事案第十六号「翻訳」(2)
さて、教室に入ると、廊下側の一番前という定位置に、別の人が座っていた。
「あ、綾街さん! おはよ!」
妙に明るいその人は、座ったまま首をぐりんとこちらに向けた――ように見えた。不気味。
「おはようございます、芝崎さん」
「風邪だったの? 席替えあったんだよ、聞いてる?」
聞いてない。
教えてくれそうなひと、というよりは、わたしの連絡先を知っているクラスメートが、ふたりしかいないわけで。
そんなふたりとも、微妙な関係のまま前期を終えたので、まあ、知らなかった。
「その感じだと知らないよね。ねえ、綾街さんの席ってどこだっけ!」
わたしの反応を待たずに、そんな大声を上げるものだから、注目がこちらに向いてくる。
声の大きさは宇和さんと同レベルで、近くにいると鼓膜を貫通してきそうだ。
けれどもそのおかげで、
「綾街さんはこっち!」
そっちもそっちで大きな声の宇和さんが、手を振ってきた。
あんな微妙な感じで前期を終えたのに、わたしに普通に接してくれようとするのは、なかなかすごいなと思う。
「ありがとうございます、芝崎さん」
頭を上げると、芝崎さんは「いいってことよ」と、ぐりんと首を戻した。
関節はどうなってるんだろう?
不思議には思いつつも、まあ、あまり話す人でもないしな……なんて思って、手を振る宇和さんのほうに向かう。
と。
見知らぬ人がそこにいた。
プラチナブロンドのロングヘアで、生成色のブレザーに小豆色のロングスカートで、ヘーゼルナッツみたいな瞳の美少女。
見知っている。
彼女は、
「おーう! あなたが、あーぃやまっひ!」
なんて?
「えーっ。あーぃやまっひ、いっつくわぁ」
「……どちら様でしょうか」
わたしの困惑に、プラチナブロンドと並んでいた宇和さんと笹芽さんが、「短期留学生の、イットゥ・リリーバーグさんだよ」と 紹介をしてくれた。
「そうですか……。わたしの席は、リリーバーグさんがお掛けですか?」
正直、あまり交流することもないだろうし、留学生がクラスに増えたところでどうでもいいのだけど。
芸術鑑賞会の日に、受付で先パイにくっついていたという関係性だけは、気になる。
でもまあ、そのうち、だ。
「ゴメンナサイ。あーぃやまっひ!」
「呼びにくいなら、呼びやすいようにどうぞ」
「りょうかい、イッチャン!」
それは言えるんだね。
呆れたような、どうでもいいような、なんていうと相手に失礼なのかもしれないけど。
だけど、とりあえずわたしは、座らせてほしかった。
「あの。あまり体調が優れないので、避けてもらっていいでしょうか」
「おーう! ゴメンナサーイ!」
飛び跳ねるように立ち上がったリリーバーグさんは、ささ、どうぞとでも言うようにわたしの腰に触れて、座らせようとしてくる。
なんか、いやだな。
気軽に触れる距離感なしタイプなら、白瀬先パイだってそうなのに、なんだか、してくる人で感じ方が違うんだなと思わされる。
「ありがとうございます」
微笑を作る。
無表情だったかもしれないけど。
だけど、それで、その場にいる三人はなんだか笑顔なので、正解だったんだろう。
来るだけで疲れたな。
……なんて思っていたら予鈴が鳴って、解散。
笹芽さんは前の席らしく、振り返って
「席替えまでよろしくね」
なんて言ってくる。
彼女も彼女で、わたしの言葉で泣いたっていうのに恐怖心とかは無いんだろうか。
担任が来て。ホームルームが始まると、聞くタイミングは逃してしまった。
久方ぶりの窓際の席に座れたわたしは、その声を右耳から入れながら、高くなった空をぼんやり見上げて時間が過ぎるのを待つ。
秋茜がびゅんびゅんと通っていく。
細切れの雲が広がる。鰯雲だか、うろこ雲だか。
見ているとぞわぞわするので、教室内に視線を戻した。
ホームルームが終わって、午前の授業が終わると、なぜだかわたしの席に集まってくる三人。
「ごめんね、綾街さん。席替えからこっち、ここで食べてたから」
申し訳なさそうな笹芽さんに、
「大丈夫ですよ。どうぞ」
席を明け渡すと、「マッテ!」と鋭い声。
「イッチャン! いっしょ、どう?」
「いえ、ご遠慮なく」
お弁当箱をひっつかみ、言い残して立ち去る。
以前に宇和さんと笹芽さんに誘われて三人で食べても、気を使わせるだけだったのだから。
どこか別の場所を探すのがいいだろう。
「綾街さん、どこか行くの?」
かつてのわたしの席で焼きそばパンをかじる芝崎さんに「どこかで」と言い残し、場所を探す。
そろそろ気温も低くなってきたし、冷凍ブロッコリー弁当もやめていいのかもしれないけど。
包みを紐解き、蓋を開ける。
森。
かつて、先パイはそう称した。
自然解凍で食べられるブロッコリーと、コーン。イタリアンパセリも入れてる。
今日は特別に、アルミカップに冷凍ブルーベリーだって入れた。
お昼には解凍されていて、腐ることのない合理的弁当。
それに、プロテイン入りのゼリー飲料。カロリー百八十キロ。
完璧ではないか。
「食事はみんなで美味しく楽しく。栄養第一、味も第一」
母さんが著書にも書いている標語。
ひとりで食べるわたしには、栄養と味は優先しようと思っていて。
もしゃ、と囓ったブロッコリー。
パセリの香味。
粒だったコーンの甘さ。
リンゴ味のゼリー。
ブルーベリーの酸味。
「美味しい」
ほっと息をついて、空を見上げる。
ざわざわと揺れるポプラの枝葉。
「何か、文句でもありますか? ユリギノさん」
しんと、枝葉が鎮まった。
「やっぱり、言葉が通じてるのかな……じゃあ、ユリギノさん。聞きたいことがあるんですけど」
そっと呟く。
「あの留学生さんは、先パイの何なのでしょう」
ユリギノさんからの返事は、ない。
じゃあ。
わたしたちって何と問うたわたしへの回答も、先パイからはないし。
誰が、わたしに何かを答えてくれるんだろう。
「悩める乙女の神頼みは、最上の甘露と言うわよね」
「ひぅっ」
ほんっとうに唐突な声が、隣から聞こえたせいで、わたしはタッパーを落としかけた。
「神野先輩……心臓に悪いです」
「うふふ。ごめんなさいね」
くすくすと笑う彼女は、重たい前髪に隠れて表情が見えない。
「こんなところでひとり、黄昏れている少女がいたのならば、声を掛けないわけにはいかなくて」
「そうですか。相変わらず不思議な人ですね」
「ここしばらく、姿を見かけなかったけれど、どうかしていたの?」
微妙に会話が噛み合わない人だと思う。
だけど、なんとなく、クラスメートたちと違って話してもいって気がするから、不思議なひとだ。
「体調を崩してしまったので」
「ああ。芸術鑑賞会の時に、ね。あれからずっと?」
「そうです。熱が出て、めまいがして」
「それなのに、そんな粗食。よろしくないわよ?」
彼女なりに心配してくれているのは、よくわかった。
「かつて、この揺貴町には、風土病が蔓延っていて。ポプラの成長は、病を運ぶ風から人々を守ったのよね。綾街一香さん、あなたのレポートに、そのことは書いたのでしょう?」
「お目に掛けたこと、ありました?」
「いえ。でも、普通に優秀な生徒は、郷土史の課題でそのことを書くはずよ。だって、寒雁市内でも特にポプラの多い土地なのですもの。そこに目が行かないなら、調べたってことにならないわ」
確かにその言葉には、真実味みたいなものはある。
寒雁北部の象徴が、この防風林なのだ。
「わたくしはね、少女が無理な食事で体調を崩すことをよしとしないの。ねえ、綾街一香さん。その緑だらけは、どういう意図なの?」
「冷凍して持ってこられるので、腐らないです」
「それだけ? 家ではちゃんと食べているの?」
「はい」
「どのくらい?」
「体調を崩している間は、そうですね……身体が動いたら、親子丼を作ってました」
わたしは、神野先輩が仰け反るのを初めて見たかもしれない。
「体調不良で親子丼を? なかなか胃腸が強いのね」
「? 母ならとんかつなどを揚げてくれましたけど」
強風に吹かれたポプラみたいに、神野先輩は仰け反る角度を深くする。
「はあ、すごいわね。今の子は」
「今の子って。いつの時代と比べてるんですか?」
「明治二十年代、かしら」
揺貴町のあたりに屯田兵が入植した時代だ。
たしかそれが明治二十二年。
このお社が祀る、ユリギノさんの家族が入植した年。
「ユリギノさんは、わたしのお弁当を見たら怒るんでしょうか」
「無理なダイエットで体調を崩しそうと思ったら、怒るわね」
「じゃあ、わたしの場合は?」
「腐らないようにという工夫なのでしょう。奇抜だなとは思うわね」
「それって神野先輩の感想では?」
「うふふっ。そうよ。――ユリギノさんと呼ばれる女神さんだって、もともとただの少女なのだから。同じ感性だと思うわ」
そう言って、神野先輩は立ち上がり、小豆色のロングスカートの尻をぽんとほろった。
「じゃあ、綾街一香さん。またね」
「はい。図書室で、でしょうか」
「そうね。……二年生は、明日から修学旅行だから。秋穂白瀬さんに会いたいなら、今日がチャンスよ」
そういえばそうだ。
先パイと会うなら、顔を合わせるなら、確かにそのとおり。
「体調を崩した間に、連絡は入れていたの?」
「……先輩には関係ないでしょう?」
「あら、すげない。ごめんなさいね、老婆心で。…でも、連絡を入れてないのは、わかったわ」
本当に、わたしの心を読んでるみたいで。気色が悪い。
けど、いやじゃないんだよな、と不思議な感覚だ。
「うふふ。よく話すのよ。じゃないと伝わるものも伝わらないわ」
そう言って、小豆色のロングスカートを翻して、
「それじゃあ、またね」
と言い残して神野先輩は去って行った。
ポン酢のジュレを載せて、ブロッコリーを齧る。
口中の柑橘臭が、ほろ苦い。
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