事案第十六号「翻訳」(1)
後期の始業式、わたしは家にいた。
熱を出して休んでいた、というのが正しい。
でもこれで入学式に続き、始業式も休んだという不名誉な記録を更新してしまった。
そもそもの不調は、芸術鑑賞会が始まりだった。
あの日、具合を悪くして、以来、三十七度ちょうどの熱が出て、立ち上がると世界がぐるぐる回って、そして頭が割れた。
いや、大げさ。割れそうだった。
三日間寝込んで、土日を挟んだので、実に二週間ぶりの登校。
「一香、車で送っていこうか?」
出がけに、朝の時間に珍しく家にいた父さんから、そんなふうに提案されたのも、あまり顔色が良くないからかもしれない。
「お言葉に甘えたいけど、学校遠いし……大丈夫だよ」
「子どもが親に甘えなくてどうするの」
「寝込んでたのはごめんね。だけど、普段わたしが家事やってて甘えてるのはどっち? っていう話だよ」
父さんのばつが悪そうな顔。
見ていると、くすくすと笑いがこみ上げる。
うん。大丈夫、わたしは元気だ。
「そんなことより、どう? ちゃんとかわいい?」
きっちりとアイロンを当てたスカートを摘まんで持ち上げると、父さんは大きく頷く。
「すっごくかわいいぞ。母さんの若い頃みたいだ」
「それはイヤ」
拒否しながら、おなかの底からの笑いが出た。
父さんも釣られたみたいに笑っていて、ああ、平和だなあと思う。
この後のことを思わなければ、実に平和な月曜日の朝だと、思う。
結局父さんのごり押しに負けて、朝日駅まで送ってもらうことにした。
いつものルートなら、北藍駅からJRで朝日駅まで行って、そこからバスに乗り換える。JRに揺られる時間が父さんとふたりきりになったことで、気楽と言えば気楽なんだけど。
「最近、学校は楽しいのかい?」
「関係が希薄な親子にありきたりな会話だね」
「そうは言うなよ、一香……実際にそうなんだけどさ。母さんも心配してたぞ?」
「また父さんにだけメールしてるの? この間、直接わたしに送ってって文句言ったのに」
「緊張するってさ」
「親子なのに?」
まったく、我が母ながら信じられない。
でも、それだけ東京での生活が忙しいっていうことだろうし、そのおかげで我が家は苦労せずに暮らしていけるんだから、仕方がないか。
「母さんのおかげで家計は苦しくないんだし、父さんももうちょっと働きかたをセーブしたらいいのに」
「んー、そうだなあ」
苦笑しながら、ハンドルを切る。
「ここでもうちょっと昇級できたら、生涯年収が段違いなんだよ」
はて、そんなものなのだろうか。
今だって父さんは、四十歳としては結構な額をもらっているらしい。
マネージャー? とかいうのが部長さんなのか課長さんなのかわからないけど、管理職なんだとか。
「どのくらい違うの?」
「正確に計算してないけど、役員にでもなったら億プレイヤーだよ」
「母さんとあんまり変わらなくない?」
わたしの指摘に、父さんはちっちっちと、舌を鳴らした。
続いて、ウィンカーの音。
歩行者を待つ。
「母さんの仕事はほら、水物だからさ。父さんが安定して稼げたら、母さんだってチャレンジしやすい。ほら、レストランのプロデュースをしているだろう? あんな大ばくちを打ちたい母さんの支えになるには、父さんがここで頑張るってのが重要なんだよ。失敗したら、帰ってきたらいいんだから」
「そういうもの、かなあ」
ぐいんと、車が動く。
身体が傾いだ。
「夫婦っていうか、支え合うってそういうことだと思うよ」
「支え合う……」
「ほら、人という字は支え合うとかいう名言があるだろう? あんなのは欺瞞でさ」
昔のドラマの引用をしながら、父さんは独自の理論を振りかざす。
「あれをちゃんと見ると、片方にもたれかかってるんだよ。でも、父さんの世界は、コンピューターだからさ。こっちをちゃんと見ると、お互いにもたれかかってるんだよね」
携帯電話を取り出して、ひと、と入力する。
人。
どうだろう?
「父さんは母さんが頑張ってるってことが父さんの支えだし、母さんは父さんが頑張ってると、安心できる。……だといいなって思ってるよ」
「ふうん。そこに、わたしの存在はないの?」
「あ」
父さんは、ばつが悪そうに笑った。
「母さんも、わたしにメールひとつくれやしないし。ねえ、父さん。愛情って、お金を渡すことじゃないんだよ?」
「……それ、母さんにも言っただろ?」
「うん」
「かなりへこんでたよ」
「じゃあ、連絡くれたらいいのに」
わがままなのかな。
そんなだから、わたしは父さんの買ってきたブラを着けて、自分で買ってみたらサイズが合わなくて痛い思いをしたっていうのにね。
わたしのことを見てくれる人が、支え合う人だといいなって思うけど。
「はあ……」
嘆息。
思い描いたひともまた、最近、連絡をくれない。
「青色吐息」
「恋のため息だよ」
「なっ! 彼氏でもできたの!」
「学校の先パイだよ」
「なんだ……この間連れてきた女の子かい?」
「うーん。秘密」
「どうして」
「もっとわたしと時間をとってくれたら、ぽろっと言うかもね」
父さんは手強いな、なんて苦笑して、アクセルを踏み込んだ。
でも、父さんは気付かない。
学校の先パイって、わたし、女子校なんだけどな。
◆
ユリギノ女学院は、数キロに渡るポプラ並木の防風林の端っこに位置する。
まっすぐな通りがあって、父さんの走らせる国産車は、色あせ落ちかけたポプラ葉の下をゆったりと走る。
「ねえ、父さん。乗りたい車ってないの?」
「藪から棒にどうしたんだい」
古びた国産車。
たしかに見た目はかわいいと思う。
父さんのこだわりがあるならいいけど、実際のところはどうなんだろう。
「うちの学校って、本物のお嬢様が結構多いから。社長だとか医者だとか市議会議員だとか」
「それと比べたら、父さんなんかしがないサラリーマンだなあ。そういう人が外車を乗り回すのと比べちゃいけないよ」
「身の丈ってこと?」
「そうそう。この車だって、一香が二歳のころに買ったけど、それまでは父さん、軽スポーツに乗っていたよ」
意外な事実。
父さんは、車が好きだったっぽい?
「だけど、一香のおむつを二箱買おうと思ったら、乗せられなくてね。それでこの車を買ったんだよ」
「実用性なんだね」
「あとは、愛着だよ。今の時代、マニュアルを買おうと思うと選択肢がないからね」
「愛着、ねえ」
頬杖を突いて、外の景色を眺める。
確かにわたしだって、この制服を着たくてユリギノ女学院を選んだ。
それもひとつの愛着なんだと思う。
愛着が、進路を決めることがある――郷土史の課題って、そういうことなのかもしれない。
「ねえ、父さん。わたし、大学はどうしたらいいかな」
「うーん。父さんとしては、いけるなら帝大に行って欲しいな」
「どうして?」
「高いところに陣取って、一気呵成に攻め込む。これが兵法の上策だよ」
「水場を抑えられて干上がらない?」
わたしの質問に、父さんは「ふふっ」とお上品に笑った。
「そういうのを生兵法という。ちゃんと学校に行って、ちゃんと学べば、ちゃんとした兵法を身につけられるものだよ。帝大にいける頭があるなら、ちゃんと学ぶ頭があるってことだから」
「そういうもの、なんだろうね」
なんとなく納得はできる。
「でも、学部とかどうしようかなあ」
「まだ一年生だし、ゆっくり考えたらいいけど……興味があることに繋がるのが、いいよね。一香は本が好きなら、文学部とか教育学部とか……司書やら学芸員っていう選択肢もあるよね」
「そうだねえ」
すっと提案出来るあたりは、さすがの大人なのかもしれない。
もっと話したいと思えるから、父さんとの会話は好きなんだけど、目の前のポプラの密度が一際濃くなった。
学院の敷地に差し掛かった。
それと共に、ピカピカの黒塗りの高級車だったり、見たこともないエンブレムの車だったり、逆にパステルブルーのキャラクターつき軽自動車が現れ始める。
車止めに、古びた国産車が滑り込む。
腰を屈めて、すんません、と言う小さな声と共に謎のチョップ連打で割り込むみたいに。
「確かに、この高級車の中に、この子は違和感があるかもね」
苦笑する父さん。
でも、それがなんだか、心地よく思える。
「大事なのは、人だから。ね、父さん」
「人、だねえ」
「じゃあ、わたしが立派な人かどうか、学校に入っていく姿で見極めてね。こうみえて、孤高の撫子って言われてるんだよ、わたし」
とてもじゃないけどまともに言えない、陰ながら呼ばれてる二つ名を父さんに言うのも、恥ずかしいけど。
だけど、こういうときに限って言えば、遠巻きにアイドル視されてる今のわたしは、誇ってもいいのかもしれない。
実直な車から降りて、吹き荒ぶ風に小豆色のロングスカートを翻して、暴れる髪を緩く抑えて。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
背筋を伸ばして歩く姿は、先パイに誉めてもらえたわたしの姿勢。
背が低くたって、ちんちくりんだって、背筋を伸ばしたから花に例えられたんだから。
校内に入ったわたしに、父さんからのメッセージ。
『歩く姿は誰よりもかっこよかった』
かわいいって言ってよ、んもうっ。
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