑する。重たい前髪の向こうが、八の字に下がった。
「もう。常彦さんったら」
「つねひこさん?」
聞き返したけど、神野先輩は小さく首を振った。
「北狐も、人を化かすのかしらね」
「今の鳴き声って、狐ですか?」
「都会っ娘は自然と触れ合わないから、ご存知ないのかしら」
「近づいてはいけない生き物だから、ですね。朝日神社にいたのは、驚きましたけど」
「朝日さんはお稲荷様だもの。祭神として、宇迦之御魂神が並んでいたでしょう?」
ウカノミタマがいるから、というのは、地下鉄駅もある栄えた場所に、北狐がいることの理由にはなっていないような気もする。
だけど、神野先輩はさも当然かのようにいうのだ。
「神様って本当にいるんでしょうか」
「ふふっ。気になるなら、ついておいで」
北狐の警告を無視して、社殿に入る神野先輩。
後を追う……前に、一応靴を脱いだ。
中は細長い部屋で、六畳間くらい。
奥には御簾が下がっていて、手前の板張りの空間には潰れた座布団が積まれていた。
「勝手に入っていいんですか? っていうか、中で何をしていたんですか? そもそも神野先輩って二年生ですよね、修学旅行は?」
畳みかける質問に、神野先輩は笑みをひとつ。
「女神には全部関係ないでしょう」
それは、自称女神という不遜な宣言か、ユリギノさんという女神様への信頼か。
いずれにしても、神野先輩の態度は実に不遜で、傲岸で、
「失礼なことを考えている顔だわ」
半眼で見つめてくるのには、妙な迫力がある。
「不思議よね。これだけ浄められている静謐な空間なのに、学院の行事は中で執り行われないのだから。生徒たちの宣誓だって、このお社に向けて読み上げられるのであって」
確かに、儀式の光景を思い出すと、神野先輩の言うとおりだ。
校内に神主さんが居るのも見たことがないし、誰が、手入れをしているんだろう?
座布団だって古いけど朽ちてはいない。
床も黒光りしている、大正時代からのものと聞いたら驚く自信があるくらい綺麗。
「この床、というよりは社殿全体はね。戦火を免れて、建立当初から変わってないわ」
いつもの読心めいた神野先輩からの発言に、自信があったとおりに驚いた。
「どうして考えていることがわかるか? ふふっ。どうしてかしらね?」
「本当に不気味な人ですね」
言いながら、辺りを見渡す。とは言っても窓なんてなくて、入り口から差し込む僅かな光だけ。
あまり細かいところは見られない。
だから、一瞬反応が遅れてしまった。
御簾の向こうに、神野先輩が遠慮無く入っていった!
「神野先輩っ?」
思わず駆け寄る。
と、神野先輩は携帯電話のライトで、御簾の奥を照らしている。
「あれ、ご神体」
「と、とんでもない……罰当たり!」
わたしの反応を見てけらけらと笑う神野先輩が、なんだか化け物みたいに見える。
「あの桐箱にはね、ユリギノさんがまだ、人として扱われていたころの遺品が眠っているの」
人として。
その言葉の意味は、郷土史の研究の最中に行き当たった。
この揺貴町に入植した屯田兵の一家。その長女が、風土病を封じ込めた。
その功績と、若くしてこの世を去った悲劇性から、このお社が建立された。
そして。神性を得た、という。
「揺貴蒔菜比売。彼女が残した遺品は、戦後に増えていたそうよ」
「はい?」
神野先輩が照らす先、桐箱は、ふたつあった。
どちらもかなりの年代物に見える。けれども、色味だとか、封印の仕方が、多少の時代の差がありそうに思える。
「中に何が入っているのか、神野先輩は見たことがあるんですか?」
「もちろん。古い方は臙脂に銀糸の刺繍のリボン。新しい方は、千歳緑に生成の組紐が結わえられたロザリオよ」
にまっと笑ったのが、暗闇の中でも見て取れた。
「どうして」
その続きを発する前に、神野先輩は言葉を重ねる。
「組紐に籠められたのは、永遠を願う無垢な祈り。リボンを彩る銀もまた純粋さ。ふたつは混ざり合うことなく、けれど寄り添って今に至るのよ」
神野先輩の、重たい前髪の向こう。
「綾街一香さん」
携帯電話のライトが、こちらに向けられた。
咄嗟のことで顔を逸らせず、強烈な光に目が焼かれた。
何も見えない。
その向こう。
どんな顔をしているのかわからない。
「ここまで辿り着いた貴女には、是非とも来年のユリギノの日に、宣誓文を読んでもらいたいわね」
「どういう、意味ですか……」
その問いに答えはなく、床板を蹴る音が、社殿を出て行った。
きっと、小豆色のロングスカートをいつもどおり翻して行ったのだろう。
――ん?
夏の間もずっと、そうだった気がする。
「神野先輩は……どうして、ここにいる?」
ひとりごちたところで答えなどない。
徐々に視界が生き返っていく。
けれども、取り残されたわたしは、その場から動けなかった。
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