事案第十五号「観覧マナー」(2)
自由席だということは、どうやら受付で教えてくれることらしい。
小ホールの入り口で戸惑っていたわたしは、やたらと腹筋から声が出ている係員の生徒に促されて、中段くらいの適当な席に腰掛けた。
端っこなので、誘導してくれた係員が何度も往復する。
「今日の声出し、やる?」
などと言っているので、応援団なのだろう。
と、どうしてそんなどうでもいいことに意識を向けているかと言えば、なんだか平衡感覚がおかしい気がするからだ。
すり鉢状の座席だとか、壁の吸音だとか、初めての経験に舞い上がっているからかもしれないし、ここ最近の寝不足だとか、近々ある模試のことだとか、考えすぎなのかもしれない。
「アナ部は今日、解散でいいって!」
応援団じゃなかったらしい。
アナ部。アナウンサー。だから腹筋を鍛えているのかな。
自分のお腹に手を添えてみる。
厚い生地のブレザー。
薄いブラウス。
速乾素材の裏地つきタンクトップ。
皮膚。
皮下脂肪……筋肉は、あまりない。
そりゃあ、ねえ。
先パイもあのブロンドさんに抱きつかれたら、きっと気持ちいいよねえ。
身長が低くたって、胸元の肉付きが中学生以下だって気にしたことなんかなかったの。
目の前が暗くなった。
すわ何事かと思えば、簾みたいに髪が落ちてきていた。
毛先が胸元で揺れる。
薄い胸。筋肉もないお腹。
きっと白瀬先パイと話ができたら、得も言われぬ不安なんて感じない。
だけど。
笹芽さんに自分が言ったことが、突き刺さる。
会話しなよと、どの口が言ったものだか。
やがて、ホールの扉が閉じられた。
ざわめいていた生徒たちも、空気の変化を瞬時に感じ取って、さざ波が引くように音が消えていく。
消音素材は優秀なのか。
わずかな衣擦れも、誰かの咳払いも、現実感を包み込んでかき消される。
照明が落ちると、ふわりと宇宙に投げ出されたみたいに、身体が沈み込む。
ああ、重力が、柔らかいシートに押し込んできているんだ。
『ユリギノ女学院の皆さん、ようこそ。今日は芸術鑑賞会ということで、大勢お集まり頂けたこと、嬉しく思います』
登壇したドレス姿の女性が、マイク越しに話すのも、どこか遠い場所から耳打ちされているみたい。
『母校の後輩に演奏できること、ここにいる一同嬉しく思っています。ユリギノ女学OG編成なので、ちょっと偏っていますけど、全員プロです! 音大に入ったばかりのわたし以外!』
笑っていいのかわからない。
周囲の反応から、去年の生徒会長らしい。
『端から、フルート担当、古内東子さん。平成二十年普通科卒の』
メンバー紹介が終わり、どこかで聞いたことのあるピアノの旋律。
ああ、中学生のときに合唱コンクールで歌った、スメタナの、なんだっけ。
せせらぎが、祭りの賑やかさに彩られ、雄大な流れとなって、祖国を想う様、モルダウだ! すっきりした。
雄大さに身を委ねていると、いろんなことがちっぽけに。
ふわふわと熱を持って、岩に当たって飛沫を上げて、キラキラとせせらぎが。
あれ。
なんかへんだ。
気付けば違う曲だ。
昭和歌謡? 未来だ信じてるだのどうのこうの。里奈ちゃんが歌ってたのって、ああ、隣のクラスの自由曲だ。
歌詞がないのに伝わるってすごいな。
わたしは言葉がなくて不安になってるのに……。
母なる大地への賛歌に脳を揺られながら、身体が動かないことに気付いた。
これが金縛りっていうものか。
それともめまいでも起きてるのか。
目の前が真っ白になった。
いや、明かりが付いたのか。
耳の奥にざわめきが広がる。
椅子に沈んだわたしの足元を、小豆色のロングスカートが越えていく。
休憩時間か。
そっか。
少し外の空気が吸いたい。身体が動かない。
あれ?
腕ってどうやって持ち上げるんだっけ。
「無理に動くんじゃないよ、綾街一香さん」
見知った顔が、聞き覚えのある声が、すぐそこから。
「神野先輩……?」
「人を呼んだ。すぐ来るよ」
何を言ってるのかと思えば、確かに小走りの足音が聞こえてきて、わたしの身体に遠慮なく触ってくる人で、「綾街」耳元でささやく声に、鼻の奥が刺激された。
「ありがとう、神野さん。私が、連れて行くから」
「それがいいね、綾街一香さんには、わたくしよりあなたが、秋穂白瀬さんが特効薬よ」
変な会話、なんて思っていると。
身体は自然に動いていて、ホール外のベンチまで、腰を支えてくれる先パイに身体を預けていて、
「……先パイっ?」
「お、気付いた」
銀縁眼鏡の奥が、ふにゃっと緩んだ。
壁にもたれ掛かれるところに座らせてくれて、ループタイを緩め、第一ボタンに指がかかる。
そこで一瞬の停止。
「ボタン開けるよ?」
「……先パイのえっち」
「冗談言えるなら大丈夫か」
笑いながら、ボタンをふたつ、ぷちぷちっと外してくれた。
「顔が赤くて白いけど、どう?」
冷たい指先が、わたしのおでこに添えられる。きもちいい。
「ねえ、先パイ」
「うん」
「音楽ってすごいですね。音符の洪水で流されていくみたいでした」
「……その状態で、感性が豊かだなあ」
「言葉にする力ですよ」
言葉が無くても伝わる奔流を、言葉で伝えるなんて、なんて滑稽。
だけど。
この感情だって、川の流れみたいに流れていくから。
「ねえ、先パイ」
「うん」
顔をのぞき込んでくるその瞳を、じっと、見つめ返す。
あのお祭りの夜なら、きっと今頃、瞳を伏せて先パイを待った。
いや、先パイに覆い被さったかもしれない。
だけど今は、
「わたしたちって、何?」
急流が、荒れ狂うのか、恵みに祝い踊る大河となるのか。
この質問に委ねた。
「後半、始まるので閉めまーす」
放送局のアナ部さんのよく通る声。
動かない、白瀬先パイの口唇。
「……ごめんなさい、余計なことを言っちゃいました。時節も弁えず、すみません」
先パイの胸を押して、距離をとる。
顔が上げられなかった。
わたしたちって、何? なんて。
自分でもわからないのに、なんてことを訊くんだ。
ベンチから立つ。
「綾街っ」
手が掴まれた。だけど、その冷たさが妙に熱くって。
追いかけてこようとする先パイを振り切って家に帰ったと気付いたのは、次の日の朝に体温を計測した瞬間だった。
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